麻布抹茶

天使の抹茶ラテと悪魔の落書き④

【疲れた男と怪しい本屋Ⅱ】

 店内には、漫画本や文芸書や文庫本がところ狭しと棚に並んでいるというわけではなかった。
 お香でも焚いているのだろうか、最初に、どことなくスパイシーな臭いが裕也を迎える。いやな匂いではない。裸電球が天井からいくつか垂れ下がっていて、意外にも広めの店内に暖かい光を頼りなく広げている。コンクリートの打ちっ放しではあるのだが、仄かに温かい。壁に沿って、裕也の胸辺りまでの棚がぽつりぽつりと並んでいる。そこには、今流行の漫画が並んでいた。どうやら古本屋のようだ。本屋にしては棚の数が異様に少ないが、人気の漫画しか置いてないのだろうか。店の中央に「コ」の字に並んだ棚がある。そこには年代ものなのかプレミア物なのか、薄汚れた本がいくつか並んでいるように見えた。その横でパイプ椅子に座り、丸いテーブルで本を読む男の後ろ姿があった。暗いが、店内の雰囲気は悪くない。コンクリートの床に裸電球というレイアウトも意図しているのかどうかは分からないが、風情があるといえばある。店内に音は無く、男がページをめくる音だけが時折聞こえた。
「あの……」
丸いテーブルで本を読んでいた男が、驚いたようにこちらを振り返る。
「おお! いらっしゃい!」
裕也は会釈をする。
男は本を閉じ、テーブルに置く。漫画だった。年は裕也と同じ位のその男は友好的な笑顔を向けている。見た感じ洒落っ気はなく髭が生えているが、のばしているというよりはのびてしまっている感じだ。さびれた本屋のバイトらしいといえば、らしい。
「……本屋……お店なんですよね? ここ」
「そうだよ。本屋さん」

男が立ち上がり近づいて来た。近くでみると、癖っ毛の重そうな頭が黒々としていた。髭と同じように伸びっぱなしのようだ。スニーカーはゴミ捨て場から拾って来たようなボロボロの物を履いていて、薄い色のデニムは裾がすり切れてしまっている。着ている青い色のダウンジャケットにはコーヒーをこぼした様なシミが付着している。ニコニコしている男は裕也の眼前まで近づいた。近い。
裕也はさりげなく後ずさりしながら言う。
「ここは古本屋ですか?」
「え? 違うよ。中古なんか無いよ」

裕也は、壁側の棚にある新品には見えない漫画を手に取る。
「え……新品なんですか?」
男が急に真顔になった。裕也の手から漫画が取り上げられる。
「これ売り物じゃないもん。こっち側の漫画は全部僕のコレクションだよ。あんまり触らないでね」
両手で壁側を押すようなジェスチャーをしながら男が言った。
「……ああ……そうなんだ……」裕也は走って帰りたい気持ちを抑え言葉を探す。「売り物はどこなんですか?」
「真ん中の棚。あそこにある棚の本は全部売ってるよ。色々あるよ~」
そう言うと男は再び笑顔を見せた。黄色い前歯が覗く。あまり顔を見たくなかったので、仕方なく真ん中の本棚へ行く。男は祐也から取り上げたコレクションの漫画を丁寧に元の棚へ戻していた。
 真ん中の本棚の中には、ホッチキスで止められた薄い紙の束が並んでいた。誰か有名な作家が書いた本の原本か何かなのだろうか? そうだとすると、もしかしたらこの店は知る人ぞ知る有名な本屋なのかもしれない。
「それ僕が書いた本なの」後ろから声がした。「ちょっと高いと思うかもしれないけど、すごいよ。全部百万円」

時間を無駄にした。カフェへ行こうと、きびすを返したが裕也は動けなくなった。男の顔が眼前にある。
「今帰ろうと思ったでしょう」
「……ちょっと……時間がなくて、また来ます」

愛想笑いで対抗する。だんだん怖くなってきた。
「まあ、最初は説明しても信じられないだろうからさ、コレあげるよ。お試しキャンペーン。お客さんラッキーだよ」
男が小さいメモ用紙を渡してきた。
そのゴミのような紙切れは、つい最近どこかで見た質感だった。
「さっきのこれか……」
「え? 何が?」
「いえいえ。もしかして、これもらってもいいんですか?」

大げさに喜んでみる。
「いいよ。暇つぶしに書いた奴だし。さっき来たホクロサングラスの客にもあげたんだ。嫌な奴だったからハズレの方だったけど」ヒヒヒと笑う。
さっきの男だな、と思う。何か早く立ち去りたかったので、早々にソレをポケットに突っ込み、笑顔でお礼を言った。さっき感じたスパイシーな臭いが若干濃く感じられたのは、その臭いの根源がこの男だからだろう。
「今度来た時はなんか買って行ってね」
「はい。もちろんです。ぜひぜひー」

笑顔で応えた。誰が来るか。そそくさと店内を出ようと扉を押した。開かなかったので引く。
店から出て扉を閉める時、男が笑顔で手を振っていた。
「じゃあまたきますね」
笑顔で声を投げる。
「……とはならない」扉を閉めてから呟く。
 そのままカフェへ行く為に階段を駆け上がった。自分は今、さっきの男ときっと同じ気持ちなのだろうと思う。

時間を無駄にした。

 『クーゼ』にあやのさんは居なかった。お昼におにぎりを作ってくれた店員さんが注文をとっている。もうバイトが終わって帰ってしまったのだろう。もしかしたらあの変な本屋に行かなければ、顔を見る事くらいは出来たかもしれない。裕也は自分の好奇心を呪いつつ、抹茶黒蜜ラテというのを注文した。二階のテーブル席へ着く。
さっきの変な男から渡されたゴミをポケットから出す。明るい所でみると、メモ用紙が二枚ホッチキスで止められた物だった。
『小さな奇跡』
抹茶黒蜜ラテを一口飲む。おいしかったが、やはり裕也には甘かった。
ゴミをめくってみる。そこには汚い文字がびっしりと敷き詰められていた。
さっき拾ったゴミとは違い文字量も多く、滲んでいないのでなんとか読める。

 『私は電車に乗る。開いている席へ座る。前の席には家族。遊びに行った興奮冷めやらぬ男の子が母親に叱られる。右隣には、漫画を読んでいる高校生。左隣には、顔面にたくさんの洗濯挟みを付けた初老の男が居る。やがて電車は動きだす。車内が少し揺れる。男の顔面から洗濯挟みが一つ取れる。やがてその男が勢いよく立ち上がる。男は叫ぶ。
「舞妓さんになりたーい!」
洗濯挟みが三つはじけ飛んだ。
車内は拍手喝采に包まれるのだった』

 なんだこりゃ……。
文章のようだったが、はちゃめちゃである。日記だろうか。いや日記にしてもめちゃくちゃである。電車で洗濯挟みをつけている初老が普通の日常でそうそうお目にかかるはずがない。

 やはりあの男は頭がおかしいのだ。都会は怖い人達が沢山いる場所である。街ですれ違う人が隠し持っていたナイフで刺してこないという保証なんて無いようなご時世である。そう思うとあの男から無事に逃げられて良かったなと安堵した。
 安堵感の中、裕也は誰にこの面白い出来事を話そうかと考えた。
とりあえずは、というか友達も居ないので田中さんにしか話せない。

このメモはその出来事の証拠品として持って置こう。そう考え、メモをポケットへと戻した。
 抹茶黒蜜ラテを半分残して店を出る。

 地下鉄を待つ裕也は、さっきのメモの事を思い出していた。たしか、『私』が電車に乗るという話だったはずだ。あの本屋はあのようなゴミを、本であると売っているのだろうか。買う人は居るのだろうか? いや、いるわけがない。おそらくあの男は精神的に病んでいるのだ。いくらだと言っていただろうか。たしか百万円だと言っていた。「舞妓さんになりたーい」と叫ぶおじさんの姿を想像して少し笑いそうになった。

 地下の線路に留まった空気が電車に押し出され、ホームに強風を作る。電車内はそれほど混雑しておらず、なんとか座れそうだ。
 車両へ乗り込むと、裕也は一番近い空席へと座った。ふと向かいに座っている家族を見る。少し騒がしい子供の首から、ネズミのマスコットのポップコーンケースが提げられている。手には光を発しながらくるくると回転するおもちゃを振り回していた。興奮冷めやらぬ様子だ。
 裕也の息が止まる。
「危ないからやめなさい」
隣の母親が子供を宥める。右を見ると学生が居た。漫画を読んでいる。
「嘘……」
裕也が呟くと、学生がこちらを向き目があった。慌ててうつむき、目をそらす。
 まさかと思う。さっきのメモと同じだ。いや、そんな事があるわけがない。遊びに行く家族なんてたくさんいるし、電車で漫画を読む学生だってたくさんいるじゃないか。
 否定とは裏腹に、メモに書いてあった内容を思い出す。
そうだ、ここからだ。
 顔を上げると、目の前の子供が裕也の左側を見ていた。
恐る恐る左側を見る。
 薄毛の頭を正面に見せたまま動かないサラリーマン風のおじさんが居た。寝ているのか起きているのかは解らなかった。青い洗濯挟みで目が見えなかったからだ。裕也が想像していたよりも痛そうな洗濯挟みが、想像していた以上に沢山その顔を飾っているようだった。今見えているだけで、まぶたに二つ。鼻に一つ。耳に三つ。頬にも一つ。その下には唇が重みでとれてしまうのではないかと思う程の数が揺れている。おじさんが何やら呟いている為だった。頬の洗濯ばさみは涙で濡れていた。口元の洗濯挟みからは涎が垂れている。何も考える事が出来ずに揺れる洗濯挟みを見ていると、電車のドアが閉まった。ガコンというような大きな音がして車内が揺れた。急発進だった。
パチンッという音がしておじさんの鼻から膝の上に洗濯挟みが落ちた。
脂で滑ったのだろうか。涙で滑ったのだろうか。
「はふんっ!」
何かを決心したように、吐息と共に勢いよく立ち上がったおじさんが、大きく息を吸う。車内の視線はおじさんに集まっていた。
「ふぁいこはんになりたぁーい!」
洗濯挟みのせいで何を言ったのか解らなかったが、裕也にははっきり解った。叫んだ拍子に洗濯挟みが唇からはじけ飛んだ。涎もはじけ飛んでいた。

ハッとしておじさんの顔を見る。顔にはまだたくさんついていた。床に転がった洗濯挟みの数は四つ。
「うううぅ……」
おじさんはそのまま泣き崩れる。
「うおーん。うおーん」
裕也のすぐ目の前でおじさんの泣き声が車内に響き渡る。
どうすればいいのかわからずに眺めていると、車両の端々から控えめに拍手が聞こえ始めた。その拍手はすぐに車両全体に広がる。拍手の音が電車の音をかき消す。中にはスタンディングオベーションで喝采を投げかける人もいた。
「頑張れ!」
「負けるな!」
「いいことあるよ!」
「かっこいいよ!」
「生えるよ!」

皆、思い思いの励ましの言葉をおじさんに投げかける。拍手喝采だった。目の前の家族も右隣の学生も拍手をしている。気付くと裕也もつられて拍手していた。
 電車が次の駅に到着しドアが開くと、拍手に包まれていた車内の興奮がそこから逃げていくように消えていく。おじさんも立ち上がり電車から降りて行った。洗濯挟みを付けたままだったのですれ違う人達の視線を集めていた。スタンディングオベーションをしていた人達は何事もなかったように座り始める。新しく乗って来た人達が、妙な雰囲気を感じ不思議そうにしていた。電車が発車する。目の前の家族も右隣の学生も、いまやどこにでもいる乗客に見えた。

 裕也はポケットからメモを取り出した。
やはり、今起こった事はメモの内容と同じだった。洗濯挟みの数も同じだ。まだ裕也の足下に四つ転がっている。メモの文字は滲んでいてあまり読めなくなっていた。一枚目の文字をもう一度見る。
『小さな奇跡』
ポケットに入れていたから滲んだのだろうか。ぼんやりとそう読めた。

 奇跡。確かに奇跡だ。書いてあった通りの事が起きた。左隣には、さっき乗ってきた人が携帯をいじっている。はたと、本屋のある地下へ下りる直前によく似たメモを見た事を思い出したが、裕也にとって今そのようなことは重要ではなかった。
 夢のような浮遊感と、現実感が入り交じる。足下の洗濯挟みが現実であると語っている。悶々としながら乗り換えの駅に着いた。降りる瞬間に足下の洗濯挟みを一つ拾う。涎が付いていない奴だ。明日、もう一度あの本屋に行ってみよう。握りしめた洗濯挟みとメモを手の中に感じながら、頭がうまく機能していない事に気付く。現実に起きたことがあまりにも理解を超えたものであると、頭は理解するのを諦めるらしい。

 夢心地な気分のまま改札をでた裕也は、洗濯挟みと滲んだ文字のメモをもう一度確認してカバンの中にしまった。


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