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【短編】夜道の女の子

 自分が普通ではないのを自覚したときには、既に鬱積した欲望が体の中から溢れようとしていた。普通なら、普通の人ならば、こうした歪んだ欲望があっても何らかの回路によって抑制できるのだろう。私には不可能だった。きっと頭が故障しているのだろう。こんなにも純粋で美しく魅惑的な欲望を抑制して生きていくなんて、死んでいるのと同じだ。私は殺したい。人を殺したい。命が消えてゆく瞬間を、匂いを感じたい。

 欲望を満たす為に、私が最初に行った事は道を探すという事だった。

できれば、獲物は弱い個体がよかった。私は小学校の通学路を調べあげた。車が一台程通れる程の幅があり人通りがない道。付近に民家のない道。小学校低学年の子が一人で帰るのに使うような道を探した。

 やがていくつか目星を付けた道で獲物を待った。

 そしてその日は訪れた。それは日暮れが早くなった冬の日の事だ。あたりはすでに暗くなっており、森に囲まれた坂道に差し掛かる場所だった。そこは昼間でも薄暗く、森に囲まれている為か近くに民家もなかった。木々に遮られているせいで、誰からも見られる心配はないように思えた。獲物を前にした私の心臓は、ようやく訪れた浸潤の瞬間を思い高鳴る。
「どうしたんだい? パンクかな?」
獲物への会話はいくつも練習していた。か弱い小学生低学年の女の子は急に掛けられた声に対して、驚いたように肩を震わせる。
「……あの……」
「それともチェーン? ちょっとおじさんに見せてごらん」

自転車がライトに照らされる。外れたチェーンが汚れた油を反射させた。
「チェーンだね。これは難しいんだよ。自転車屋さんに持っていかないと」
「……そうですか……」
「お嬢ちゃんそこの小学校の生徒かい?」
「……はい」

女の子は少し警戒した様子を見せる。
「じゃあ、この自転車は小学校の駐車場にでも届けておいてあげるよ」
「え……でも……」
「いいからいいから。おじさん車だし。もう暗いから任せて帰りなさい」

女の子は優しい声に安心した様子でお礼を言う。
「ありがとうございます」
「いいよいいよ。家は近くかい?」
「向坂二丁目です」

「けっこう遠いじゃないか。この暗さじゃあ心配だから乗って行きなさい」
そう言って車の運転席に乗り込むと、助手席のドアを開けた。
「あ……でも……」
女の子は少し逡巡した様子を見せる。
「いいから乗りなさい。君を送ってからこの自転車も拾うから」
「……あの……後ろの席でもいいですか?」
「……ああ。いいよいいよ。ちょっと待っててな」

後部座席が開くと、女の子は改めてお礼を言いながら車に乗り込む。私は瞬時に辺りを見渡した。車のエンジンの無機質な音が響くだけで辺りに人の気配はなかった。
「向坂二丁目だよね」
「はい」

手にビニール袋を被せた。
「お嬢ちゃん可愛いんだからダメだよ。知らない人の車に乗っちゃ」
「え……あ……え?」

バックミラー越しに獲物の顔を見た。
「お父さんやお母さんや先生に言われてなかったかい? 最近犬や猫が首を切られるような物騒な事件が多いって……」
ポケットに用意したナイフを手に取った。
「……あの、すみません。私、やっぱり降ります」
女の子は恐怖と警戒心の入り混じる声で言う。
「もうダメだよ。君はこれから僕とドライブに行くんだ」
ナイフをしっかりと握り、運転席の男の首にあてがった。
「ん? なんだい?」
「行きましょう。ドライブ」

女の子はそう言ってナイフを突き刺した。猫の喉を潰した時のような音が男から聞こえた。そして犬の喉を切断した時よりも強い力で、ナイフを横へと滑らせる。開いた喉から噴き出した血液が、フロントガラスに赤い花を咲かせた。私はそのまま後部座席に深く背を預け、自分の血液に溺れながら死んでゆく獲物をバックミラー越しに眺めた。

おそらくこれから何度も思い出すことになる光景を。

 後片付けを済ませて車の外へ出た。大きく息を吸うと冷たい空気が肺を満たした。染み付いた血の匂いが体の深い部分に染み入ってくるようで気持ちがよかった。
 止めたままにしていた自転車のチェーンを速やかに直して、女の子は、普通の女の子は何事もなかったように自転車に乗って家に帰る。私は普通の女の子に見えるように自転車を漕ぐ。

 木々の隙間から、月だけが私を見ていた。


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