【短編】世界の中心は
その死神はこの世界でもっとも若い死神だった。
年上の死神達から言葉を学び、空の飛び方を教わり、人の魂の狩り方を教わり、魂の食べ方を教わり、ついに先日一人立ちをしたばかりだった。
死神は空を飛んでいた。地上を見ながら、風に乗って飛ぶのは気持ちが良かった。森の上を飛び、様々な木々や動物たちの息吹を感じた。大きな川をなぞるように飛び、巨大な滝に出来た虹のアーチをいくつもくぐった。鳥達と列を組み、鳴き声を真似て遊んだ。
若い死神はこの世界の美しい風景が好きだと感じた。そして、記念すべき最初の獲物を探していると、大きな丘の頂上に小さな小屋があるのを見つけた。死神はその小屋の近くに舞い降りた。丘の上から見る景色もまた美しかった。
世界の中心だと言われても納得してしまいそうなほど静かで、穏やかな風に揺れる草花を遠くまで見渡せた。小さいけれど石で作られた頑丈な作りの小屋に入ると、中には痩せた男がいた。
「や……やあ、初めまして。僕……私は死神です」
死神が言葉を人に向けたのは初めてで、うまく話せているか不安になった。
「おどろいたなあ。こんな場所までよく来たね」
男は柔らかい笑顔で向かえてくれた。
「私は死神なので、あなたの魂を貰いに来たんです」
「そうかそうか。そこにかけなさい。コーヒーがあるから今持ってこよう」
椅子に座っていると、いつのまにか促されるままに苦い飲み物を飲んでいた。年上の死神が見ていたらさぞや怒っただろう。
「せっかく来てもらって悪いのだが、僕はまだまだ死なないんだ」
同じ飲み物を飲んでいた男が言った。死神はあらかじめ用意していた言葉を口にする。
「あの……えっと……魂をくれたなら、お前の願いを一つだけ叶えてやります」
「ははは。願いなんて何もないさ」
「え? あの……その……」
死神はしどろもどろになりやがて口をつぐんだ。そんな死神の様子を見た男は優しく微笑んで聞く。
「魂とはなんだい?」
「た、魂は、人は死ぬとあの世にいくので、あ、魂がですけど、またこの世界で命で生まれる時に必要で、だけど、記憶とかそういうのはなくなってるし、魂を死神に渡しても苦しんだりとかそういうのはないですから安心してください魂をください」
死神が頭の中で用意してきた言葉がめちゃくちゃになって出てきた。先輩達のように流暢に言葉を話すのは難しいと思った。
「うんうん。そうかそうか。僕の魂は今すぐに欲しいのかい?」
「いえ……今でもいいし、いつでも……」
「そうか、じゃあ……いつか僕が死んだらこの魂をあげよう」
男が胸に手を当てて言った。
「本当? じゃ、じゃあ願いを一つ叶えてやろう」
「うーん。困ったな。願いなんてないんだよ」
「それは駄目です。死神は人の願いを叶えなきゃ魂もらえないので」
「そうだな、時折ここに遊びに来て欲しいってのはどうだい?」
「そんな事でいいの?」
「ああ。君が来てくれると嬉しいよ。ただ、僕はまだまだ死なないから気長に待っててくれよ」
そう男は笑いながら言った。こうして死神の記念すべき最初の契約が結ばれることとなった。
死神はいつものように飛ぶ。大きな川をなぞるように飛び、滝に出来た虹のアーチをくぐる。そして見えてくるのは大きな丘だった。頂上には、最初の契約者が居る石造りの小屋がある。
死神はここに世界の中心と名前を付けていた。
しばらくぶりに会った男はベッドに座っていた。小屋の中は少し薄暗く、ベッドの側にある窓から差し込む光が、痩せた男の顔を浮かび上がらせていた。死神は言う。
「久しぶりだな。私は死神だ。お前の魂を輪廻の理から解き放ってやろう」
「やぁ来てくれたんだね。嬉しいよ。言葉もうまくなったようだね」
以前と変わらない優しい笑顔で、男は言葉を続けた。
「少し体の調子が悪くなってきてね。うまく動けないんだよ。悪いけどコーヒーは自分で作ってくれないか?」
死神は促されるままコーヒーをふたり分作って男の側に座った。
「そろそろ死ぬか?」
男は死神が淹れたコーヒーを嬉しそうに飲みながら答える。
「ははは。まだこれくらいじゃあ死なないさ」
「そうか。無理して死ぬこともない。いつ死んだとしても魂は私のものだ」
「わかっているさ。そういう約束だ。また会いに来てくれるね?」
「もちろんだ。魂は新鮮なうちでないと食べられないからな」
「そうなのかい?」
「そうなのだ。魂はすぐにあの世に持っていかれてしまう。契約者が死んですぐじゃなきゃ死神は食事にありつけないんだ」
「大変だね。じゃあ僕が死ぬときは君が側にいてくれるわけだね」
「そうなるな。だから私が近くにいないときに死ぬなよ」
「ははは。そうするよ。それにしても君のコーヒーはまずいな」
死神はその日、男にコーヒーの美味しい淹れ方を教わった。男とこの場所で過ごす時間はとても穏やかで、辛い事や悲しい事を少し遠ざける事が出来た。
「またくる」
「ああ。待っているよ」
男は結局ベッドから一度も立ち上がる事なく、死神を見送った。
死神は飛ぶ。海の上を飛ぶ。太陽の光が痛い程に降り注ぎ、水面をキラキラと忙しくさせていた。やがて男の住む小屋が見えた時、死神は自分の胸が高鳴っているのを感じる。
この場所には、自分を待ってくれている人がいる。それを知っているだけで、死神はどこにいても嬉しくなれた。
石造りの小屋は以前見たときよりもだいぶ傷んでいて、中に入るとベッドに横たわる男がいた。死神は誰かを待つようにベッドの横に置いてある椅子へ座る。
「久しぶりだな。私は死神だ」
死神の声を聞いた男はゆっくりと目を開けて、少しだけ笑った。
「ずいぶん弱っているようだな。待ってろ美味しいコーヒーを淹れてやろう」
死神はふたり分のコーヒーを淹れてベッドの傍らに置いた。
「ああ、いい匂いだ。嬉しいよ。だけどもうコーヒーさえ飲めなくなってしまったんだ。ごめんよ」
「ははは。気にするな。実は私はコーヒーは好きではないんだ」
「ははは。僕は好きなんだよ。コーヒーも。君の事もね」
死神は気恥ずかしくなって、嫌いなコーヒーを飲み干して言った。
「……そろそろか?」
「ああ。待たせたね。そろそろだよ。このまま僕の側に居てくれるかい?」
死神は一つ短い息をついて答えた。
「ああ。そういう契約だったからな。ようやくコーヒーの口直しができる。ははは」
そう言いながらも死神はいつも通り喋れているか不安になった。
「手を握ってくれるだろうか?」
「もちろんだとも」
死神は、男の機械で出来た右手を両手で包んだ。皮膚に覆われていないその部分はひんやりと冷たかった。
「僕が人に作られてからこれまで、ずっと死について考えていたんだ」
「ははは。人がよく考えがちな事だな」
「ははは。そうだね」
「答えは出たのか?」
「僕なりのね。君のおかげだよ」
「私は何もしていない」
「死は別れだ。僕は君のおかげで別れを知ることが出来た」
「私は何もしていない」
ボロボロの皮膚が覆う男の左手が死神の手にそっと触れた。
「君は居てくれた。僕にとってこんなに幸せな事はないよ。ありがとう」
男はそう言うと死神が好きだった笑顔のまま動かなくなった。
男の体から魂は出てこなかった。だが、死神にとってそんなことはどうでも良かった。やがて死神は死について考える。生について考える。
窓から外を見ると、小屋を取り囲むように海が迫っていた。地上は死神が初めてこの場所に来た千年前とはすっかり様変わりしていた。死神が好きだった森も滝も海になってしまった。死神が生きていくために必要な人も、この地球上には既に居ない。
年上の死神達も、もう全て消えてしまっていた。
その最後の死神は、死について考えながら、動かなくなった機械の男の傍で目を閉じた。
世界の中心と最後の死神を静寂が包む。