天使の抹茶ラテと悪魔の落書き⑨
【幽霊女と本屋のダメ店主】
「卑怯だよなあれ……」
歩行者用の赤信号を睨みながら、呟く。
あの格好にあれほどまでの破壊力があるとは思っていなかった。
幸夫の土下座は、裕也の『断る勇気』という心の中の防波堤を粉々に粉砕してしまった。だがその土下座は、断る勇気と一緒に、幸夫に対する恐怖心も粉砕してくれたのだった。
幸夫は裕也を柵から引き上げると、「これが話の締めです! 僕はコレがやりたかったんですよ」とでもいうように勢いよく土下座をした。土下座の前にしばらく考え込んだふりをしたのだが、それは引き受けるか引き受けないかを考えていたのではなく、自分の心の防波堤の薄さに愕然としていただけにすぎない。
行ったふりだけしようかという考えが何度も頭をよぎる。
それでも気の弱い自分はしっかりお使いを頼まれるのだろうなと確信している。言う事を聞かなかったらやはりたたられるのだろうか?
「ホントに幽霊だし」答えるように呟く。それにしても、幽霊に土下座をして許しをこう場面は想像出来るが、幽霊に土下座をされる事などない。稀有な経験をさせてくれた事に免じて頼みを聞いてやるかと、裕也は自分を納得させたが「ホントに幽霊かなぁ」と口が呟くので、まだどこかで少し疑っているようだ。
暗い夜空は晴れているのに星は見えなかった。裕也のため息が薄い雲のように浮かんで消える。
裕也は足早にタクローの本屋へと向かう。歩きながら携帯電話の時刻表示を見るとすでに夜の十時を回っていた。たしか、クーゼはすでに終わっている時間だ。
「アヤノさん居たかな……」
そう呟いて、目の前の歩行者用信号が赤になるのを見た。信号待ちをしていた高級車やタクシー達が裕也の目の前を交差し始めた。夜の麻布十番は昼にも増して高級車が通る。さっき波音に聞こえた気がしたが、間近で聞くと似ても似つかない。
ベンツ、BMW、ジャガー、タクシー……
もっと高そうな車も見られるが、車に疎い裕也にはピンと来ない。
あのような車の助手席にアヤノさんを乗せてドライブなどをする日は本当に訪れるのだろうか。ふと信号を見る。赤い色が「そんな日は来ません」と暗示しているように思えて、再び交差している車の群れを見る。
タクシー、ベンツ、女の人、リムジン……
具体的にいくら位かかるのだろう。買うお金だけじゃないはずだ。維持費もかかっているだろう。今通ったリムジンは運転手の給料もかかるはずだ。でも女の人には維持費はかからないけど、何よりアヤノさんと二人では乗れないな。
……。
目の前の横断歩道の真ん中に、いつの間にか女の人が横たわっていた。出現が突然過ぎて頭が追いつかない。
片側一車線の狭い道の為、女の人を挟むように車が行き過ぎる。
「轢かれた?」
自分に聞くように呟いてみるが答えはない。
辺りを見回す。反対の歩道には裕也と同じく信号待ちをしている母親と小さい子供が手を繋いでいる。距離で言えばすぐ目の前で横たわっているその女の人には見向きもしない。
少しずつ頭が状況を飲み込み始めた。と同時に、女の人が心配になってくる。轢かれたような跡は見受けられない。緑色のジャケットと細身のデニムに血痕らしきものも見られない。表情を伺う。
割と美人のように見える。さすが麻布十番。変な人でも美人。等と言ってる場合ではない。だが、女の人はぼんやりと虚空を見つめているだけで苦しそうな様子でもない。
「なんだあれ」
歩行者用信号が青になる。信号待ちをしていた四歳程の女の子とスレンダーな綺麗な母親が、楽しそうに女の人の側を素通りしていく。
「美味しそうだから好きー」
「そうなんだ。パパも昔すごく好きだって言ってたんだよ」
「でもあたしパパきらーい」
裕也の側を通り過ぎる。誰が見ても異様な光景だと思うのだが、まったく気付いていないようにみえた。いくら子供でも横たわる女の人の事を母親に「美味しそう」とは言わない。
青の信号が点滅し始める。女の人と距離を取るようにして、かつ様子をみながら通過する。甲高い小声が聞こえてた。声の主はもちろん足下の変な女性だ。
「……ぁぁぁぁぁぁぁぁ……」
聞いた瞬間肌が粒立った。何故だか、冷たく憎しみの混じった声だと解る。女の人が裕也を見た気がした。寝たままの姿勢であったが一瞬だけ目が合ったような、そんな気配がした。何も聞こえない、見えないふりをして横断歩道を渡りきる。もうしばらく歩いて、そっと振り返ってみた。女の人が上体を起こして裕也を見ていた。信号待ちで止まっていた車の群れは動き出していて車が女の人の顔を遮る度に、笑うような表情に変わっていく気がした。その笑いはにこやかなものではなく、邪悪なものだと裕也の悪寒が教えてくれた。アレは人だろうか。幸夫と同じ種類の幽霊なのだろうか。
祐也の傍を通り過ぎるタクシーの影に隠れて、女の人の視線から逃れた。
幽霊などこれまで見たことは無かった。タクローの本屋で、非日常を手にしてしまった代償だろうか。幸夫がそれほど怖くなかろうが、さっきの女性が幽霊だろうが、どちらにせよあまり好ましい者達ではない。
地下へ降りている最中に何度も何度も後ろを振り返った。タクローの本屋へ近づくにつれて小走りになる。走る度に恐怖が増す気がするが、先ほどの女が追ってきている気がして落ち着かなかった。急いで扉を押して開く。
相変わらず薄暗い店内に、今日は楽しげな電子音が聞こえる。それを聞いてようやく心臓にまとわりつく緊張がほぐれた気がした。音の方を見ると丸いテーブルで、パイプ椅子に座ったタクローが携帯ゲーム機でゲームをしている。タクローに近づくにつれ、独特の匂いが仄かに鼻をつく。スパイシーな匂いだ。タクローの体臭らしいが、「これ香水なんだ」と言われたら「へー悪趣味だね」と言える程の匂いで、耐え難いものではない。
「あ、ゆうちゃんいらっしゃい。見てよこのゲーム。凄いよ。女の子に悪戯出来ちゃうんだよ」
画面を見ると、露出の高いメイド服を着たメイドさんが映っていた。
「このタッチペンで触ると反応してくれるんだよぉ」
タクローはニヤニヤしながらタッチペンでメイドさんの胸を触る。
「いやーんご主人様のエッチィ」
ゲーム機から女の子の音声が出る。画面がガクガクと揺れ始めたので、あまりのつまらなさに自分の足が痙攣したのかと思った。だが実際は、溢れる興奮がおしりから出ているのですよとでもいうように、タクローが椅子の上でバウンドしていただけだった。溢れる喜びというものがしっかりと体現されていて、少し感心してしまう。
「あー! 最高だよね!」
タクローは一瞬裕也を見て同意を求めたが、生返事も返す間もなく画面へ向き直る。
「いやーんご主人様のエッチィ」
「いやーんご主人様のエッチィ」
「いやーんご主人様のエッチィ」
「いやーんご主人様のエッチィ」
「いやーんご主人様のエッチィ」
「本書いてくれました?」
永遠に続きそうな予感がしたので早々に本題を切り出す。
「あ、今日いろいろ忙しくってさ、まだ書いてないんだよね」
タクローはゲームをしながら事も無げに言う。ふとテーブルの上を見ると、見覚えのあるマークのカップが置いてある。
「ちょっと! 喫茶店行ったんですか!?」
「え? うん」
「待って下さいよ。なんで勝手に行くんですか!?」
「行ったっていいじゃない別にぃ。お店なんだから」
喫茶店のレジカウンターで一人ではしゃぎ、アヤさんを困らせるタクローの姿が容易に想像できた。幸夫に時間を割いた事を心から悔やむ。
「いつ行ったんです? アヤノさんと何話したんです!?」
「さっきだよ。ゆうちゃん顔が怖いよぅ」
「アヤノさんと何を話したんです!?」
タクローの手からゲーム機を取り上げる。
「何も話してないよう。今日アヤタン居なかったんだよう」
返して欲しそうに両手を伸ばしてきた。その手からさらにゲーム機を遠ざける。裕也の指が画面を触ってしまったのだろうか、ゲーム機からは女の子の音声が再生される。
「いやーんご主人様。そこはぜったいダメーん」
「何それ! どこがダメなの!? ねえ! どこ!?」
タクローが裕也に聞いてくる。
「知りません! 居たら何話すつもりだったんですか?」
「何にも話さないよ。ただたまたま寄っただけだよ」
「たまたまだぁ?」
「たまたまだよぉ」
少しの間の後、ゲーム機を返す。
再びタッチペンで画面をつつき始める。
「いやーんご主人様のエッチィ」
「いやーんご主人様のエッチィ」
「いやーんご主人様のエッチィ」
「どこなんだよぉ! どこがダメなんだよう!」
「いやーんご主人様。そこはぜったいダメーん」
「ここかー!」
両手を上に伸ばして喜んでいるタクローを見ていると、今日一日胸を躍らせながら過ごした事がバカバカしく思えてきた。
「本書かずに何をやってるんですか。たしかあなたの可能性が本になるんですよね」
「そうだよ。だから僕がアヤたんに会いに行ったのはユウちゃんにとっても良い事なんだよ」
タクローが子供の様に口をとがらせながら言うが、この男の中身が子供とほぼ変わらないのはすでに解っている。
「やっぱり会いに行ったんじゃないですか!」
「違う違う! もし会いに行ったとしてもって事だよ」
そちらの言葉を全て受け流す用意は出来ていますよとでも言った風に笑いかけてくる。
「タクローさん。可能性がゼロになっちゃ意味ないでしょう?」
「ゼロになるとは限らないじゃん。もしかしたら僕がアヤタンのタイプな男性なのかもしれないじゃない」
んなわけあるか。おそらくこの男、アヤノさんを気に入っている。
「解りました。では可能性がある今の内に本を書いて下さい」
裕也はテーブルに乗っていたカップを床に置くと、鞄から一枚一枚、薄いフィルムケースに入ったDVDの束を取り出す。
「二百四十枚あります。本を書いて貰う料金分です。全てタクローさんの望んでいた違法無修正です」
「うわっ! うわっ! うわっ! 凄い量! 全部むしゅ……無修正!?」タクローがゲーム機をテーブルに放り出し、DVDに手を伸ばす。その手を裕也がはたく。「痛い!」
「先に書いてからです!」
「えーそんなぁ……」
「そんなじゃないでしょ。なんで書いてくれないんですか。タクローさんが本を書く条件は満たしたはずでしょう?」
「それはそうなんだけどさぁ……」タクローが口を尖らせる「アヤたんものすごく可愛いじゃない。失礼だけどゆうちゃんと釣り合いがとれるとは到底思えないじゃない?」
本当に失礼な男だ。しかし、言っている事はその通りである。
「そうですね。だからなんです?」
その通りだから言い返せないが、さすがに少し不愉快だ。言われる相手がタクローだというのが大きな要因でもある。
「あのアヤたんと付き合うなんてさ、あまりにも非現実的でしょ?」
今更何を言っているのか。
「いや、タクローさんなら出来るでしょ。あの電車の出来事だって、普通の日常からすれば超非現実的でしたよ」
「そうなんだけど、無理な出来事を起こそうとすればするほどさ、やっぱり時間がかかるんだよねぇ……コレ本当に」
自分の肩がスッとなで肩になった様な感覚がした。タクローは口を尖らせたまま笑うような表情でテーブルに置かれたDVDの山に視線を落としている。
「……どれ位かかるんです?」
「え? えっと……」タクローがチラリと裕也の顔を見る「わかんないけど、しばらくかかる……かも」
熱気球のように膨らんでいた期待が、ため息となって口から出た。
体が少し重くなったように感じる。
「わかりました。コレばかりはタクローさん次第ですもんね。待ちますよ」
書けないと言われた訳ではない。少しだけ気長に待つのもいいのではないかと思うようにした。あやのさんとの日々に思いを馳せるのも悪くない。そうだ。しっかりとイメージトレーニングをして、やがて来る幸せな日々に備えるのだ。さっきまでの自分はどうかしていた。心の準備がまるで出来てなかった。求める事に夢中で少し自分勝手であったかもしれない。仮にこのまま、あやのさんと付き合い始めていたらどうだっただろう。きっと嫌な思いをさせていたかもしれない。よかった。タクローがすぐに書かなかったおかげで、自分は大きく成長したに違いない。そうだ違いない。
裕也は一生懸命自分に言い聞かせながら、テーブルに置いたDVDの山を鞄の中へしまい始める。
「ちょっとちょっと待ってよ!」
タクローが慌てて裕也の手を止める。
「何ですか?」
「持って帰っちゃうの?」
「今月分の十万円分以外は持って帰りますが?」
「なんでよー。どうせ渡す物なら今渡してもいいじゃん」
そういうとタクローはゲーム機の画面を閉じた。おそらくゲームよりもエロDVDの方が大事なのだろう。
「いやそうですけどタクローさんにこれ全部渡したら、全部見終わるまで書かなそうなんですもん」
「それはそうだけど……」
そこを認めるな。
「というわけなんで。書いてくれたらすぐにでも全部渡しますよ」
鞄にDVDを詰めながら言うが、だんだん鞄が重くなるにつれて裕也の気持ちも急激に沈んでいく。
「あ! じゃあ良い事考えた! すっごい良い事!」
どうせ良い事ではない。
「なんです?」と一応聞いてあげた。
「コレあげる! 前にゆうちゃんにあげたお試しの奴の別の奴」
「いやいいです」
あやのさんの本が全てなのだ。それ以外は今の生活が豊かになる本と社会的にすごく高い地位になれる本とかしか望んでいない。電車で洗濯挟みがはじけ飛ぶ舞妓さん宣言は、あれ一度きりでいい。
「じゃあ解った! そのDVD! 半分置いて行ってくれたらサービスで一冊簡単な『本』を書く! 今!」
裕也はDVDを鞄に戻しながら聞く。
「条件はどうするんです? 可能性の」
「うふふ。今の僕にだって可能性は沢山あるんだよん」
「どんなです?」
「例えばさ、道ばたにエッチな本が落ちているのを拾うだとかさ、僕が普段道路を歩けばあり得る可能性じゃない。トイレだって行くから、トイレでさっき着替えたばかりの若妻の下着を拾うだとかさーうふふ」
タクローが自慢げに笑う。誰もが欲しがる能力を誰もが要らない所で使われている。これは、しっかりと自分が使ってあげなければと裕也は強く思い、手を止めた。
「偶然に起こりそうな事なら大丈夫なんですね」
「そうそう」
「……あの、内容は僕が指定していいですか?」
「いいよいいよ。でも書くのは僕だから全部の要望は無理かもだけど」
少し考えるふりをして言う。
「それならいいですよ。半分置いていきます。でも、あやのさんの本書くの、DVD見る事より優先してくださいね」
「するするするぅ!」
しないだろう。だが、大量のDVDは軽い物でもないので、タクローの申し出を受けるのはやぶさかではなかった。それに今はさっきの妙な男に荷物を持たされている気分なのだ。手荷物くらい少ない方が気分も晴れやすい気がする。
「どんなのがいい?」
ポケットの中から小さいしわくちゃの紙切れを出した。
「え? そんな紙切れでも効果あるんですか」
「僕の本は紙を選ばないんだよん」
それではもう『本』というより走り書きだ。と裕也は思う。タクローの右手の指にはいつの間にとりだしたのかペンが握られている。くるりと指の上で回そうとして、床に落とした。出来ないなら回さなければいいと言おうとしたが、それには触れないように話を進める。
「条件が緩くなければならないんですよね?」
「そうだよ。今の僕に簡単に起こりそうなもの限定だけど、結構いろいろあるよね」
色々考えようとしたのだが、この瞬間、頭の中に渦巻く欲望の中で先陣を切って口から飛び出したのは「そうですね……とりあえず、お金拾いましょうか」だった。
タクローが不器用に回していたペンを止める。裕也自身もげんなりした。タクローの視線をごまかす様に言葉を続ける。
「僕にとっては下着なんかよりよっぽど嬉しいんです。無理ですか?」
「無理じゃないけど……いいの? それで」
「ええ。いや、とりあえずですよとりあえず」
「……なんか小さいね」
あんたに言われたくない。使用済みの下着と比べてそれほど大差はないじゃないか。だから、おそらく自分はとても小さい。
タクローは渋々といった様子でペンを走らせている。汚れていく紙切れを覗くと、文字がものすごく大きい。
『僕は道ろで財布を拾う』という文字が紙切れの半分を占めている。
「もっと小さく書いてくださいよ! 他に書けなくなっちゃうでしょう」
「え? まだ書くの?」
「書いて下さいよ。それに俺は財布を拾いたいんじゃないんですよ。お金を拾いたいんです」
なんと単純かつ、卑しい要求だろうと、裕也は自分で思う。
「お金より財布の方が落ちてそうじゃない。ゆうちゃん意地汚いよー」
「……じゃあそれでいいですから開いたスペースにあと二つ位書いて下さいよ」
「いいよ。短いのね。何がいい?」
タクローが右手にペンを待機させ見上げてくる。裕也と目が合う。さあ。君の汚い欲望を言ってみたまえよ。と言っているようにも感じられて、裕也は目をそらす。
「えっと……まあ、なんでもいいですよ。適当に俺が得しそうな事を書いて下さい」
一言一句指定したかったのだが、そこまで欲張る人間じゃないんですよ僕は。というふりをする。今更。
「いいの? 適当に書いて」
「いいですよ。俺の本命はアヤノさんですしね」
「了解。ぐふふ。適当にね。良い事書いてあげるね」
怪しい笑いを堪えながら、タクローがペンを動かす。あまり良い予感はしないが仕方がない。それほど損をするような事は書かないだろう。
「はいできた」
タクローが紙切れを寄越す。ふと、その紙切れの裏を見た。今日の日付で印刷されたレシートだった。クーゼの物だ。豆乳黒ごまラテを頼んだらしい。金額とおつりの金額の下にはレジ担当、アヤノと印刷されている。
「レジ担当アヤノってなんです?」
タクローが裕也の顔を見て驚いた様な顔をする。
「え!? あれ? あれー?」
手をおでこへ当てる仕草が、とても芝居がかっていて気に障る。
「あれじゃなくて! さっきアヤノさん居なかったって言ってましたよね?」
「あれー? おかしいね。アヤタン居なかったんだよ。コレ本当に。あ、レジの故障とかじゃない?」
裕也は呆れてタクローを見つめている。
「どういうつもりですか」
「それよりほら! 内容見てみてよ。それとも見ないで後のお楽しみにするぅ?」
「ねえタクローさん。俺本気なんです。一目でこんなに好きになれた事なんて今までの人生で無いんです。お願いですから変な事しないで下さいよ」
タクローは苦笑いで裕也を見ている。しばらく真剣な表情で睨んでいると、苦笑いから笑いの部分が少しずつ無くなった。
「解ってるよぅ。ごめんごめん。アヤタンがあまりにも可愛いからさ。見たくなっちゃったんだよぅ。でも変な事はしてないから大丈夫だよ。なんか色々お話ししてくれたよぉ。ホント良い子だねアヤタン」
「アヤタンとか言わない!」
悪びれる事もなく嬉しそうな表情をしているタクローを見ていると、この男の口から出る言葉全てが嘘のような気がしてきた。
「アヤノさんとの『本』を書くのに時間がかかるのも嘘ですか?」
「いや! それは本当! 内容によって書くの時間かかるんだって。コレ本当に」
慌てるタクローの様子が、嘘がばれる事によるモノなのか本当の事を疑われた事によるモノなのか判断がつかない。自分がアヤノさんの事を想っていた時間に、その本人と話をしていたタクローに激しい嫉妬を覚える。
「タクローさんの可能性が無くなったから『本』書けないってのは認めませんからね」
すでに可能性など無いのではないだろうかと不安になりつつ、レシートの裏にタクローが書いた文章を確認する。さっきも見た一際大きい『僕は道ろで財布を拾う』の文字。
その文字から逃げるように、『すごいキレイな女の人に出会う』という文字。そしてもう一つ、その文字よりさらに小さく『思った事が現実になる』という文字が足されていた。
「これはとてもいいじゃないですか」
裕也はタクローを見る。人差し指で鼻くそを取っていた。
「でしょ? でもこの書き方だと何が現実になるか解らないから気をつけてね」
爪に引っかかった鼻くそを口へと運ぶ。
「ちょっと! そんなもの食べないで下さい! 小学生ですかあなた!」
「ユウちゃんおかあさんみたい」
渋々といったふうに、それをズボンの裾へとなすりつけた。
今のをアヤノさんの目の前でやってなかっただろうかと、さらに不安になる。
「で……どういう事です?」
「なにが?」
「何が現実になるか解らないって事ですよ」
「だからね、ちょっとした些細な事が現実になる事の方が多いと思うよ」
「例えば?」
「えー? ユウちゃん例え話好きだねぇ。例えばね……信号待ちとかしてる時に、ゆうちゃんが早く青になれーとか思っちゃう……とか」
「なるほど。じゃあそういう事を考えないようにして、ここぞという時に強く思えばいいんですね?」
そういう事を全く考えないようにというのは難しそうだな、と漠然と感じる。
「まーそれでいいんじゃない?」
既に裕也の頭の中には、竹藪で大金を拾う出来事が浮かんでいる。
「あ、でも大金を拾うとかそういうのは難しいかもしれないよ」
顔に書いてあったのかと思う程、考えていることに的確な答えが飛んできたので驚いてしまう。
「は!? いや別にそんなこと考えてないですけど」
声が大きく裏返ってしまった。
「まあ拾えるかもしれないけどね」
「ほんとですか!?」
「考えてんじゃん」
このやろう。
「少ししか考えてないですよ」
「可能性は低いけど試してみたら? まーもし、その文字の効力が発生した場合、文字が滲むらしいからすぐに解ると思うよ」
裏DVDの枚数を数えながらタクローが言う。
その後、タクローにDVDの内容の説明もそこそこに、アヤノさんとの本を早く書いて下さいと三回ほど催促した。タクローは早くDVDを見たいのだろう。しきりに「終電大丈夫なの?」とか「明日早くないの?」などと聞いてきていた。だが、その前に裕也が「タクローさん。幽霊とか信じます?」と聞くと、「何言ってんの? ゆうちゃん。馬鹿じゃないの」と半笑いの顔で言ったので、せめてもの意地悪で終電ギリギリまで帰ってやらなかった。