天使の抹茶ラテと悪魔の落書き⑭
【本屋の店主への報告】
本屋は開いていた。だが、店の主の姿は見えなかった。タクローの居ないその静かな空間は、現実世界と異世界にある特別な空間のように感じられた。空気や時間さえも止まっているような場所。
ここは裕也が心のどこかで待ち望んでいた非日常と出逢えた場所である。異空間では無いと否定する事もない。タクローの残り香か、スパイシーな匂いはするし、空調もないのに垂れ下がる裸電球が少し揺れている気もする。
タクローの陽気な声がないだけで店内はいつもより暗い感じがした。タクローの書いた本が並んでいる『コ』の字に置かれた棚の横には丸いテーブルがある。タクローはいつもそこで、漫画やゲームをしながら過ごしているのだろうか。容易に想像ができる。だが、テーブルに乗っていたのは若者向けのファッション雑誌だった。裕也はそれを読んでいるタクローを想像してみるが出来なかった。何となく相容れない存在同士のような気がしてしまう。
「拾ったのかな?」
その時だった。真ん中の棚の向こうから視線を感じる。入り口から見ると、棚に隠れている場所である。
テーブルの傍らに佇む裕也の視界の端に髪の長い女性がこちらを見ている影を感じるのだ。しばらく体が動かなかった。
仮に幽霊だとして、幸夫の様なお気軽な感じな幽霊じゃなかったらどうする。先ほど、横断歩道で女性に襲いかかろうとしたような邪悪とも思える幽霊だったらどう対処する。脊髄がひんやりと冷える感覚に耐えながら考えを巡らす。いや、ちょっと待て。考えてみれば、そもそもここは本屋である。自分以外の人がいてもなんらおかしくはないのだ。
裕也はさりげなく、影の正体を確認するつもりで背伸びをした。
「ん、肩が……」
凝っているつもりで両腕を回す。その後、首を回しながらさりげなく影に目を向ける。
「はふん」
一瞬、心臓が大きく脈打つ。生気の無い目からこちらを見つめる視線は生きた人間ではない雰囲気をまとっている。腰の力が抜けそうになった。影の正体はやはり髪の長い女性だった。可愛らしいフリルのついた服を着ている。この辺りで自殺した女性だろうか。なんとか平常心で居ようと深く呼吸をしてみたが、うまく酸素を吸えない。整った綺麗な顔からは表情が読めない。本物の幽霊と接触してきたとはいえ、幼い頃からすり込まれてきた『幽霊=畏れ』という方程式は深く深層心理に根付いているようだ。
女性はただじっと裕也を見つめている。まるで人形のようにだ。
「あの……」
なんとか声を出してみた。返事がない。ただの人形のようだ。
「うわぁ……」
筋肉が一気に弛緩した。幽霊ではなかった事による安堵と、この人形をタクローが何のつもりで買ったのかを想像して出た声だった。胸の膨らみを触ってみる。とても柔らかい感触だった。鼓動が激しいのはホッとしたからであって興奮しているからではない。
「うわぁ……」
おそらくタクローはこの人形に名前などを付けて、自分の欲求を満たす道具として使うのだろう。最低だな。
一応、柔らかい部分をもう一度触ってみた。この人形を使おうとは思わなかったが、感触はたしかに気持ちよかった。かなり精密に造られたダッチワイフだ。メイド服の。
下着は着けているのだろうかと疑問を持つ。疑問を持ってしまったのだから、解明したいという欲が出る。これは当然の事だ。今からする行動は、この人形に興味があるという訳ではなく、自分が持ってしまった疑問を解くための仕方ない行動である。
そう自分に言い聞かせて、裕也はメイド服の人形の足元へと座った。両手でゆっくりとスカートを上げてゆく。人形とはいえ、人間の様な質感に仕上げられた太ももは、少なからず祐也の気持ちを昂揚させる。ミニスカートだった為、すぐに目的の場所が目に入った。
「何やってんの? ゆうちゃん」
体全体が引きつるほどに驚いたが、なんとか態度にでないように抑える。
「……あれ? どこ行ってたんですか?」
再び速度を速めた血流を感じながら、そのままの体勢で答える。視界には人形のリアルな局部しか映っていない。毛も薄く作られている。その姿勢のまま関心した。
「どこって……アヤタンの下着を買いに。ゆうちゃんは何やってんの?」
「いやーただの好奇心ですよ。へーこうなってるんですねー。すごいなぁ。こんな人形って本当にあるんですねー」
捲り上げたミニスカートを丁寧に元に戻す。立ち上がり、全然興味は無いんだけど仕方なくアハハ、という顔でタクローの方へと振り返る。
「すごいでしょ。高かったよー。名前はアヤタンって言うんだ」
「なんですかアヤタンって?」
「だから人形の名前だって」
「その名前はやめて下さい」
タクローは機嫌良さそうに手に持った紙袋の中から可愛い包みを取り出し、それを乱暴に破りだした。
「アヤノさんじゃないもんね。アヤタンだもん」
「それ、どうしたんです?」
仕方がないので乱暴に破かれている包みを指して言う。
「買って来たよ。デパートで。綺麗なお姉さんに、人形の恋人に着せる下着が欲しいって言ったら色々薦めてくれたよ」
「うわぁ……」
下着売り場で下着の説明を受けるタクローの姿を想像して嘆く。
「プレゼント包みして貰っちゃった」
バラバラに割かれた包み紙からピンク色の下着を取り出す。
「その人形は何に使うんですか?」
「あのね、ほら昨日ユウちゃんに貰った無修正のDVDあるじゃない。アレをアヤタンと一緒に見ながらいろんな事するの」
いろんな事については言及しない。
「どこで売ってるんです? こういう人形」
「十番の駅の方に地下あるじゃん。大きい通り渡ったとこ。僕行きつけなんだよ」
「あります? そんな店」
「あるよ。今度一緒に行こうよ。興味あるでしょ?」
「無いです」
「無かったらスカート捲らないよぉ」
人形の服を脱がせながら裕也を見て笑う。
「それをさ、昨日ユウちゃんに貰ったDVD見ようとして思いついちゃったもんだから、まだ無修正見てないの。すっごい楽しみだけどね。そのドキドキ感も楽しもうと思って」
「誰もあげてませんよ。あれはタクローさんの本への対価です」
この様子だと全く書いてないだろうと落胆する。どう文句を言おうか考える。先に、タクローがすっかり裸になった人形をまじまじと見ながら聞いてきた。小柄だがとてもスタイルがよく、裕也もドキリとする程だった。しっかり顔も見てみるが、その辺のアイドルより可愛い気がする。ただ、やはり目に生気はない。
「そんなことより、早かったね来るの。どうだったの?」
「どうだったのじゃないですよ。結果一万円マイナスです」
「えーなにそれー」
タクローが人形にパンツを履かせながら嬉しそうに言う。人形は器用に、といっていいのか片足をあげてパンツを履かされている。
「まあ、色々ありましてね……幽霊出て来たりとか」
それはタクローの文字とは関係ないかと、言ってから思う。
「幽霊? そんなの居るわけないじゃん」
「僕もそう思ってましたよ」
ついさっきもその人形をそう思いましたよ。
「なんだか、ここへ来て幽霊が見えるようになりました」
裕也のその言葉でタクローの人形に可愛いパンツを履かせる手が止まる。人形は両足にパンツを通された状態で固まった。とてもいやらしい。ただ、振り返ったタクローがいつもの薄っぺらい笑顔ではなく、真顔だったので少し緊張する。
「幽霊が?」
「ええ。幽霊が」
「幽霊が見えるようになる」
タクローが抑揚の無い声で言う。
「だから、もう見えてるんですって。今日だけで二人も」
裕也とタクローの間に妙な沈黙が訪れる。その時間をたっぷりかけて、タクローはゆっくりと薄っぺらい笑顔に戻る。
「ユウちゃん。やっぱりユウちゃんおもしろいね」
ヒヒヒと笑い出すタクローに裕也は不信感を抱くが、元々信用しているわけではない。今の裕也に、タクローが笑う意味は分からなかったので苦い顔でタクローを眺めていた。裕也の視線に気付いたのか、今度は意地悪な顔でタクローが裕也に聞いてきた。
「どんな幽霊?」
「さっき居るわけないっていったじゃないですか」
タクローに散々笑われたようでいい気分ではない。
「居るんだよ。そしてユウちゃんには幽霊が見えるんだ」
おめでとう。君ががんばったからだよ、とでも言うようにタクローが両手を広げ裕也を称えた。そして「どんな幽霊?」と再度聞いてきたので裕也は答えるしかない。
「……普通のサラリーマンみたいなのと、怖い感じの女でした」
「へー意外と普通だね。ゾンビみたいなのとかじゃないんだ」
早くも幽霊話に飽きたのが、つまらなそうにタクローが後ろを向く。
「ひいいいいい!」
タクローが裕也の足元へと倒れ込んできた。こっちが飛び上がってしまう勢いだ。
「どうしたんですか!?」
タクローは小刻みに震え、裕也の足にしがみついたまま振り返る。当然そこにはパンツを途中まで履かされたままの人形が佇んでいる。
「あ、なんだアヤタンかー。ビックリしたー」
「あんたバカなんですか」
裕也も驚いてしまっていたので余裕なく突っ込む。タクローは腰が抜けているように這ったまま人形へと向かう。
「でも……幽霊怖いんですね」
「……僕は見えないから怖くない」
別にそんな物欲しくないと強がる子供のようで、裕也の頬はゆるんだ。しかし裕也自身もこんなモノ欲しくない。見えたくない。