桜漂流記 12
『穴』
辺りは淡い暗闇に沈んでいる。雲のない空から降る満月からの光は、頼り無くではあるが周囲をしっかりと浮かび上がらせていた。
風のない夜。康広の声が響く。
「陽太! おい起きろ! おい!」
康広が叫びながら気を失っている陽太の胸倉を掴んでゆする。そしてすぐに頬をパンパンと叩き出す。
「う……ブ……イタ……ちょっ……」
「大丈夫か! 陽太! 無事か!?」
「ぶ……だい……ちょ……ま……」
陽太の頬から甲高い破裂音が鳴る。
「起きろ! 死ぬな!」
「痛……ブ……痛いわ! そのビンタで死ぬわボケェ!」
陽太は怒りながら目を覚ます。康広に文句を言おうとしたようだが、頬の痛みより周囲の異変の方に気をとられ口を開けたまま固まっている。
「……なんで?」
陽太の絞りだすような声。
「知らん」
「ここドコ?」
「知らん」
康広はぶっきら棒な返事をしつつも、陽太の首元にできた服の皺を伸ばしてあげている。
「何? 何これ?」
陽太が立ち上がり辺りを見回す。
「穴?」
「穴だな」
「なんで?」
「俺に教えてくれよ。」
康広は上を見上げながら言葉を続ける。
「結構深いな……月? ……夜の……森か?」
「森?」
「ああ。木の枝と葉が見える」
陽太がその場に座り込んで、再び聞いた。
「なんで?」
康広が答えなかった為、陽太が一方的に喋る。
「えーっと、リュウの散歩でウンコが軟らかくて……あれ昨日だっけ? 違うよね? あれ? リュウは? いやその前にそこの倒れてる人は?」
上を向いていた康広が面倒くさそうに男に目を向ける。
「全部知らん。本人に聞け」
陽太は近くに横たわっている男をゆすりだす。
「ちょっと! おいあんた! 起きろ!」
陽太が男を起こしている間、康広は冷静に状況を理解しようしてか、再び周りを調べ始めた。三人を取り囲む壁を触る。
「こんな大穴……」
その言葉が聞こえたのか、陽太がもう一度聞く。
「なあヤス……ここマジにドコだ?」
康広は視線だけでその問いに答える。
「意味わかんねぇ……」
声をかけても反応のない男を起こすのを諦めた陽太は、立ち上がって穴の上へ助けを求め叫び始めた。
「誰かー! 助けてー! 僕が困ってますよー!」
しかし、その声は辺りの暗闇に吸い込まれるように消えていく。男が目を覚ましたのは、陽太が叫び疲れたように壁を背にして座りこんだ直後だった。
その男も、辺りを見回した後、やはり陽太達と同じ疑問に行き着いたようだ。
「ここはどこでしょうか?」
誰も答えを知らない問いを、今度は投げかけられる側で受け止めてしまった陽太はすぐさま康広にパスする。
康広は無視した。やがて三人は最後に記憶している事について話し始めた。
「リュウの散歩中に目の前が暗くなって気がついたらヤスに叩かれてた。すごくすごく痛かった」
陽太が康広に向かって言う。
「俺は……たしか酔っ払って、道端に寝て起きたらここだった」
康広は男に顔を向け言う。
「僕は……部屋で寝ていて、気付いたらここにいました」
男は言葉を続ける。
「僕達は死んだのでしょうか?」
「冗談やめてくれよ。最後に見たのが犬のウンコなんて死んでも死にきれねぇよ」
「いや、お前らしいよ」
陽太が言った言葉に康広が口の端を少し上げて言う。
「……あのさ、夢ってこんなに感覚リアルだったっけ?」
「いいや。少なくともこんなの俺は初めてだな」
二人のやり取りを見ていた男が思い出したように陽太に言う。
「あの……洋子の葬式の時はどうもありがとうございました」
陽太は口だけで「は?」と答えた。代わりに康広が声を出す。
「あー……たしか洋子の婚約者だよな? あんた」
「はい」
陽太は「は?」のまま固まっている。
「ほら、お前が洋子の携帯で連絡したんだろうが」
陽太は「は?」のまま康広をみる。
「葬式の時もわざわざ駅まで迎えに来ていただきましたし、たすかりました」
「お前覚えてないの?」
康広の問いにようやく陽太が怪訝な表情をみせて言う。
「いや知らない。さっきからお前ら何言ってんの? 葬式? オレあんたの事見たことねーし、洋子元気だし、今日の朝まで酒呑んでたし」
その言葉のあと、今度は3人が固まったように沈黙した。
「お前……何言ってんだ?」
康広が搾り出されたような声で沈黙を破る。
「お前が何言ってんだよ。今朝まで一緒に居ただろうが」
陽太が不機嫌そうな声になる。
「縁起でもねー事いうなよ。冗談でも笑えねーぞ」
「冗談なんかじゃねえだろ。お前寝ぼけてんのか?」
二人の雰囲気に怒りが混じってきたのを察したのか、男が静かな声で陽太に聞いた。
「あの、本当に僕の事知らないんですよね?」
「だから知らねえって」
「僕は洋子と婚約していました。村山といいます」
村山は陽太へ手を差し出す。
「ああ。そりゃどーもこの度はおめでとうございます。僕はあなたの事が嫌いです」
陽太はふて腐れながら、村山の手を握った。
「小さい陽太さんと大きい康広さん」
康広は村山の口から自分の名前が呼ばれたのに少し驚いて、握手に応じていた。
「洋子の話の通りだ」
「……いや小さくねえし。百六十八センチはチビじゃねーし」
「いやチビだろ」
「丁度いいサイズぅ! ねえ? 村山君」
陽太が同意を求めるように村山に聞くが、その問いには答えが返ってこなかった。