麻布抹茶

天使の抹茶ラテと悪魔の落書き⑪

【ホクロ男とヒナちゃん】 

 三人はカフェへと入った。温められた店内の空気と、その空気に溶けたコーヒーの香りが裕也を少しだけホッとさせた。
「お前のおごりな」
ホクロ男の声にげんなりする。断るのが面倒臭いので何も言わなかった。
 ホクロ男と女はそれぞれの飲み物の他に、サンドイッチ二つとケーキを三つも注文した。絶対に三人で食べる為のケーキではないだろう。裕也は憮然とした気持ちでカフェラテの一番小さいサイズを頼んだ。それにしても、『クーゼ』じゃなくて本当に良かったと裕也は思う。
 店内は全て禁煙席だった。三階に上がるとテラスがあり、そこでのみ喫煙できるらしい。裕也はたばこを吸わないがホクロ男はたばこを吸うらしく、店内が禁煙だという事を知るやブツブツと文句を言っていた。三階のテラスへ出ると、やはり冷え切った外気が体を包む。眼下を見ると麻布十番商店街があり、向かいの通りの少し離れたところに『クーゼ』の看板が見えた。もうオープンしている時間である。アヤノさんは今日居るのだろうか。
「早く座れよ」
ホクロ男の声に振り返る。とって付けたような三人席に、二人とも寒そうに座っていた。
「あ、すいません」
裕也もそこへ座る。
「あー灰皿持って来て」
ホクロ男は別段悪びれもせず裕也に言う。さっきより少し太々しい態度になっている気がした。
 裕也は店内に戻り、灰皿を手に取る。ガラスの向こうに見えるテラス席で二人が笑っている。裕也の事を笑っている様に見えて不愉快になる。さっき感じた嫌な予感を認めることにした。これから嫌な事が起こるだろう。
「やばい」
そう呟いてクーゼのレシートの裏を見た。

最後の文字『思った事が現実になる』は滲んでいなかった。安堵のため息が出る。この文字で、いい出来事を起こすには常にポジティブでいないといけないという事に今更ながら気付く。再びテラス席を見る。男が裕也を手招きしている。どうやら早く来いと言っているようだ。小さくため息をついてテラス席へ向かう。
 今逃げれば良かったのでは……と思った時には、既に椅子へ座っていた。

「でさ」
サンドイッチとケーキを平らげながらホクロ男が聞いてくる。
三つあったケーキの一つは、二人が一口づつ食べて「不味い不味い」と盛り上がったあげくに、裕也の目の前にあった。食べていいそうだ。
「お前名前なんていうの?」
友好的を通り越して蔑んだ雰囲気さえ漂わせる言葉に裕也は不愉快さを感じる。サングラスの下から見えるホクロと口だけでも、へらへらと笑っている表情は伺える。
女はサングラスを外して、寒そうにコーヒーに口を付けている。
その顔はタクローの文字が消えるのも無理はないと思わせるものだった。華やかな印象が裕也のタイプではなかったが、どんな男でも「綺麗だ」と思わせられるだろう。不覚にも目が合ってしまい心臓が高鳴った。さすが麻布十番。
「なんだよ」
女が言う。性格は絶対よくない。裕也は思う。
「名前言えって」
サングラスを外しながらホクロ男が言った。目を瞑っているのかと思うほど細い目だった。注意して見ると、かろうじて黒目が動くのを確認した。サングラスいる? と聞きそうになるのを堪える。
「吉元裕也です」本名を言う。裕也は自分って素直だな、と幻滅する。
「いくつ? 大学生?」
「二十八ですけど……」
「え!? お前俺よりすげー年くってんじゃん!?」

ホクロ男が目を丸くした。
裕也はなんと言えばいいか言葉を探す。
「あのさ、ちょっと財布見せて」
「はあ? なんで見せなきゃいけないですか」

裕也の言葉に不愉快という気持ちが乗ってしまった。その言葉はホクロ男の声を大きくした。
「お前がこいつの財布盗んで金盗ろうとしたんだろうが? 金盗る所も現行犯でみてんだぞこっちは。何逆ギレしてんのお前!」
店内まで聞こえていたのだろう。テラス側に座っていた客達がこちらへ視線を向けるを、目の端で感じた。
「やめて下さいよ。それに盗んでないですよ! 落ちてたから拾っただけじゃないですか」
小声で反論する。
「お前が掏って無いっていう証拠はあるの?」
掏る? そんな事をする度胸も知識も技術もない。
「……掏ってないですよ!」
「だからさ、それを信じたいから君の財布を見せてっていってるのね? 分かるかな?」

ホクロ男の諭すような口調がさらに苛つきを誘うが、仕方なく裕也は財布を渡してしまう。
「別に盗ったりしねーよ。お前じゃねーんだから」
「……はあ」

裕也は生返事を返す。これからどうなるのだろうと考える。もしかしたら、言葉巧みに財布に入っているお金を持って行かれるのだろうか。それは困る。しかも運悪く今日は、家賃を払う為、いつもは入っていない大金が財布に入っている。それを見られたらやはり盗ったのだと思われかねない。
 ……これはもしかしてそういう手口の詐欺なのではないか?
冗談じゃない。このお金を失ってしまうと、家賃どころか年を越す前に餓死してしまう。
ホクロ男が裕也の財布を開いた。
「あの! ちょっと待って下さい!」
裕也が叫ぶ。ホクロ男が裕也を見て固まっている隙に財布を取り返した。しかしその拍子に財布から何枚ものお札が舞い落ちてしまった。コーヒーショップのテラスにお金が散らばってしまう。そして、冷たい風は無情にもお札を踊らせる。
「おいおい大丈夫かよ」
ホクロ男に心配されてしまう。裕也は慌ててお金を拾うが、広範囲に広がったお金を全て目で追うことは出来なかった。結局ホクロ男も、ヒナちゃんと呼ばれる女も手伝ってお金を拾い集めてくれた。
「すみませんでした」
裕也は二人に謝る。
「いやビックリしたよマジで」
ホクロ男が食後のコーヒーを飲みながら言う。
「でも良かったじゃん。おかげで君が盗ったんじゃない事は解ったから」
「え?」
「だってヒナちゃんの財布にはもっとお金入ってたもんね?」
「まぁそうだけどー……あーもーちょーショックー」

裕也は安心したのだが、少し悲しくなる。自分が大金だと思っていたお金は、この女の人にとっては『あーもーちょーショック』程度のお金より少ないのだと。
「財布が戻ってきただけでも運いいって」
ホクロ男が女を宥めた。
「免許とかキャッシュは?」
「全部ある」

女はやはり、それほど落ち込んだ様子もなく、再び財布の中のキャッシュカードを確認する。
「あ! そうだ。それだ」
「あ?」

二人が裕也を見る。
「そのカードをさっき見た時、SACHIO TSUZIって名前が書かれていたんですよ」
ホクロ男が何の事か解らないといった様子で女を見る。
「あなたのお名前じゃないですよね?」
裕也は女に聞く。女はホクロ男を一瞥し、キャッシュカードをテーブルの上に置く。
「……コレの事?」
「ええそれです」
「何? 何? どういう状況なの今」

ホクロがどこか楽しそうに騒ぐ。
「……旦那のカード」
「え!? 何!? ヒナちゃん結婚してんの?」
「まあね」
「まあねって……マジで?」
「まじで」

キャッシュカードを戻しながら女が言う。
「ヒナちゃん彼氏居ないって言ったじゃん」
「彼氏はいねーじゃん。あたし嘘ついてなくね?」

裕也は同意を求められた。いきなりだったので首をかしげる事しかできなかった。
「最初に言えよー。引くわーまじでー」
ホクロは不機嫌そうな声を出す。元々の顔がにやけているせいなのか顔は笑っているように見えた。
「別にあんたに関係ねーじゃんそんなの。お前あたしの何だよ」
「はあ? 他人の使い捨てとか興味ねーんだけど」

怒気が漂う言葉を交わし始めた二人を眺める。
裕也は冷めたコーヒーカップに口をつけた。
幸夫との出会いを思い出す。そして友美との出会いに関わったタクローの本の事を思う。嫌な予感はこれだった。
 体が少し震えた。

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