天使の抹茶ラテと悪魔の落書き㉚
【終わりの始まりⅪ】
【小岩井宏美】
風に一度溶けてしまったような声だった。
目を凝らして、少しずつすくい取るように僕はその声を聞く。
「たけちゃん!」
「あのバカ野郎。人と話をする時は目を見て話せって言ったのは自分だろうが……」
良かった。タケチャンにも聞こえているようだ。
言葉はほとんど聞き取れなかったけれど、心に染み入っていくように栄二さんの声が届いていた。どこから聞こえているのか解らない。上なのか下なのかすぐ側からなのか。いつもの優しい声だった。
「正しくいられなくてすまなかった」
そんな言葉が聞こえた気がする。
「お前達に筋を通せなくてすまなかった」
そんな言葉が聞こえた気がする。
「俺は最低な人間だったけどな、人生で唯一大切なモノがあるとしたらそれは間違いなくお前達だった。ありがとうな」
そんな想いが聞こえた。
「いつ死んでもいいように強く正しく生きろ」
聞こえた。はっきりと。
「くそ栄二ぃ! お前の分まで生きてやるから……そっちで待ってろよ!」
タケチャンが潤んだ声で叫んだ。僕も叫ぶ。この声が届くか解らないけれど、栄二さんの気持ちを全力で振りかぶって投げるように叫ぶ。
「おりがとうごじゃいました! 本当のおとうさんだと思っていました! こんな僕を……僕を……」
普段なれない声を出したから、喉がびっくりして声を詰まらせたようだ。激しく咳き込んだせいで涙が止めどなく溢れてきた。僕は堪らなくなってしゃがみ込んだ。
「おいおい、大丈夫かよ」
僕の背中をさすってくれたタケチャンの目にも一杯の涙が溜まっていた。僕が咳き込むのが面白かったみたいだ。
「おりがとうごじゃいましたってなんだよ」
タケチャンが笑う。
「喋るの慣れてなくって……」
僕も笑った。栄二さんの笑い声も聞こえた。
僕達がひとしきり笑い合ってすぐ、下尾と上村が近づいてきた。
「あの男逃げちゃいましたよ」下尾が言う。
「あのやろう妙な紙くずを落としていきやがりました」
上村がぼろぼろの紙くずを指先でつまむように持っていた。
「貸してみ」
タケチャンが受け取って広げた。滲んだ文字が裏表に書かれていた。少しずつ漏れ始めている朝日で、滲んだ文字を読むことが出来た。
ひらがなで「こえがとどきますように」と書いてあった。もう片方の文字は滲みきっていて読めなかったが、どちらの文字が僕達に作用したのかはすぐに解った。僕達は栄二の声を届けられたのだ。
僕はタケチャンをみた。
「あのやろう……粋な事しやがって」
あの男はタクローの能力を僕達の為に使ってくれたらしい。
「こんな使い方もできるんだな」
タケチャンが呟いた。
「どうします?」
上村が聞いてきた。
「追いかけて攫いますか」
下尾が足をかばいながら提案してきた。
タケチャンは頬の傷口をなぞるように触る。
「いや、ハゲを起こそう」
そういうと、車の中で寝ている大河原組の組長のところへ向かった。
「おいおっさん起きろ」
「ううむ……」
大河原組の組長は唸るだけだった。タケチャンが僕を一瞥した。
僕は心配そうに見ている下尾と上村の首を掴んだ。
「え?」
「ちょっと? なんです?」
二人が不安げな声をだす。
「おいおっさん起きろ!」タケチャンがもう一度言う。さっきと同じセリフだったが、さっきと違うのはフルスイングで大河原組の組長の頬をビンタしている所だ。
「ああ! おやじぃ」
「おいおい。このまま昏睡してる方が危ないだろ? 急性リンパ中毒アッペンガー症候群の発作だぞ」
たけちゃんが安易な病名を創作した。さすがにそんな名前じゃギャグにもならない。
「え……ええ!?」こともないようだった。下尾が仰々しい病名に驚く。
「急性リンパあっぺ……本当ですか!? お……おやじ!」
上村が心配そうに叫んだ。
「起きてくれ!」
僕は吹き出しそうになるのを我慢して二人の首をはなす。
何? アッペンガーって。
「起きろおっさん」
「起きてくれおやじ!」
「戻ってこいおやじー!」
二人の応援を受けながら、たけちゃんが笑いながらビンタを繰り返す。
「ははは。見てみろヒロ! 顔が倍になってるぜ。ははは」
「おやじー! ブフっ」
「頑張れー! ははは」
二人も自分の組長の腫れ上がった顔を見て笑っていた。
「ううん……痛いよー」
大河原組の組長がぼそりと呟く。タケチャンはビンタする手を止めて聞く。
「おお? 起きたか?」
「組長!」
「よかった!」
「痛いよー。ほっぺが痛いよー」
悪夢にうなされるように手を伸ばす大河原組の組長にタケチャンは容赦なくビンタを再開した。
「ぶっ痛……起きぶっ……起きたからぶっ……痛いわぁ!」
勢いよく起きた大河原組の組長に、悪びれもせず爽やかに挨拶をするたけちゃんだった。
「タクローの車に積んだ爆弾が爆発するのはいつだ?」
「知らん」頬を腫らした大河原組の組長が仏頂面で答えている。
「爆発を止める方法は?」
「あるかいそんなもん。時限式の爆弾とはいえ起爆装置を押した奴が距離を取る時間しかない。今となっては一緒に吹っ飛んでくれたら良かったと思うがな」
大河原組の組長は忌々しい視線を下尾と上村へ向けた。
「すいません」
「もうしわけねぇです」
二人は大河原組の組長の足下で土下座している。
「おいおっさん」
たけちゃんの強い語気に、空気が少し張った。
「おっさんだぁ小僧。誰にもの言って……」
「俺達はこれからあの車を追う」
「はっ。そりゃあいい。関之尾組の若頭が一緒に吹っ飛んでくれたら多少の面倒事が減るわい」
「そうだ。俺は命を張る。もしあの車に乗ってる連中を生かす事が出来たら俺達の勝ちだ」
「勝ちだぁ? 意味がわからん。何の勝負だ」
「俺達が勝ったら……」
たけちゃんはまっすぐに大河原組の組長の目を見た。
「正々堂々とシノギを削りましょうや。タクローの力じゃなく、俺は俺の力でアンタの組と勝負したい」
大河原組の組長は深いシワが刻まれた目尻を細め、たけちゃんを睨み付ける。沈黙をつなぐ様に微かに海の香りを含んだ風が吹き抜けた。やがて大河原組の組長が怪訝な表情で口を開く。
「わからんな。その賭けに貴様が勝って俺が言い分を呑むとしてだ、タクローが死ぬ事と結果は同じじゃねぇか」
たけちゃんはその言葉を聞き終わる前に歩き出していた。背中を向けながら答える。
「違うなぁ……目の前の命は助ける。コレは俺が決めた正義だ」
僕もたけちゃんの背中に続いた。
「ヤクザってなぁ正義の見方なんだぜ」
たけちゃんが栄二さんの口調を真似てそう言った。
「戻ったら挨拶しに来い」
後ろから大河原組の組長が叫んだ。
タクローの車は無くなっていた。眼下に横切る道をみると、朝日に照らされる赤い車が走っているのが見えた。ここは峠道だ。方向さえ解れば、ほぼ一本道だろう。追いつくことが出来れば何とかなる。だが、こうしている間にも爆弾がいつ爆発するか解らないのだ。
「アニキー」
「アニキ待ってくれー」
下尾と上村が肩を組みピョコピョコと怪我をかばいながら走ってきた。
「なんだよ。いつからお前等と兄弟になったんだよ」
たけちゃんが笑いながら言った。
「組長から一緒に行けと言われまして……」
「なんにでも使ってください」
僕は運転席に乗る。そう言えば運転も栄二さんに教わったんだ。
「ヒロ。フルスロットルだ」
たけちゃんの言葉に頷く。運転には自信があった。栄二さんが夜になると僕を色々な峠へと連れて行ってくれた事を思い出す。もしかしたらこの道も走ったかもしれない。
大河原組の若い二人が後ろのドアを閉めた音を合図にしてアクセルを踏み込んだ。