天使の抹茶ラテと悪魔の落書き㉘
【終わりの始まりⅨ】
トキエの涙に濡れた声が辺りに響いていた。
きっと、あの小さな交差点で車に潰され、死んだ事に気付いたその瞬間から裕也と話しをするまで。死してなお、意思を持ち続ける為に、想いを伝える為に、定めた目的が復讐だったのではないだろうか。
「一緒に居たかった」
復讐という理由をつけて、本当に伝えたかった事を伝えようとしたんじゃないだろうか。
鳴き声が聞こえなくなっても、昭吾という男はトキエを優しく抱いていた。
「おい。すまなかったな」
突然、男が声を投げた。タクローか僕のどちらかに投げられた言葉だろうが、男の視線は僕の方を向いていた。
「時恵をここに連れてきてくれて、ありがとう」
僕はタクローを見る。タクローは普段と同じような表情でニヤニヤしながら僕を見ていた。向けられたありがとうという言葉に無言で返すのもなんなので、言葉を返すべく口を開いた。
「じょんなびょじぇんじぇんきにじないでびゅびゃびゃひうう」
「ユウちゃんが泣くことないじゃないアハハ」
タクローが言う。僕の泣き顔が相当おもしろいらしくニヤニヤしながら肩を揺らしていた。でも良かった。伝えられなかった想いが伝えられたのだ。半ば強制的に手伝わされたとはいえトキエの『復讐』に協力できて良かった。
ただ気になるのは、昭吾の背中にしがみついている栄二という幽霊だった。振り子のように不気味に揺れていた首が、先ほどから全く動いていない。昭吾が抱きしめているトキエの顔を覗こうとでもしているようにも見えるが気のせいだろうか。
「……これからまた一緒に居られるのか?」
男がトキエに聞く。風貌に似つかわしくない優しい声だった。
トキエは泣きはらした顔を上げて、優しく、首を横に振った。
「昭吾に逢えたから、もうここには居られない」
「……そうか」
男は一瞬言葉に詰まったが、再び優しい声で答えた。
「この体もこの人に返さなきゃいけないし……でも、昭吾がタバコやめるならまた化けて出てきてあげるよ。臭いぞ! おじさん」
そうおどけていうトキエの表情は寂しさを必死に堪えているようで、裕也はまた泣きそうになってしまった。
「じゃあ……やめる。やめるよ」
今度は男の声が滲んでいた。裕也は再び泣けてしまう。
「約束ね。私の分まで生きたら、生まれ変わってからまた一緒に暮らそ」
うん……うん……と、今度は昭吾がトキエの腕に抱かれていた。
「アハーまたユウちゃん泣いてる」
タクローにまたしても泣き顔を見られた。
「だっで……じょうが……しょうがないでしょうが……」
トキエは昭吾の禿げた頭を撫でながら言った。
「だから、私の荷物は私が持って行かなきゃね」そして、なぜか裕也を見た。
「この人、私が一緒に連れてく」
力強くそういって「栄二」と昭吾の背中の男に語りかける。
血だらけの男、栄二と呼ばれた男は反応しない。裕也の位置からは表情が見えない。先ほどの家族の様に、暗い眼でトキエを見ているのだろうか。
「あなたはどんな未来を見ていたの?」
「どうすれば満足だったの?」
「もう大丈夫なんだよ」
「がんばらなくていいんだよ」
「一緒にいこう」
「二人なら寂しくないでしょ」
「あなたはどうしたいの?」
トキエの声が栄二をすり抜けるように、裕也へと聞こえて来る。
「ごめんね、私はあなたに言われたようには出来なかった」
「私はこの人を愛してしまったから。一緒に生きていきたいとおもってしまったから」
懺悔にもきこえるトキエの声を、昭吾は何も出来ずに黙って聞いている。トキエに抱きしめられながら。裕也もただ成り行きを見守る事しかできない。
いや。
「あなたももしかしたら、誰か大事な人がいたのかな?」
今、もしかしたら僕にしか出来ない事があるんじゃないか。
「私を使って、大事な人の為にやりたい事があったんだよね?」
「今もあるんだよね?」
裕也は車のドアをあけた。タクローは不思議そうにしていた。
「ねぇ。あれ今なにやってんの?」
「ちょっと待って」
裕也は、カバンの中を探り手帳からペンをとり出した。そしてさっきしまいこんだタクローのメモをポケットから取り出す。メモには既に滲んでしまい読めなくなってしまっている文字があるが、その文字の上からでもその脇にでも書こうと思えばまだ何か書けるはずだ。
「タクローさん!」
運転席の側に佇むタクローにその紙とペンを渡す。
「え? 何?」
「書いてください!」
「何を?」
「いいですか、僕の言うとおり書いて下さい」
「いいけど、本屋で書かなきゃ意味ないしコレもう滲んじゃってるから……」
「いいから! お願いします!」
タクローは裕也の勢いに呑まれるようにボンネットへ紙を置いた。
願いを込めて、裕也はタクローに伝えた。
「声が届きますように」
【トキエ】
昭吾の肩から私を見る栄二の目は真っ暗だった。先ほどコンビニの駐車場に居た家族と同じだった。声の届かない存在。存在しかしていない。怨む事でその場に居るだけの存在。真っ暗な目は何も見ていない。それでも私は栄二に語りかける。
栄二は父親が連れてきた借金取りだった。
ろくでなしどころか、私が稼いだお金を全てギャンブルにつぎこむ父親だった。それでも父親だった。たった一人の家族だった。その父親に売られたのが私だった。私は森村栄二の為に働かなければならなくなった。
ある日栄二はある人物を殺せば、自由にしてくれると言って来た。
ヤクザの世界の事はよく解らなかったが、自分の組が将来敵対する事になる組の一番偉い人であるらしかった。それが昭吾だった。
言葉にしてしまえばよくありそうな事だと笑ってしまいそうな位、陳腐だけれど。それでも言わずにはいられない程、私は昭吾に恋してしまった。たった一人の家族であるところの父を重ねたところもあるだろう。だって昭吾に、私は家族を感じていたのだから。
栄二とは定期的に連絡をとっていた。その度、殺人の催促をされた。私は無理かもしれないと伝えた。もちろんもう殺す気など無いという事は隠したつもりだった。その時の栄二の軽蔑した瞳は、私の存在に不安を植え付けるのに充分だった。今思えば、隠せていなかったのだろう。だから私は殺されたのだ。
「父親に捨てられるお前に帰る家があると思うな」
ある日の去り際に栄二が言った言葉だ。
最後の日、昭吾に私の不安をぶつけるだけぶつけたまま死んでしまった事が悔しかった。本当は毎日ありがとうと言い続けたかった。
私に居場所を作ってくれてありがとうと。
体の持ち主に、心の中でお礼を言う。同じような境遇で、波長が合う人だったから体に入る事が出来た。勝手に体を使ってごめんなさい。少し怒っているようだが、諦めにも似た感情で許してくれているみたいだ。なんとなくだがそう感じた。
願いが叶えられた今、そう長くはここにはいられないようだった。
気持ちが、体全部が消えたがっているのを感じている。気を抜くと上の方へ吸い込まれそうだった。でもまだだめ。昭吾にしがみつく、栄二も連れていってあげなきゃ。嫌いな人だけれど、昭吾に引き合わせてくれた人だもの。
「あなたの大事な人は大丈夫。だって生きているんだよ」
死んでしまった私が出来る事は多くないけれど。
「一緒にこれから出来る事やってみよう」
生を恨めしく思う事ではなく。
「一緒に大事な人の事を愛していこう」
そう言った瞬間、私達を静かに照らしていた。車のヘッドライトが一際明るく光った。夜の暗闇を全て蒸発させるような激しい光にも見えたけど、不思議と目が眩んだりしなかった。むしろ見えるモノも見えないはずのモノも見えてしまうような、見透かした上で全てを包んでくれるような、温かい光だった。光の方に目を向けると、ヘッドライトなんかではなかった。裕也だった。それは裕也の右手から流れ出る光だった。
なんだよ。いったい何者なんだよ。やっぱり凄い人じゃないか。
「時恵……」
すぐ側で、私の名前が聞こえた。
「許してくれなんて言えないが……すまない。悪かった」
栄二だった。昭吾の側に自分の足で立っていた。
「大丈夫だよ。一生許さないから、一緒に逝こう」
私は笑う。今度は笑って消える事ができる。
「昭吾。私の居場所。大好きだよ。愛してる」
胸に抱きしめたままの昭吾へ強く、強く伝える。そして最後のキスをした。昭吾の髭が口にちくちく刺さって嬉しかった。