桜漂流記 7
三限目の始まりを告げるチャイムが鳴り響くと、皆は散り散りに自分の席へ戻っていった。そして先生が教室へ入ってきて授業を始めようとしたのだが、あたしは落ち着かなかった。あの子が自分の机を持ってガタゴトとこっちへ向かってきたからだ。
「席変わって」
静かだが強い口調で、仁美菌に感染しないように距離をとっていたあたしの隣の席の子に詰め寄った。
「その席嫌なんでしょう? 変わって。私この子の隣がいいの」
あの子のきれいな顔が作り出す鬼気迫るような雰囲気に気圧され、隣の子は黙って席を交換した。教室にはしばらく2つの机が移動する音が響いていた。
その様子を見ている先生の怒号がいつ響くのか冷や冷やしていたが、なぜか何も言われなかった。そして何事もなかったかのように授業が始まった。
あの子はあたしに一言 「よろしくね」 と言った。
あたしはその言葉に返事をしたかったのだが、どうしても声が出てくれなかったため一生懸命笑った。
「笑顔かわいい!」
あの子が大きい目を一段と大きくして言った。またも初めて耳にする言葉をなんとか頭で呑み込むと、喉の奥がまた絞まってきたような気がした。
「そりゃあんただよ」と思った。
教科書を見せて受ける授業はなんだか少し照れくさい感じで、時折笑いかけてくれるあの子を近くで見てしまいあたしははにかんだ。本当に素敵な笑顔だ。まさかこれは夢なのではないかと思って何度も太ももを抓ったが、別に何も起こらなかった。
それから あたしがあの子を見るまで願っていたように、あの子までみんなから疎まれるようになった。もちろんあたしのようにではなかったが、それでもあたしが十分に責任を感じられるほどだった。あんなにキレイな顔の子が皆から無視されている様子はとても不自然だった。声をかけてしまうと、迷惑がかかるのではないかと思いあたしはいつも黙っていた。
そもそもなんと声をかければいいのかもわからなかったのだが。
だからいつもあの子の方から話しかけてきてくれた。初めはただ聞いて何とか笑顔を作るだけだったあたしも、時が経つにつれて話しに相槌をうてるようになり、やがて自分から話しかけることも出来 るようになった。あの子は何かとあれば、理不尽な非難を受けていたが、あたしみたいにそれに屈するようなことは決してなかった。逆に言い負かされた女子が泣いてしまう事も多かった為、あの子はますます嫌われていった。
対立するクラスのみんなに、毅然と臨むあの子の姿はどこか美しく、格好よく見えた。中には暴力を振るったりする子や物を投げてくるような子もいた。あたしはせめてそういったものからだけでもあの子を守りたいと思っていた。幸いあたしが近づくと、皆遠ざかるからこれといって苦労はしなかった。
一度「あたしのせいでごめんね」と言ったら、二度とそんなこと言うなと怒られた。
「仁美は何にも悪くないでしょ。それに私はなにも間違ってない」
と強く言った後、少し何かを考えて諭すように付け加えた。
「みんなまだガキんちょなの。自分が人に何を言ってるのか半分も理解してないだけなんだよ。ムカつくけど恨まないであげてね」
あの子はあたしにいろんな言葉をくれた。その言葉はあたしの中にあるジグソーパズルの無くなってしまっていたピースが漸くあるべき場所へ埋まっていくように、心地よく耳から心へと沁みていった。
「仁美は痛みを知ってる。だからこれからはきっと誰よりも優しくなれるんだよ」
これはまだ見ぬ転校生が、つまりあの子があたし の代わりに虐められればいいと思っていたと告白して懺悔した時にもらった言葉。
「仁美と友達になれて私は嬉しい」
これはあの子に申し訳ない気持ちで辛くなっていた時にいつももらった言葉。
「私仁美の笑ってる顔がすごく好き」
これはあの子の笑顔に見惚れていた時にもらった言葉。
「仁美の髪チョーきれい!」
これは「きたないあたし」を消し始めてくれた言葉。
陽太や康広と仲良くなった頃、ようやくあたしは自分の事をちゃんと見ることができるようになれた気がしていた。
あの子があの時あたしを守ってくれていなかったら今どうなっていたのだろう。あの子に出逢えていない世界はどうなっていたのだろう。あの子がいたからあたしは「あたし」でいる事ができるようになった。
あの子はあたしを日のあたらない暗く湿った井戸の底から救い出してくれた。
高校を卒業してあの子が遠くの大学に行くようになっても、あの子は毎日のように電話をくれた。引き籠もりがちになったあたしをいつも外に連れていき、少しずつ自信をくれた。婚約した時も、最初にあたしに教えてくれた。
どうしてあの子がいないのだろう。
どうしてあたしじゃなかったのだろう。
あの子が戻ってくるのならあたしは何だってするのに。
あの子はあたしの目の前で車に潰されて死んだ。
皆とこの場所で婚約のお祝いをした次の日の事だった。
あたしが車に気づいた時にはもう間に合わなかった。
あたしはあの子を守れなかった。
あの子が車とアスファルトの間で潰される音が耳から離れない。
どうしてあの子がしななければいけなかったのだろう。
あたしなんかといっしょにいたからしんだのかもしれない。
あたしなんかとであったからしんだのかもしれない。
きっとそうだ。
あたしがわるいんだ。
康広と陽太もきっとおこっている。
なんでおまえじゃなかったんだっておもっている。
うん……やっぱりあたしだ。
あたしは目を開けて、用意していたロープを握り締める。ベンチに立ち、陽太がよく登っていた枝に括りつける。この桜の木は大きいし丈夫だからあたしの体重も支えてくれるだろう。桜の木からはいつもの優しい匂いがしていて、あたしを包んでいた。枝の隙間から見える満月のおかげで、深夜でありながら手元が良く見える。ロープを括り付ける作業が終わったとき強い風が吹いた。少し寒く感じた。いつからか、死ぬなら今日だと思っていた。
4人で始めてこの場所に集まった日。
ロープにはちょうど首が入る輪っかを作っておいた。背伸びしてその輪に首を通した。
「ごめんねぇ洋子」
気づいたら声が出ていた。
そして、いつか感じた喉の奥が絞まるような感覚がした直後に涙が溢れた。
あたしは目を瞑る。
それでも涙は止まらない事を知っている。
あの子が教えてくれた事だ。
あたしは涙が目の端から零れ落ちる前に、ベンチから足を離した。