桜漂流記 6
「具合悪いの? 保健室行く?」
優しい声だった。学校で聞くあたしへ対する初めての優しい声だった。困惑しながらも首を横に振った。クラスのみんながあたしとあの子を見ながらざわついていた。
皆あの子の身を心配していたようだった。やめて。教えないで。言わないで。きたないあたしをこの子に教えないで。二度と近づかないから。頭の中でそんな事を繰り返し願っていた。
「やめなよ。近寄らない方がいいよ。」
そう言って親切心からかあの子にあたしから距離を置くよう促したのは、授業中に教科書を見せてあげていたあの子の隣の席の子だった。いわないで。お願い。
「え? なんで?」
不思議そうにあの子が聞く。やめてください。やめて。
「なんでって……気持ち悪いし汚いよ」
汚いものは汚いのが当然というようにその子は答える。
「……ふーん」
あの子の声。一瞬の沈黙の後、次々とクラス中からあたしの汚い理由と罵声らしき言葉が投げかけられた。あたしはどうすることもできなかった。 何も考えられなかった。このまま消えてしまいたかった。嵐のように襲う言葉に下を向き、目を閉じることしかできなかった。
今あの子の顔は歪んでいるだろうか。これからさっき触ってしまった手を洗いに行くのだろうか。知らなかったとはいえ自分から触れてしまったショックで泣き出したりはしないだろうか。
教室中の言葉という言葉を吹き飛ばすようなあの子の大声が教室に響いた。
「うるさい! あんたたちばっかじゃないの?!」
あたしの巨体も吹き飛びそうだったので、みんなは実際に吹き飛んでしまったのだろうか。 クラスは静寂に包まれた。一瞬あたしに向けられた言葉かと考えたが、雰囲気で違うことが感じられた。あたしはそれでも目をつぶり、下を向くことしかできなかった。
「私はあんた達の方が汚いと思うけど」
あの子の声。
沈黙。沈黙。沈黙。
実際の時間はどの程度だったのだろう。深く汚い沼の底に沈殿した泥へ身を沈めてゆくような酷く居心地の悪い、長い時間が流れた。
「感じ悪」
男子の呟くような声が教室の後ろのあたりから聞こえた。すると堰をきったように、再び言葉の嵐が吹き荒れる。今度はあたしではなくあの子を。
「調子乗りすぎ」「仁美菌」「あーあ折角」
という言葉の破片が耳の奥に残った。はっきり聞き取れなかったのは、あの子があたしの耳元で静かに囁いていたからだ。
「私の友達になってくれる?」
初めて耳にする言葉を何とか飲み込むように頭の中で繰り返した。何度も何度も頭の中でその言葉を咀嚼した。何度も繰り返して考えているつもりだったがいつの間にか何度も頷いていた。目を開けるのが怖かった。目を開いたら広がるいつもの教室がいまどうなっているのか想像も出来なかったからだ。すると背中に再び、あたたかくて静かな重みを感じた。その手のぬくもりよりもあたたかいあの子の声があたしに染み込んだ。
「辛かったね。これからは私が守るから」
優しく背中をさすってくれる手の温もりが、そのままあたしの中で固まっていた氷を溶かすかのような気持ちにさせてくれた。あたしはそのとき、目を閉じたままでも涙は流れるという事を知った。