桜漂流記用

桜漂流記 10

     『潤』


 大学へ入ってから、特に親しい友人も作らないまま半月程経っていた。

その日も僕はいつものように古今東西から旨くもまずくもない食べ物だけを集めたような食堂で昼飯を済ませた。破格の安価でなければこう毎日など食べには来ないのだが、そこは貧乏学生を地でいく僕だから仕方が無かった。

 食堂を出てそのまままっすぐ歩いていくと、この大学が誇る桜並木が見えてくる。その桜のアーチを無視するように横切ると、校舎がよく見える場所に古ぼけたベンチがあった。

僕はいつもこのベンチに体を預けて昼寝をする。

 その日、目を覚ましてからしばらく空の青色と桜のピンク色が作るツートンカラーの風景をぼんやりと見ていた。桜の香りを仄かに纏った風が心地よく頬を撫でる。

初めて彼女を見たのはその時だった。

 彼女は等間隔に並ぶ桜の木と大きな本を見比べながら数学の難問を前に手も足も出ないような表情を浮かべていた。大学の入り口から校舎まで見事なピンク色のアーチを見せる桜達も、頑張って花を咲かせたこの季節にまさかそのような表情を向けられるとは思ってなかっただろう。彼女はこれでもかというほど幹に顔を近づけてみたり、耳をくっ付けて殴りつけてみたり、地面に敷き詰められていく桜の花びらをかき集めてみたり、そんな奇行とも取れかねない動きを何度も繰り返していた。

 桜並木を通ると当然彼女の姿は目に入るらしく、誰もが近寄らないように大きく距離をとりながら通り過ぎた。その作業が終わってからも僕がひと時すら彼女から目を離すことが出来なかったのは、今思えば完全に惚れていたからだったのだろう。

あのベンチで彼女を目撃した事は、僕の大学生活の中で一番嬉しかった事だ。

 桜の木を見終わった彼女は怪訝な表情を、今度は広げた本に向けながら僕の方へゆっくりと歩いてきた。視界には本しか映っていないのか、足元がおぼつかない。そのままヨタヨタと僕の目の前まできた。僕はいつの間にか高鳴っていた鼓動に気づきながら声をかけた。

「何の研究をなさっているんですか?」

近くで見る彼女は端整な顔立ちで優しい目をしていた。とてもきれいだった。いきなり声をかけられ少しビックリしていたようだったが、すぐに笑顔で答えてくれた。その笑顔を見た瞬間、心臓が止まったような感じがして彼女が何を言ったのかあまり覚えていない。

「研究というか、今桜を調べていて……」

と言うような言葉だったと思う。僕はその後必死で、かつ自然に見えるように彼女の事を聞いた。なんとかその場に引き止めて少しでも長くあの笑顔を見たかったし、あわよくば彼女と友達になりたかったからだ。僕はこの時ほど頑張って言葉を並べたて、ただ話しをするのに一生懸命になったことはない。だがその甲斐あってか、彼女は僕が期待した以上にいろいろ話しをしてくれた。

僕と同じ一年生であるということ。 地元にある思い入れの深い桜がどんな本にも載っていないものであることがわかり、誰かに話したい気分だったということ。もしかするとその桜の木のおかげで僕と彼女は仲良くなれたのかもしれない。大学の桜の花びらは、その珍しい桜の花びらと良く似ているらしい。しかし幹が全く違うという。彼女は蒼い色だといっていた。

「蒼い色ですか?」

「そう。青じゃなくて蒼って感じなの。しかもキラキラ光るの!」

そうキラキラとした目で話す彼女は、他にも鱗みたいだとか大きさがどうだとかと相違点を教えてくれたのだが、正直その時はあんまり興味がなかった。

 それより、コロコロと豊かな表情で桜のことを話す彼女に興味があった。

 この日、話しをすることで知り合いになれたきっかけを僕は逃さなかった。それから毎日のように彼女に話しかけ、もっと仲良くなれるよう努力した。僕の大学生活のなかで……いや人生で一番頑張ったことだ。計画通りというと聞こえは悪いが、望みどおり彼女と付き合うことが出来たのは、その後、一年間の猛烈なアプローチがもたらした結果だった。

大学に合格した事の数倍嬉しかった。

 大学から徒歩十五分のところにある川の近くに、僕の住むアパートがある。三階の僕の部屋からは川の流れが見えるのだが彼女はこの眺めが好きだと言い、大学から徒歩二分の自分の部屋には着替え以外に帰らなかった。

そしてそのまま大学生活をこの部屋で過ごすことになった。

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