天使の抹茶ラテと悪魔の落書き⑫
【幸夫と友美と屋上】
テラスには裕也と『ヒナちゃん』だけしか居なかった。結局ホクロは散々ヒナちゃんを罵った後、「お前死ねよ」と言ってこの場から去っていった。
その一瞬だけヒナちゃんが虚ろな表情をした。
「うけるねー。ごめんね、なんか」
「いえ……」
裕也に向き直り残ったコーヒーを一口飲んだ。
ヒナちゃんは六本木でキャバ嬢のバイトをしていて、ホクロは探偵をしているらしい。昔、仲の良かった同僚の事を根掘り葉掘り詮索しに店に来たのが付きまとわれるきっかけだったようだ。変な客に捕まる事は多々あるので、今回の事も別に珍しい事でもない。裕也が聞く前にヒナちゃんの方から話してくれた。ヒナちゃんの話が一段落ついた時裕也は聞いた。
「あの、辻友美さんですよね?」
「そう。なんで? キャッシュカード見た?」
「いえ。幸夫さんに……から聞いてて」
そこまで言って口をつぐむ。友美は黙って裕也を見ていた。
「その……幸夫さんが死ぬ前に、です」
「……そうなの」
「自分には勿体ない位綺麗だって言ってました」
「……全然。汚いよ。あたし」
しばらくの間、裕也も友美も話さなかった。何故だか、その沈黙は気持ち悪い物ではなかった。
「名前は、ヒナちゃんって……」
「ああ、それは店での名前」
「なるほど」
名前を変えることで違う自分になれるのだろうか。役名をもらえた役者も、どこか似たような感じだな。裕也は昔のことを考えそうになるのを堪えた。
「コレ付けましょうか」
裕也が側にあったパラソルヒーターに火を付ける。再び流れる沈黙を埋めるように、ガスに炎が点る音が聞こえた。やがて上の傘の部分から日差しを強くしたような暖かさが二人に注ぐ。
裕也は、幸夫の望んでいた、友美の安否を確かめる事以上の成果があった事を単純に嬉しく思った。
「さっちんのいつの友達なの?」
さっちんというのが幸夫の愛称だという事にすぐに気がつく。
「えっと……マンションが近所だったんで。なんかたまに外でバッタリと会う事が多くて……そのまま色々話すようになってですね」
嘘を言うと口数が増えるという話を思い出した。今の自分はまさしくソレだと裕也は思う。
「家って十番なの?」
「はい。あのマンションのすぐ近くで」
あなた達夫婦が住んでいた部屋でバイトしていて……とは言えない。
「へえ……さっちんの友達の事疑ったっていったら、あたし怒られちゃうね」
「そんな怒るようなタイプには見えませんでしたけど……」
友美は俯く。幸夫の姿を思い出しているようにも思えた。
「まああんな感じだったからね。喧嘩の時もあたしの方が一方的に騒いでたって感じだったな」
「ですよね。体は凄くでかいのにでかく見えないっていうか」
「……あのね、人の死んだ旦那をあまり悪く言わないでくれる?」
「あ……えっと、ごめんなさい! まだ間もないのに……」
友美さんは悪戯な微笑みを浮かべながら裕也を見た。それほど怒ってはいないようだ。裕也は、さっき性格が悪いと断言した事を撤回したくなる。
「そういえば最近来ませんね。屋上。何かあったんですか?」
その言葉で友美の顔がこわばるのがはっきりと見てとれた。
「なんでそんなことまで知ってるの?」
「僕の部屋からマンションの屋上がよく見えるんですよ。前に、友美さんがいらっしゃってたのを見たものですから……」
幸夫の話を思い出しながら、話に辻褄を合わせようとする。幸夫さんが今寂しがってるんですよ、などとは言えない。
「……よく見るの?」
「何をです?」
「屋上」
質問の意味がはっきり解らなかったが一応答える。
「あーえーっと、そうですね。僕の部屋夜景くらいしか見る物ないんですよね」
友美は何やら考え込むそぶりを見せた。口数は減り、顔色も悪いように見えた。大丈夫かと伺っていると、友美はゆっくりと裕也を見据えた。
「あたし夜に行った事なんてないんだけど」
緊迫した様子の友美さんに裕也は怯む。
「もちろん見たのは昼間ですよ」
「……あの屋上が見えるマンションなんてあったっけ?」
そんなことは知らない。
「ありますよ」
「周り全部墓地じゃん」
その通りだ。無いかもしれない。
「ほら、その墓地の向こう側の方に……」
「どんなマンション?」
コンクリートで出来たような堅さの。
「同じ位の高さのです」
友美は平静を装えてないといった表情で裕也を見つめたまま動かない。
「ねえ……何を知ってるの?」
「ですから……幸夫さんが亡くなった事とか……」
裕也は飲み終わったコーヒーカップを手で弄びながら、幸夫の幽霊に頼まれたのだと話そうか迷う。もしかしたら信じてくれるかもしれない。そう考えていると、再び友美が質問してきた。
「さっちんといつ会ってたの?」
なんという事の無い質問だが、友美の声の重さに、言葉を選ばなければならないと感じる。自分は何を話して、何を隠さなければならないのだろうと考える。しかし、質問に答えるという短時間では、うまく頭も回らない。
「えっと……」確か、幸夫はコートの下に背広を着ていた。おそらく何処かの会社員だっただろう。「会社帰りに駅で会った時とかですね。帰る方向一緒なんで」
「最後に会ったのはいつ?」
友美が目を瞑る。やばいのか。これはやばいのか。
「え……彼が亡くなる一週間位前ですかね」
「一週間位なのね?」
「はい。一週間位前です。だから、お亡くなりになったと知ったときはびっくりしました」
考えた末に、適当な嘘をついた。
「どうやって知ったの?」
「ああ、死んだ」本人に直接会って聞きました。「……のを知ったのは……近所のおばさんが教えてくれたんですよ」
裕也の嘘を聞くと、友美は目を瞑ったまま、深くため息をついた。
「ぱ……パンチパーマの! 眼鏡の人!」
誰だそれ。言わなくてもいいセリフを言った後は友美さんの言葉を待った。なぜだろうか、最後の審判を待つ咎人のような気持ちになった。自分の発言は正しかったのだろうか。やがて友美が目を開ける。
「最近ね、夢にさっちんが出て来るの」
唐突な話題だった。
「夢ですか」
「毎日同じ夢なの」
友美はコーヒーカップを見つめている。
「さっちん、まだ怒ってるんだと思う。だから夢に出て来てあたしの首を絞めるの。いつも苦しくて起きるんだけど、その度にさっちんの悲しそうな顔を思い出すの」
表情がわずかに歪む。口を強く噤んだ後、一瞬うつむいたがすぐに顔をあげる。
「いっそ殺してくれたらいいのにな」
友美は笑いながら言う。笑いながらではあったが、今までの言葉の中で一番重みを感じた。裕也がかける言葉を探していると友美は化粧ポーチからコンパクトを取り出しながら聞いてきた。
「誰なのあんた」
「え……だから幸夫さんの知り合い……」
友美はコンパクトを開けて、目の回りの化粧を直しながら裕也の言葉を遮った。
「さっちん動けなかったの。交通事故で全身麻痺。三年間」
「え?」裕也は言葉を失う。
「だから、さっちんと外でバッタリとか駅から一緒に帰るとか無理なんだ。会えたとしても声もほとんど出なかったから、あんたには理解できないだろうし」
あんたには、という。つまり幸夫は友美にしか解らない程にしか喋れられなかったのか。裕也はエントランスで暴れた幸夫を思い出す。友美はコンパクトを閉じて静かに裕也を見ている。自分は五体満足に動いている幽霊の幸夫しか知らなかった。
「ねえ」
友美が口を開く。裕也は言葉を待つ事しか出来ない。
「あんたさっちんの何? 最初は口から出任せ言ってるのかと思ったけど、そうでもないし」
もう言い逃れは出来そうにない。
いや、逃れる必要などないのだ。自分に起きたことをそのまま言えばいい。裕也は友美を真っ直ぐに見る。
「……友美さん。幸夫さんは怒ってませんよ。今でも友美さんの幸せだけを願っています」
友美は不思議そうに裕也を見ていた。太陽が雲に隠され、日差しが消える。
「実は……」言葉を続けようとした裕也の耳に先ほどの友美の言葉が横切る。全身麻痺。全身麻痺の男が屋上から飛び降りる事が出来るだろうか。脳裏にある光景が浮かび上がる。
裕也は言葉を待つ友美をまっすぐ見た。狼狽した表情だったに違いない。
「……あなたが落とした?」
裕也は呟いてしまう。友美は何も答えなかった。
二人の間に再び沈黙の時間が流れた。今度は酷く落ち着かない、気持ちの悪い時間だった。
友美は何も言わずに裕也を見つめ返していた。裕也は伝える。
「それでも、彼はあなたの幸せだけを望んでます」
近くにそれらしい建物は建っていなかった。やはり周囲は全て墓地であり、その向こうにはお寺や道路が見えるだけだ。すぐにバレる嘘をつくのは自分の悪い癖だ。この屋上を見渡す事の出来そうな部屋など無い。太陽はすっかり上がっており、マンションの屋上を暖かくしてくれている。
「ちゃんと全部言っておいて下さいよ」裕也は言う。「大変だったんですよ。色々と疑われて」
「すみません。まさか、友美と裕也さんが話しをするとは思っていなかったもので……すみません」
裕也もそんな事思っていなかった。幸夫は屋上の端にいた。幸夫の体が重力から自由になった場所なのだろうか。辛い生から自由になった場所なのだろうか。それとも愛する妻に殺された場所なのだろうか。後ろの扉が開く。
「さっちん?」
生前の呼び名だろう。友美は裕也の前の幸夫が居る空間を見つめる。
「ああ……友美」
幸夫は優しく遠い目で友美を見る。その瞳にはやはり憎しみも怒りも見られなかった。
「そこに……居るの?」
「居ますよ。ここにしっかり。元気な姿で」
裕也は代わりに答える。友美がゆっくりと、ゆっくりと近づいてくる。不安げな表情で、時折裕也を見る。裕也は幸夫の場所を視線で導いた。幸夫は穏やかな表情で友美だけを見ていた。
「さっちん?」
友美が恐る恐る口を開く。
「ここに居るよ。友美」
二人から少し離れる。
「見えないよ。出て来てよ」
「ごめんね。居るんだここに」
幸夫が笑う。
「居ると言って笑ってます」
裕也は友美に伝える。
「そんなふうにいつも子供扱いしてたよね」
友美の表情も少し和らぐ。
「だって子供じゃないか」
「だって子供じゃないかって」
「言うと思った。全然変わってない」
友美は優しく怒ってみせる。そして言葉を続けた。
「さっちん。見えないよ。聞こえないよ」
「ごめん」
なぜだか、通訳は要らない気がした。してはいけない気がした。自分がどれだけ明確に言葉を伝えても、二人を繋げる事はできない。そう思った。無力だ。
「ごめんね。さっちん。怒ってる? 怒ってるよね?」
「全然。怒ってないよ」
「……さっちん。出て来てよ」
友美の声が震える。
「居るよ。ここに」
幸夫の声が震える。裕也は黙ってそこにいた。何も出来ないまま自分の無力さを感じる。
「もう一回会いたいよ」
幸夫の空間を見つめる友美の目から涙が流れる。
裕也はこの二人にしてあげられる事を考える。瞬間、自分にできる事に気付いた。ポケットの中から喫茶店のレシートを取りだした。裏には自分にしか出来ない事が書いてあった。
『思った事が現実になる』
裕也はその文字を両手で包み込む。そして目を閉じて強く願った。
二人をちゃんと合わせてあげてくれ。
本当の意味で二人を繋げて欲しい。
友美さんの目で、幸夫さんの姿で、声で、二人を繋げてくれ。
繋がれ。
繋がれ。
繋がれ。
繋がれ。
「さっちん。やっぱりあたしも死んだ方がいい?」
その言葉で裕也は目を開ける。涙を拭うこともせずに立つ友美を前に、幸夫の表情が曇る。
「そんなこと言わないで。今より、僕と一緒に居たときよりもっともっと幸せに……」
「生きる価値ないよね。あたしに」
幸夫の言葉を遮るように友美が言う。
裕也はタクローの文字を見た。しかし文字は少しも滲んでいない。
くそ。
「さっちんの事殺しといてさ、あたしだけ生きてるなんておかしいよね」
「殺したなんて……友美は最後まで僕を助けようとしてくれたんじゃないか。僕は僕の意思でここから落ちたんだ」
幸夫が悲痛な声を上げた。そして裕也を見た。
「裕也さん。僕は自分の意思でここから落ちたんです。動かない体を引き摺ってここまで来て、寝返りを打つようにして落ちました。落ちる瞬間に友美が僕を見つけて体を支えてくれました。この細い腕で……僕の名前を叫びながら僕を支える友美に……僕はお願いしたんです。もう死なせてくれって」
幸夫の声は涙に熱く濡れ震えていた。
「その瞬間、友美の僕を支える力が消えました」
感情というものは、ぶつけられると巻きこまれてしまう事がある。役者をやっているとき、感情をぶつけてくるタイプの役者とエチュードをすると何度も経験できた。
しかしこれは演技ではない。裕也は引っ張られる。幸夫の感情が裕也に流れてくるようだった。裕也の視界が涙で溢れる。
「友美は僕を殺したんじゃない。僕を生かしてくれてたんです。友美が僕の生だった。お願いします! これだけは友美に伝えて下さい」
裕也は友美を見る。幸夫の言葉を、想いを伝えられる言葉を探した。
「……さっちんの声が聞きたいよ。前みたいに怒ってよ……」
友美が幸夫の空間に手を伸ばす。しかしその手は幸夫をすり抜けるだけだった。幸夫は自分の体の中に吸い込まれた友美の腕を見る。
「裕也さん。友美を救って下さい……」
裕也は友美に声をかけようとしてやめた。幸夫ではない自分がどんな言葉をかけたところで何の力も持たない事に気付いたからだ。
「自分で言って下さい」
幸夫に言った。
「でも…」
「少し時間を下さい」
裕也は目を瞑り再び願う。手のひらで文字を挟み込み強く願う。
繋げて下さい。今二人は目の前に居るんだ。タクローの文字がダメなら誰でもいい。幽霊が居るんだ。神様だって悪魔だっていてもいいだろう。
繋げろ。
繋げろ。
少しの時間でいい。この二人はもう一度繋がるべきなんだ!
繋げろ!
いや、繋ぐ!
「繋がれ……繋がれ!」
裕也は希望を込めて二人が手を繋ぐ姿を思い描いた。細部までしっかりと思い描いた。空気の冷たさ、陽射しのぬくもり、遠慮がちに吹き抜ける風。そして二人。挟み込んだメモ紙が手の平でほんのり熱を帯びた気がした。気付けば二人の声が聞こえなかった。裕也はゆっくりと目を開けた。
太陽の光で目が潤む。滲んだ空色の景色の中に浮かぶ二人がなんだか幻想的で綺麗だった。友美さんは見えているのだろうか。いや、見えているから見つめ合ったまま動かないのだろう。繋がった。心臓の周りが暖かくなるような気がした。
目を閉じている間にどのような奇跡が起こったのか解らないがどうでもいい。繋がったんだ。
幸夫の手が友美の頬に触れた。
「化粧ぐちゃぐちゃ」
「さっちん……温かい」
友美の顔が柔らかく崩れる。
幸夫がそれに同調するように涙を流す。
「男のくせに……すぐ泣くんだよね」
「友美……」
二人の姿がだんだんと滲んでくる。それは裕也の目が光にくらんだものではなく、もっと温かい所からくるものだった。幸夫の大きい体が友美の体を包み込む。
「さっちん」
友美が声を上げて泣く。
「一緒に居てくれてありがとう。君の最後の人にはなれなかったけれど、僕はすごく幸せだった。……死んでからようやく言えた」
「もっと一緒にいてよ。また一緒に居てよ」
友美が途切れ途切れの言葉を繋ぐ。
「ごめんね。たくさん悩ませてごめん。でも僕は君がいたから幸せだった」
友美が首を振る。
「あたしだって幸せだった……」
「うん……僕が逃げたんだ……ごめん……」
幸夫が友美を抱く腕に力を込める。
「天国から、友美の笑った顔をたくさん見たい……」
幸夫は友美を見た。泣きながら、優しく笑っていた。裕也はこんな優しい顔を見た事が無かった。
「たくさん生きて」
幸夫がしっかりと友美へ伝えた。幸夫が体を離す。
「……ありがとう。友美」
友美が顔を上げる。一生懸命しっかりとした声を出す。
「あなたと結婚できて、一緒に生きられて本当に幸せでした」
幸夫が微笑む。
「僕もだよ」
幸夫の手が友美の頬を伝う涙に触れる。それから二人はしばらく見つめあった。裕也は二人の姿を目に焼き付ける。
「ずっと愛してる」
やがて二人の声が同時に聞こえた。友美の消え入りそうな声と、幸夫の優しい声が同時に同じ言葉を伝え合った。とても短い時間で起こった小さな小さな奇跡だった。
少しずつ幸夫の姿が薄くなっていく。
幸夫の透明な手が友美の顔を包んだ。
「あったかい」
友美が微笑む。幸夫も微笑んだが裕也の場所からはもう、はっきりとは見えなかった。
しばらく、友美は幸夫の居た空間を見つめていた。
裕也は溢れてくる鼻水をどう止めるか悩む。それと同時に、自分の心をこんなにも動かされた事に爽やかな困惑を感じていた。
「ありがと。さっちんの分も」
友美が裕也を見て言った。さっき直したメイクは、また崩れていたが、裕也は今のほうが綺麗だと思う。
「俺何もやってないですよ。結局幸夫さんのお使いもしませんでしたし」
言いながら、本当にそうだと思う。タクローの文字の力とはいえ、財布を拾った事を責め立てられた結果ここに居るだけなのだ。
「あ、でも」最後の文字をこの二人に使えて良かった「一応気持ちは受け取ります」
これまで生きてきて、自分の為ではなく他人の為の何かを願ったのは始めてかもしれないなと思った。
裕也は改めてタクローの文字を見る。文字は滲んでいなかった。
「あれ?」
「かーえろっと」
裕也が呟いた声は、友美の声にかき消された。
屋上の扉を開けた時、友美は屋上を振り返っていた。小さい声だったが、その時友美が呟いた声は裕也に聞こえていた。
「あたし生きるね」
マンションの一階へ降り、エントランスを出る。
「じゃああたしタクシーで帰るわ」
「そうですか」
目元は涙により黒くくすんでいて、歩いて帰るには派手すぎる化粧になっている。
裕也はノーメイクの方が綺麗ですね、と茶化してみる。
大きい通りでないが、友美が手を挙げるとすぐにタクシーが止まった。乗り込んだ友美が言う。
「駅までなら乗ってけば?」
「いえ。いく所があるので大丈夫です」
「そ」
ドアが閉まる。そのまま走り去るかと思いきや、少し動いて急ブレーキで止まる。裕也が何事かと思い近づいてみると窓が開く。
「あのさ、本当にありがとね」
友美がピンク色の名刺を裕也に渡す。
「あたしがバイトしてる六本木のキャバ。今度顔出してよ」
裕也はキャバクラと聞いて尻込みしたが、興味はあった。
「はい」
「可愛い女の子紹介してあげる」
といって笑い悪戯な笑顔を裕也に向けた。この笑顔は幸夫が望んでいた笑顔だろうか。素直に可愛いと感じた。
友美の乗るタクシーを見送った後マンションを見上げる。重い肩の荷が下りた気がして一息ついた。幸夫の生前、友美と暮らしていた901号室では今、田中さんが暮らしている。そこにたまたまバイトに来るようになって、幸夫と出会った。幸夫には自分が死んでも、変わらない友美さんへの思いがあった。友美はこれからどう生きるのだろう。少し考えたが、自分が心配できるテーマでは無いことに気付く。自分こそこれからどう生きていくのだろうか。タクローの本で全てうまくいくのだろうか。人生はゲームではない。リセットは出来ない。そんな当たり前の事を言われ、聞いてきた。いつからリセットしたくなっていただろう。今自分には、タクローの本というゲームで言うところの『裏技』を人生で使おうとしている。それが全てうまくいったとして、その後どういきるのだろう。
いつもの漠然とした不安に包まれた所で『コーヒーが飲みたい』と思った。丁度目の前にあった自動販売機の前にいく。小銭入れを開いてみたが、二十七円しか入っていなかった。仕方なく千円札を使おうと思ったが、一枚も入っていない。
「ジュースも買えないのかよ」
自分自身に毒づく。何の気なしに一万円札を数えてみた所、一枚足りないという大問題が発生していた。そういえばカフェのテラスでお金を落として拾った後、ちゃんと数えていなかった。
「うわー……」
数える前から嫌な予感はしていたが。立ち尽くす裕也に冷たい風が吹く。カフェに戻ってテラスを探そうか迷ったが、どうせ運のいい奴に拾われているだろうと思って諦めた。もちろん自動販売機で一万円札は使えない。
急に気温が下がった。太陽が雲に隠れたせいでもあったが、薄暗くなった景色に比例して気持ちも重くなる。
「どうした? 金ないんか? あんちゃん」
大きい声に振り返ると、この寒さの中、白い半袖のTシャツに半ズボンのおじさんが近づいて来ていた。シャツには『蝉』と書いてある。
「いやワンパク小学生か!」
「え? 何?」
聞こえないように呟いたのだが聞こえてしまったようだ。慌てて話しをそらす。
「え? いやー。ちょっとお金なくて……」
「やっぱりなー。だと思ったよ」
おじさんはにやりと笑うと半ズボンのポケットから財布を出した。
「え!?」
「いいからいいから」
おじさんの太い指が器用に硬貨を投入すると、自動販売機のランプが軽快に点灯した。
「でも……」
裕也が遠慮しているとおじさんが顔を近づけてきて言う。
「大きい声じゃいえねーけどよ。駅の方にコーヒー屋あんだろ? 商店街の中に。あそこで諭吉拾ったんだよ。諭吉」
諭吉というのは一万円の事だろうか。それにしても声がでかい。
「俺もいつもならあんちゃん見ても素通りしたよ。素通り。でもよ、なんかかわいそうでよ。ほら、好きなの押しちゃえ」
嬉しそうに話すおじさんにお礼を言ってコーヒーのボタンを押した。たぶんあなたが拾った諭吉は僕の諭吉です。とは言えない。
「なんだあんちゃん。冷たいのが欲しかったのか? この寒いのに」
取り出し口からコーヒーを取り出す。冷たい。温かいのを選んだつもりだった。
「はい……冷たいのが好きで……」
この寒いのに半袖半ズボンのおじさんに強がる。
「まあいいよ。風邪ひくなよ」
そう言うと、おじさんは颯爽と背中を向け歩き出した。
「いただきます」
裕也が声を投げると片手をあげて遠ざかって行く。
その背中を見つめ、今月の家賃をどう工面するか考えた。
「そうだ」裕也は呟く。
タクローの文字に念じてみようと思い、ポケットからレシートを出すと、文字を見た。
『思った事が現実になる』という汚い文字が滲んでいた。
「ええ……」
冷たいコーヒーと滲んだ文字を交互に見て、短くため息をつく。
レシートをポケットへと戻した。おじさんに買って貰った缶コーヒーを開けて一口飲む。喉を冷たく潤す感覚が心地よい。がっかりはしていた。でも、晴れやかな気分でもあった。タクローの本屋へと歩き出す。
町はゆっくりと、滲んだオレンジ色に変わっていく。