麻布抹茶

天使の抹茶ラテと悪魔の落書き②

【疲れた男と黒ごまラテ】

 昨日の帰り道、初雪がハラハラと降っていた。地下鉄で自宅のある葛西駅に降り立った時には小雨に変わっていたが、それでも鹿児島育ちの吉元裕也は雪が積もる事を期待していた。


 次の日、薄手のジャケットの上からの突き刺さるような寒さとビニール傘を叩く大粒の雨の音を不快に感じながらバイト先のある麻布十番の商店街を歩く。バイト先はこの商店街を抜けた所にある。古いマンションの一室で、客から注文のあった裏物のアダルトDVDをコピーして郵送する仕事だ。原価の安い空のDVDにモザイクの入ってない映像をコピーして入れる。それだけで売れるようになるのだから、儲けが出ないはずがない。人間の三大欲求の一つである「性欲」は不滅の商売だ。もちろんまっとうな仕事ではないが、その分貰える金も多かった。この稼ぎを知ってしまった今、接客業で時給いくら等という仕事に戻るのは難しいだろう。もちろん就職など論外だ。


 裕也はそこで週に六日出勤で仕事をしていた。忙しい日は終電になったりもするが、基本的には一日5時間位やれば終わる楽な仕事だ。客から注文のメールが届くのは午後だ。つまり仕事が始められるのは昼過ぎからなのだが、自分の雇い主が変に時間に厳しい為、決まった時間に出勤させられている。
 正午になろうとしている麻布十番の商店街には雨の為、いつもより車の通りが多かった。土地柄というべきなのか、車に疎い裕也でも知っているような高級車しか走っていない。この街は高級車以外は走ってはいけないという法律があるに違いない。それを自分と同じか、年下の男がモデルのようにスタイルの良い女性を助手席に乗せて走っているのだ。二十八歳にもなってダラダラとフリーターをしている裕也には、どう転がっても縁の無い物だろう。彼らは違う。何千万もする車を乗り回す暇と金と職業を持っているのだ。顔なんか格好よくなくたっていいのだ。金さえあれば、いい車を乗り回し、いい女を乗り回す事ができるのだ。高級車の中でいちゃつく男女を見ていると男と目が合いそうになったので慌てて目をそらした。そらした場所には美容室の看板があった。見た事も無いような綺麗な女性が格好よく映っている。名のあるモデルさんだろうか。普通の女性がこの看板を見て、こうなれると思い足繁くこの美容室へ行ったところで永遠にこの女性のようになれることはない。生まれついての格というものが残念ながらあるのだ。
 そう思うと、東京に出てきた時点で人生の選択を誤っていたのではないかという結論にかぶりを振り切なくなる。十八歳の頃の人生設計では自分はもう三台目の高級車を乗り回しているはずだったのに。年齢が増えるにつれて選択肢は減っていく。選ぶことが出来たはずの道は勢いよく消えていく。選んだ道の先は時間が経つにつれて崖となって崩れ細くなり、もはや立つことさえままならない。戻ることもできないし前に進む事も出来ない。自分には望むべきものを手にする格は無かったのだ。


 十代の頃、高い学歴は手にする事が出来ないと高をくくり、俳優になると意気込んで田舎から上京した。それらしい俳優養成所に大金を払い入所してみたものの、そこはそれらしい詐欺事務所であった。仕事という仕事はなく、あるのは「オーディションに落ちましたよ」という連絡のみであった。やがて連絡も来なくなり、おかしいと思って事務所のあった場所へ同期の仲間と行ってみたが、そこは見事にもぬけの殻であった。しばらく、その仲間と舞台などを企画して公演を行ったりしていたが、素人の舞台を好き好んで観に来てくれるお客も、友達も居ないためお金と時間ばかりが消費された。自分の脚本で、自分の演技でみんなを感動させるのだ。いつか沢山の人に評価され、テレビに映る我が子を親に見せてやるのだという情熱は、十年という月日に埋もれてしまった。毎年、田舎から意気揚々と上京してくる人間は、こういう風に干からびていくのか……と、身に染みて悟っていた。
 たまに来る親からの電話は帰ってくるように、との強い希望を押しつけてくるものだった。だが裕也にとって田舎へ帰るという選択肢は死なない為の最後の選択肢だった。親からの気遣いは鬱陶しいのだが、最後の選択をする勇気も持ってない。それは『すべてを諦める』勇気だ。諦めない為の努力はしていないのに都合の良いことだと、自己嫌悪はしている。


 ともかく、現在の裕也が持っているのは、仕事を紹介してくれる人のつて。そして俳優ごっこをしていた時につるんでた人間の電話番号とメールアドレスだ。連絡こそ取らないが、一人は今、月曜日の九時のドラマにレギュラーで出ているし映画にも何本か出ていた。さらにもう一人は、いつの間にかバラエティタレントとしてお茶の間の人気者になっていた。二ヶ月前、その二人から裕也の携帯に着信があったが、おそらく夢叶わなかった人間に対して優越感でも得たかったのだろう。
 ともあれ、あの頃つるんでいた他の仲間達がが今何をしているのか等、もはや今の裕也にはどうでもいい事だった。

 「クーゼ」というカフェの前で裕也は傘をたたんだ。いつもはコンビニで百円のペットボトルのコーヒーを買い、それを飲みながら仕事をする。正直コーヒーの味など分からない。熱いと冷たい。それと苦いと甘い。その組み合わせでしかない。どうせ飲むなら安いのに越したことはない。ただ今日は無駄に高い珈琲でも買って、気分だけでもリッチになりたかった。
 麻布十番という場所はカフェや喫茶店が多すぎる。それほど、時間と金を持てあました人間が多い街という事か。
 店頭のボードにはかわいらしいイラストにピンクの文字で『抹茶ラテで身も心もホッカホカに』と書かれている。確かに、今は身も心も冷め切っている。他にもお茶のイラストや、おにぎりのイラストが描かれている。どうやら和をテーマにしたお店で、抹茶とミルクを混ぜた飲み物や黒ごまとミルクを混ぜた飲み物などが珈琲よりもメインのようだった。

 自動ドアが開くと、たしかに珈琲豆の匂いが迎えるというような印象は受けなかった。柔らかい照明と和風のインテリアが店内を彩っている。すぐ右側に注文用のレジカウンターがあり、少し奥にはおそらく注文したものを受け取る為の小さいカウンターがあった。 突き当たりの階段は二階と三階の客席へと続くらしい。
 注文用のレジカウンターに立つ。店員が出て来ない。
「すいませーん」
裕也がそう言うのと同時に奥から女性の店員が小走りで出てきた。柔らかそうなセミロングの髪と優しげな二重の目が印象的だ。白く透明感のある肌は、この店内の光源だといわれても納得してしまいそうだった。薄いピンク色の唇が動く。
「すみません」
高めの柔らかい声は可愛らしい印象を受けた。
「いらっしゃいませ。おまたせしました。店内ご利用ですか?」
店員さんが言う。
「えっと……」ご利用したいところだが、ゆっくりしていられる時間はない。
「持ち帰りでおねがいします」と店員さんを見て答えた。ここで、圧倒的な違和感に気付いた。店員さん超可愛い。アレ? 尋常じゃない。可愛い。可愛い。美しい。可愛い。あ、この子と結婚したい。麻布十番で僕を待っていました天使が。
 脳に、本能から直接溢れ出す言葉が雑り意味の解らない形になる。その形が目の前にいるこの女性になって実際の視界とシンクロした。それから先はもう女性の顔を見ることが出来なくなった。
「ご注文はお決まりですか?
 どのような表情で喋っているのか、裕也にはその子の顔が見られない。言葉がなかなか出て来なかった。呼吸をしていない事にようやく気付いたので息を吸う。そのついでに言葉を吐いた。
「いえ……ま……でゅふ……まだでゅふ……」
噛んだ。
「こちらがメニューです」
手元のメニューへと視線を促された。
和がテーマになっているだけあり、おにぎりセットやお茶などがセンスのいい写真付きで載っている。
「あの……どれがおいしいですか?」
少しでもこの子の声が聞きたいという衝動は、必死で言葉を紡ぐという行動で昇華される。
「ただいま期間限定の黒ごまラテをおすすめしております」
ハキハキとした口ぶりに圧倒されながら、おすすめされた黒ごまラテを頼む。お金を渡し、おつりを貰う。手が震えた。
 商品を受け取るカウンターへ行くと、その子の姿は見えなくなった。どうやら、注文された黒ごまラテを作ってくれているらしかった。店内を静かに包むジャズの音より自分の心臓の音の方がうるさかった。手が震えて貰ったおつりを財布の中に入れることに苦戦していた。裕也の脳髄にあの子の印象と一目惚れという言葉が焼き付く。
「これか」
自分にも聞こえないような声でつぶやく。噂には聞いていた。そのような描写がある漫画も見たことがあった。
 視界の端でさっきの子が慣れた手つきで機械を操作している。視界の隅なので、輪郭くらいしか見て取れないが、一つ一つの動きすら美しく見える。名前が知りたかった。ここで声をかけなければ男ではないと強く思う。こっちだって十年程前は多少もてたりした時期もあるのだ。たぶん。名前位教えて貰えるさ。どうだろう。
 いやいや。二十歳そこそこ程の娘に気後れしてたまるか。震えそうな足を一歩、また一歩と出す。注文用のカウンターへ戻った。女の子は不思議そうにこちらへ近づく。再び心臓が高鳴った。やっぱりものすごく綺麗な顔だ。いや、そんな事よりもこの圧倒的な清潔感はなんだ。裕也は気圧されながらではあるが、しっかりと言ってやった。
「追加で注文いいですか?」
うわずりそうな声を抑えながら。嘘だ。うわずっている。
「はい。どうぞ」
「あの……おにぎりを二つ」
「はい。お味はこちらからお選びになれます」
声に知性を感じる。
「どれがおいしいですか?」
「若い方ですとこちらのチーズの入った物が人気です」
若いですか? 僕30手前だけどあなたからすると若い方の部類に入るんですね。心の中でコミュニケーションが取れた気になる。
「じゃあそれを二つ」
チーズは嫌いだったが、それを頼む。お金を渡し、おつりを受け取る時にネームプレートを見た。『AYANO』と書かれてあった。手はまだ震えている。
 あやのさんは奥の厨房にいる人へおにぎりのオーダーを伝えた。
一緒に働いている人は大丈夫だろうか。この女性を目の前に、ちゃんと話しが出来るのだろうか。自分なら見とれて何も仕事が出来ない気がする。ここまで考えてから、嫉妬した。
「お待たせしました。ありがとうございます」
裕也が顔を上げると、あやのさんと目が一瞬合った。ドッと全身から汗が出る。あやのさんは頼んだ黒ごまラテを紙袋に入れてくれた。裕也はチラチラと芸術とも思える存在の顔を盗み見るので精一杯だった。裏でおにぎりを作ってくれていた店員さんが、キッチンから出てきておにぎりを紙袋へ入れてくれた。女性だったので少しほっとする。
「どうもありがとう」とだけ言い、商品の入った紙袋を受け取る。体が熱かった。商品を受け取ってしまったのでそこに留まる事が出来ず、仕方なく店の出口へ向かう。
「ありがとうございました」
あやのさんの声が背中を押す。振り向きたいのを我慢した。
 自動ドアが開くと冷たい外気が汗を冷やす。少し落ち着いたような気になる。ほんの数秒前の事なのに、覚えているのは優しそうな顔だったな、という印象と清潔感。束ねられた栗色の髪と、凛とした雰囲気だけだった。どのような造形の顔だったのかは全く思い出せない。振り向いて、実在の人物かどうか確かめたかったが、何故か気恥ずかしくて振り向けず、そのまま歩き出した。一つ目の角をバイト先とは逆の方に曲がってしまう。頭がボウっとしていてうまく何かを考える事が出来ない。とりあえず道を間違えた事だけは理解出来たので、来た道を戻る。
 傘をさしてない事にも気づけたので、受け取った袋に苦戦しながらもさす。頭の上にはじける雨音が聞こえだして数秒後、大きなため息が出た。
「すげえアレ……」
口が勝手に呟いた。


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