桜漂流記用

桜漂流記 11

 彼女はよくパスタを作ってくれた。

インスタントスープをうまいこと味付けに使っていたので、僕は「化学調味料パスタ」と呼んでいた。しかし彼女はこの名前が気に入らないらしく「食べなくて結構」と怒るので僕はいつも謝っていた。

 ある日、少し遠くの街まで電車で遊びに行った。雑貨屋に入った時に珍しく彼女がねだってきたのは小さい棚だった。木で出来たその棚は彫刻の花が上品に見える程度にいくつか飾られていた。

 店員が言うにはこの店オリジナルのもので、よそでは決して買えないという。熱心に見つめる彼女に免じて買ったのは良かったが、それを電車で部屋まで運ばなければならないという労働付きだった。やっとのことで持ち帰った次の日に、たまたま通販雑誌を見ていたら同じような棚を見つけた。というか、棚の同じ場所に同じ彫刻があったので同じ物だと思う。

彼女に言ったのだが「それは気のせいです」と言って雑誌を見ようとはしなかった。

 ほぼ一緒に住んでいるとはいえ、僕の部屋にはあんまり彼女の服がなかった。週に何回か彼女は自分の部屋に着替えをしに帰っていた。二、三日分の服をカバンに詰めて、また二、三日分の着替えを僕の部屋に持ってくるのだ。遊びに行く日は早起きして自分の部屋へ戻り、必ず待ち合わせをしていた。

どうしてそんな面倒な事をするのかと聞くと「少年よ。それは女心というものだよ」と言われた。

 僕は彼女の髪をよく撫でていた。彼女の肩まで伸ばされ、柔らかくまとまった髪に僕の指が飲み込まれてゆくのを感じるのが好きだった。付き合ってしばらくし、彼女が泊まる事が多くなり始めたのでドライヤーを買ってきた。しかし彼女はあんまり使おうとはしなかった。

彼女が目指している髪の毛を持つ仁美さんがドライヤーを使わないからだそうだ。そういえば風呂場に見に覚えのない容器が何個かあったので、どうやら髪の毛にだいぶ気を遣っているのだということに気づいた。結局僕の方がそのドライヤーを使っていた。

 僕は大学を卒業する前に無事就職が内定した。そしてその日のうちに彼女にプロポーズをした。

 彼女はよく子供の頃の話を楽しそうに話してくれた。僕はその話を聞くのが好きだった。小さい陽太と大きい康広。そして優しい仁美。それらの話しは、例の桜の木の下が舞台であることが多かった。きっと大切な木なのだろう。

洋子だけじゃなく、彼らにとっても。

都会で育った僕には、特に感慨深くなれるような場所なんて記憶になかったから、羨ましかった。

「実はね、最初に潤に出会った時、桜の妖精かと思ったの」

疎外感を少しでも打ち消してくれようとしたのか、洋子は僕にそんなことを言ってくれた事があった。ただ、洋子の気遣いとは裏腹に、僕はまだ一度もあったことのない彼らに対して親近感すら感じるようになっていた。

「今度紹介するね」と彼女が言っていたので僕は楽しみにしていた。

桜の木も見たい。と言ったら「もちろん」と言ってくれたので嬉しかった。


 僕は会社に行くようになった。彼女は僕より早く起きて朝ごはんと弁当を作ってくれた。嬉しかったが、出社初日から弁当だったので、そのときは少し気恥ずかしかった。彼女は両親に結婚の意志がある事を伝えに行くために実家に帰った。僕は台風が近づいているから気をつけるようにと言って送り出した。

 彼女が実家に帰って三日目の事だった。一人の部屋をとても広いと感じていたときに、僕の携帯がなった。着信音は彼女用に無理やり設定されたものだったので、彼女からだとわかった。

だが、電話口の声は男の人だった。彼は自分が地元の幼馴染であることを簡潔に述べ、落ち着いて聞いて欲しいと言った。

とても静かで冷静な声に不気味さを覚え、彼女に何かあったのだろうかと不安になった。

 彼は僕に彼女が死んだと告げた。


 電車に乗り、彼女と近いうちに一緒に訪れるはずだった駅に向かう。

駅には、電話をしてくれた男の人が迎えに来てくれていた。簡単な挨拶の後、彼女の実家まで送ってもらった。彼女と一緒に訪れるはずだったその家には鯨幕が張り巡らされてお焼香の匂いがしていた。しかし彼女の葬儀という実感は全然なかった。

彼女の遺体を見れば嫌でも現実を思い知らされたのだろうが、遺体の状態が酷かった為、既に火葬が行われていたらしい。

彼女は壷になっていた。

彼女の姿が見えない事にホッとして葬儀には参加せずに帰った。

何かの間違いだと思った。こうして部屋の中で丸い蛍光灯を見つめ始めて何日が経つだろう。会社からの電話と思われる着信音が毎日鳴っていたが、もう鳴らなくなっていた。さっき携帯の電池が切れる警告音がしたから、会社からクビの電話があったところで、もう鳴らないだろう。

 僕は彼女が合鍵で部屋の中に入ってくるのを待っていた。帰りが遅いのはきっと自分の部屋で洋服を選ぶのに悩んでいるからだろう。彼女は僕が寝転んでいるのを見ると決まって僕に足で乗っかってくるから、今帰ってきたらもれなくその重みを感じることができる。

 もうすぐ彼女が帰って来るはずだ。

もうすぐだ。


 視界の端の方に台所が見えていた。食器置き場には洗ってある弁当箱がある。そういえば何も口にしていないことに気づく。

 視界の端の方に小さい本棚が見えていた。

 視界の端の方に彼女の洋服が見えていた。

 視界の端の方にドライヤーが見えていた。

 視界に入る全ての物が彼女との思い出を呼び起こす。


ああ。もう思い出なのだ。

新しく作られることはない。こうして彼女を待っていても絶対に帰ってこない。

なぜならもう存在していないのだから。

もう言葉も想いも届かない。

あの笑顔はもう二度と見られないし、二度と怒った顔を見ることも出来ない。この間まで簡単に伝える事が出来たはずの「ありがとう」も「ごめんね」も、絶対に届かない。

 僕はいつの間にか泣いていた。そう気づいてから声を上げて泣いた。

 頭と心が少しずつ現実を受け入れ始めているのを感じた。

……明日もう一度彼女の地元に行こうと思う。

彼女の好きだった桜を見に行こうと思う。

蒼い幹の桜を見に行こう。


 場所は分からないが、葬儀で顔を合わせた男の人を探し出して連れて行ってもらおう。小柄な体つきだったから、おそらく「陽太」に違いない。顔も覚えている。

 そして彼女の実家に行ってお線香をあげさせてもらおう。桜の木を見てきた事を告げよう。


そう決めた後、もう一度泣いた。

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