麻布抹茶

天使の抹茶ラテと悪魔の落書き⑤

【抹茶黒蜜ラテ甘さ控えめと薄らデカい男】

 次の日は、昼過ぎからの仕事に関わらず、朝早くからクーゼに居た。いつも見る悪夢が裕也を早めに起こしてくれたのだが、二度寝しなかったのは、あやのさんに会えると思ったからだ。二階の客席でゆっくりして、仕事をするあやのさんをチラチラ見られたなら幸せな気分になるだろうと思ったからだ。なのにあやのさんは居なかった。大学生位に見えたから、平日の朝なんかそうそうお目にかかれる事は少ないのかもしれない。今頃、大学で周りの視線を独り占めしているのだろうか。あやのさんと同じ大学に行きたいと思った。
 お腹はそれほど空いていなかったが、おにぎりと味噌汁のセットを食べる。これがなかなか美味しかった。飲み物は昨日と同じ抹茶黒蜜ラテを甘さ控えめで注文した。甘さを抑えると丁度良く、美味しかった。

 店内は、やはり和をテーマにしたようなおしゃれな空間だった。季節に合わせてオブジェを変えるといった工夫もされているようだ。大きな窓と天窓から注ぐ柔らかい日差しが眩しい。昨日の本屋とは違い、薄くジャズが流れている。心地のいい店だな、と思う。裕也以外には、四人しか客がおらず空席がたくさんあった。三階にはテラスがあるようで、行って見たかったが、朝食をテラスで食べる自分の姿を想像してやめた。二階の席で朝ご飯を食べ終わり、昼過ぎの仕事が始まるまでやることがなかったので、昨日の本屋に行ってみようかと思った。頭の中は、昨日の出来事が半分とあやのさんの存在が半分の二つしかなかった。だが、そのあやのさんが居ない以上この場所に長居する理由はない。裕也はお店を出ようと向かいの空席に置いた上着を手に取った。
「落ちましたよ」
女の人の声に振り返ると、上着のポケットから落ちたのか、裕也の携帯を持った店員さんが居た。先ほどあやのさんの代わりにレジにいた女の子だ。
「あ。すみません! ありがとう」
「いいえ。壊れてないですか?」
「いやいや、ぜんぜん壊れてないですよ」

あやのさんとはまたタイプが違うが、笑顔がかわいい子だと思った。この店の店長のセンスはいいなと思う。
「昨日もいらっしゃってましたよね?」
「え……っとはい……」

そういえば昨日、ほとんどあやのさんしか見てなかったのですぐ思い出せなかったが、おにぎりを作ってくれた店員さんだという事を思いだした。
「これからお仕事ですか?」
「はい。残念ながら」
「ふふふ、残念なんですかぁ?」

コロコロっとした可愛らしい笑顔がパッと咲く。親しみやすいその店員さんの接客に、裕也も自然と笑顔になっていた。可愛い雰囲気の中にも芯の強さを感じる顔で、やはり爽やかな女性だった。
飲み終わったコップをトレイで渡す。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
あやのさんではなかったのは残念だったが、気持ちよく『クーゼ』を後にした。

 昨日の路地裏の電柱にホワイトボードは無かった。一応地下の階段を降りてみる。鉄の扉の前にもホワイトボードは無い。取っ手を捻り、押してみる。「ゴン」という音が地下に響いただけで扉は開かなかった。午前中は開いていないのか、たまたま今日が定休日なのか。
 判断できないので、バイトの帰りにまた来てみようと思い、地上への階段を二段飛びで駆け上がった。

 仕事場へついたのは、まだ午前中だった。部屋の真ん中で汚らしい布団が丸くなっている。
「おはようございまーす」
寝息しか返って来ないのは分かっていたが、一応自分の存在は知らせるつもりで挨拶をしておいた。田中さんが起きるまで、汚らしい布団の端を枕にしてぼんやりしてみる。あやのさんの笑顔がフッと浮かぶ。頭の中で輪郭をしっかり整えようとしたが、なかなか鮮明に思い出す事が出来なかった。そう言えばまだ一回しか見た事がないのだ。裕也はあやのさんを見たくなった。もっと会って、話せるようになりたいと思った。楽しく会話するのを妄想して気持ちが高なる。

 腹が満たされたからだろう。体が床にくっついているような錯覚を憶える。心地良い微睡みが裕也を包みだした。昨日の出来事を思い出す。あのメモに書いてあった事が本当に起こったのだ。あの本屋の男は何なのだ。超能力者か何かだろうか? あの男が書いた事は全て本当になるのだろうか? 洗濯挟みの数までがメモの通りだった。これはすごい事だ。自分はすごい店を探し当てたのだ。
裕也の頭の隅の方で何かがきらめいた。その光に覚醒し飛び起きる。
「あれ?」
呟く。すぐ側で汚らしい布団がもぞもぞ動く田中さんが寝返りをうった。太い足が布団から出て露わになる。
 その様子を見ながら、体が底の方から熱くなる感覚がした。頭のひらめきに高揚することなんてこれまでの人生でないことだった。
「ん? えーっと……」
そうだ。あの男が書く事が本当になるとしたなら、自分の事を書いて貰えばいいんだ。自分が起こしたい出来事を書いて貰えばいいんだ。これは何でも出来るのではないか?
「……すげぇ」
小さく呟く。この世の全てを手に入れたような気分とはこの事だろうか「すっげぇ!!」叫ぶ。
田中さんが迷惑そうに頭まで布団をかぶる。
 念のため、あの本屋の事は誰にも言わない方がいいと思った。
あんな凄い店の事が広まってしまうのは避けたい。出来れば自分だけがいい思いをしたい。
 とりあえず早く今日の仕事を終わらせてから、あの本屋へ向かおう。時計を見る。丁度客から注文のメールが来る時間だった。
「田中さーん。起きましょう! そして今日は早く終わらせましょう!」
……
イビキしか返ってこなかった。

 その日の仕事はいつもより早く終わった。まだ夕方と言える時間だ。もちろん日が落ちるのは早い為、外は暗い。
「お疲れ様でした」
「お疲れちゃーん」

夕方頃起きて、結局布団から出る事の無かった田中さんの声が後ろから聞こえた。そそくさと仕事場を後にして、動きの遅いエレベーターに乗る。いつもならその速度にイライラするのだが今日はしない。気分がいいのだ。昨日からはずっとドキドキワクワクという言葉が似合う心境だ。あやのさんに一目惚れしてからずっとだ。
 エレベーターが一階へ到着する。逸る気持ちを抑えるが、エレベーターの扉の境目をチョップするという形で気持ちが溢れ出て来る。
扉が開くと、背広に灰色のロングコートを着た、背が高く体の大きな男の人が出口を塞ぐように立っていた。ぼんやりと前を向いていてどいてくれる様子もない。
「あの……」
「え?」

男の人がこちらを見下ろす。
「どいて貰ってもいいです?」
男の人はきょとんとした顔で固まっている。動きがないので、裕也は無理矢理その人の脇を通ってエレベーターから出た。
マンションの出口を出る時に後ろから「あのすみません」と聞こえたが無視してやった。
 外は思ったより寒くない。


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