麻布抹茶

天使の抹茶ラテと悪魔の落書き⑬

【無名のモデルと幽霊女】 

「まただ……」
ため息のついでに呟く。目の前の小さい通りには、申し訳程度の小さな横断歩道がある。反対側には男の人というには頼りない印象の男性が自分と同じく信号待ちをしている。

 ……この横断歩道の真ん中辺りだろう。
 今回のはかなり強めだ。男性に対する悲しみと、憎しみが入り交じっているが、一番強いのは……ダメだ。
 立っていられなくなり座り込む。冬まっただ中だというのに、額と背中にはじっとりと冷たい汗を感じる。脳に突き刺さるように感情と意識が入ってくる。早くこの場所から離れないと……
 この道はもう使わないようにしよう。久しぶりにちゃんとしたモデルの仕事が入ったと思っていたのに、仕事内容は散々だった。

 事務所の社長からは、高級腕時計のスチール撮りと聞いていたのだが、撮影場所まで行ってみるとハゲ散らかしたデブのおっさんが大量の一万円札(偽物だったが)の入った湯船に入っていた。
 私は最近出来たモデルの彼女として、その湯船に一緒に入らないといけないとの事だった。出来れば全裸で。おそろいの安っぽい石がくっついたブレスレットをして。
 そんな話聞いてないし、やりたくもないので社長に電話して確認を取ろうと試みるも連絡が取れなかった。一応趣味の悪い水着も用意されていたし、顔にはモザイクがかかるらしいので渋々ではあるが、ハゲ散らかしたデブのおっさんと札束風呂に入って撮影してきた所である。くそ寒いバスルームで鳥肌がたったのは温度のせいだけではなかった。ハゲ散らかしたデブのおっさんがやたらとくっついてきて気持ち悪かったせいだ。ハゲ散らかしたおっさんは撮影が終わった後に携帯のアドレスなどを聞いてきて、さらに私を不愉快にさせてくれた。携帯持ってないんですーと携帯を片手に言ったのが、つい三分前の事だ。

 社長になんて文句言ってやろうかと考えながら信号待ちをしていたら、急に意識が入ってきた。久しぶりに強い意識だった。
 幽霊など見たことはない。ただ、子供の頃から気味の悪い場所や、事故現場、人が死んだ事のある場所などに行くと、自分のモノではない意識や気持ちが脳に突き刺さってくる事が多々あった。大抵……というかほぼ、私がどれだけ愉快な気持ちであっても、一瞬で沈んだ気持ちになるような暗い感情だ。あまりに強いものだと、今みたいに立っていられなくなる事もあった。

 せっかくモデルの仕事が入っても、現場で立ち上がれなくなり仕事にならない事もあった。その結果が今の現状である。というのは言い訳だろうか。

 今の現状があるから社長との関係があるのだ。というのも言い訳だろうか。
「大丈夫ですか?」
私が顔を上げると頼りない印象の男性がのぞき込んでいた。優しそうな顔をしていて好感は持てた。信号はまだ赤なので、しゃがみ込んだ私を心配して横断歩道を渡ってきてくれたのだろう。
「はい。すみません。貧血で」
とりあえずいつもの言葉を言う。意識が入ってくるだの、感情が入ってくるだのと言って頭のおかしい人だと避けられるのを避けるためだ。
「この横断歩道はよく使いますか?」
男性が何を聞いてきたのか解らなかった。答えていい質問なのかどうか困惑する。答えられずにいると男性は言葉を続ける。
「もしここでよく倒れるのであれば、もう使わない方がいいですよ」
「え?」

貧血では無いのが解っているのだろうか。男性は後ろの横断歩道を一瞬気にして、焦るように言う。
「早く行きましょう」
手を掴まれて強引に立たされる。そのまま引っ張られる様に駅の方へ歩き出した。
「あ、すみません」
男性が手を離す。遠くになった横断歩道をもう一度見る様子はどこか怯えているようにも見える。
「何かあるんですか?」いっその事と思い、聞いてみた。「……あの、横断歩道」聞かなくても、おそらくは解っているのだが。
 男性は少し戸惑った顔をした。だがすぐに口元に悪戯な笑みを浮かべた。「何があると思います?」あどけない表情が可愛く見えてしまった。いかんいかん。この歳になるとすぐ優しげな男に気持ちが傾いてしまう。
「幽霊とか?」
「たぶん当たりです」

男性は笑いかけてきた。つられて笑ってしまった。
「あなたも聞こえるんですか?」
昨日テレビ見た? という様な気軽さで聞いてしまった。言った後で「しまった」と思ったが、杞憂に終わる。
「聞こえるというか……なんか見えるみたいです」
録画し忘れた。という様な気軽さで男性は答えた。
 さっきの横断歩道の真ん中にはいつも女性が居るらしい。私には見えなかったと伝えると「というわけで、僕が見えるらしいという事を確信しました」との事だった。どういう訳か、最近見えるようになったらしい。さっきはしゃがみ込んだ私に、横断歩道で横になっている女性がゆっくり這い迫ってきていたとの事だった。
「そうだったんですか。私見えないので助かりました」
「僕は側に居ましたが何も聞こえませんでした」

『聞こえる』というのは耳からではない。意識や感情が解ってしまうのだという様な事を詳しく説明するのはやめておいた。それでも初対面の相手に自分のコンプレックスの話が出来たことなど無かった。貴重な出会いではあったが、元々ただの通りすがりの二人だ。話が弾んで意気投合出来るような明るい話題でもない。その後、話もそこそこにすぐに別れた。

 見える人はどういう世界が見えているのだろうか。街には、腐ったゾンビの様な幽霊や、足の無い恨めしい様子の幽霊などが徘徊していたりするのだろうか。
 見えるから解るモノ。見えないから解る事。あの男性はおそらく、あの横断歩道でかつて死んでしまったであろう女性がどういう気持ちであの場所に留まっているのか知らないだろう。もし今度あの男性と再会することがあるのなら、その事について話し込んでみてもいいかもしれないな。

 小さな広場が見えた。少女の形をしたオブジェが寂し気に佇んでいる。いくつかの街路樹と階段で出来たスペースといった感じだ。あかね色の夕方には似合わない、青いLEDライトが広場を囲む針葉樹に飾られていた。
 はたと足が止まる。
 先ほどの横断歩道で感じた感情が、また、雪崩れ込んできた為だ。あまりの勢いにしゃがみ込む事も出来なかった。悲しみと憎しみと寂しさと愛情が私の脳みそをかき回す。

 やめて! これは私の頭の中なの! あなたとは関係ないの!

激しい吐き気の中、辛うじて強く想う。目の前にはぼんやりと広場が見えていた。幽霊などみた事はない。だが、今頭の中ではっきりとイメージ出来ているこの女性は誰だ。素朴だが整った顔をしている。年は私と同じ位だろう。緑色のジャケットは薄汚れている。肩口まで伸ばした栗色の髪の先が少し荒れていた。
女性は私をまっすぐに見ると、その顔を歪めて笑う。獲物を捕らえた獣を連想したのは意外だった。いいようの無い恐れが体を支配した。頭の中の女性はゆっくりと口を動かす。次の瞬間はっきりと声が聞こえた。
「ミィ……ツケタァ」
甘く妖しいその声は、私の背筋をこわばらせる。逃げたくても体が動かなかった。そのまま気が遠くなり、体が倒れる感覚があった。


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