麻布抹茶

天使の抹茶ラテと悪魔の落書き⑩

【拾った財布とホクロ男】

 無理矢理地上までタクローに見送りをさせたのは言うまでもない。終電間近の時間ともなると、外の気温はかなり冷え込んでいた。お金を拾って金に余裕ができたら温かいダウンとか買おう。いや、買わなくてもいいか。ダウンを拾えばいいのだ。と、考えてしまい、慌ててポケットのメモを見るが、文字は滲んでいなかったのでホッとする。
 明日は休みだ。幸夫のお使いがあるが、それほど時間はかからないだろう。行きでサクッとお金を拾って、帰りにそのお金で遊んで帰ろう。少し軽くなった鞄を持ち直す。すでに暗くなっている喫茶店の前を通り過ぎるときアヤノさんの笑顔を思いだそうとする。思い出せなかった。明日早く起きて抹茶黒蜜ラテを飲みに来よう。
 アヤノさんが居ますように……。と、考えてしまい再びメモを見る。文字は滲んでいなかった。ついでに、アヤノさんともの凄く深い仲になりますように……と願ってみた。文字は全然滲まなかった。

 朝早い時間の麻布十番に降り立ったのは初めてだった。意外にも会社勤めの人々が多い事を知る。緊張なのか、動揺なのかわからない心臓の鼓動を、気温に抑えられながら喫茶店の前まで行った。だがオープン時間まで二十分程早かったらしく開いていなかった。銀行も開いていない時間である。財布の中には、今日が期限であるアパートの家賃を振り込む為、大金が入っている。気持ちが悪い。
 財布を拾う為に家を出たのに、財布を落としてしまう事も自分ならあり得る気がしていた。これまでの自分の人生を思い返すと、やはり運が良いとは思えないのだ。
 今日は今年一番の寒気が訪れると、お天気キャスターが言っていたのは脅しではなかったようだ。日差しはあるのに、それを隠すかのような気温は、裕也の安物のジャケットでは太刀打ちできそうにない。体の芯を目に見えない鈍器で、四方からつつかれているような感覚を覚える。昨日の失態もあるので、二十分ここで待っているのも気味が悪いだろうと思った。何より凍死しかねないなと感じたので少し散歩してみる事にした。

 かじかむ指を自分の息で温めながら商店街を歩く。財布を見逃さないように道路に視線を落としているのだが、なかなかそれらしきものは見受けられない。会社へ向かう人達もそれなりに歩いているため、すでに拾われてしまったかもしれない。開店している前の店を見ると、どこもクリスマスの飾り付けが始まっていた。今年のクリスマスまでにはアヤノさんといい仲になれているだろうか。このままでは自分は今年も、期限切れのクリスマスケーキをやけ食いしながら年を越すという毎年恒例の年明けを迎えてしまうのではないかと悲しくなってきた。気持ちが高揚しているせいか、少し涙が出そうだ。
 裕也は楽しい事を思いだそうと試みる。こういう時に思い出すのは、五年ほど前に有名な役者になろうと躍起になっていた時の事だ。裕也の周りには役者仲間が沢山いて、後輩もそれなりに自分を慕ってくれていたように思う。誕生日がクリスマスに近い為、みんながクリスマスパーティーと称して集まり、そこで裕也の誕生日を祝ってくれるなどの嬉しいサプライズもあった。

 今頃みんなは何をしているのだろう。役者として胸を張れるような仕事をしている者は何人いるのだろうか。それとも違う夢を見つけ、それにしっかりと向かっているのだろうか。自分のように怪しい仕事をこそこそとしている者も中にはいるのだろうか。役者をダラダラと休んでいる間に、自分は仲間の他にも、大事なモノを失ったのではないかと考えてしまう。
 ふと目の前に現れた人垣に気付き、見上げると歩行者用の信号が青になった瞬間だった。人垣が動き出すと、横断歩道が現れる。
昨日の女性を思い出した。あの女性はどうなったのだろうか、と思った時、裕也の待ち望む物が目に入った。財布だった。まさに今、人が行き交っている横断歩道の真ん中に財布が落ちていた。
「ここかー」
呟いてみるが、状況が変わるわけではない。行き交う人達も財布の存在には気付いている様子だ。「忙しいから後でね」といった風に、財布に一瞥して先を急ぐ。不思議なもので、こう堂々と財布が落ちていると、拾うにもかなりの勇気がいる。後ろめたい気持ちがそうさせているのだろうか。

 しかしこのままでは自分以外の誰かが拾わないとも限らない。小さくため息を吐く。小さく白い吐息が目の前に舞う。
 裕也は元役者の演技力を全て注ぎ込む気持ちで演技する。
小走りで財布の側まで小走りで行くと「良かったーあったーコレがないと大変な事になる所だったー神様ありがとう」という感情で財布を拾った。拾う瞬間、がま口のついた、どう見ても女物の分厚い財布だった為、集中力が切れそうになる。サッとデニムの後ろのポケットに入れようとするが、財布が厚い為なかなか入らない。ここで完全に集中力が切れる。力任せにねじ込もうとするが、財布についているがま口が引っかかり入らなかった。頭はほぼ真っ白になっているが、この様を見ている後ろの人はどう思っているのだろうという焦りはしっかりと頭を駆け巡っている。ポケットに入れるのを諦め、そのまま右手に持ったまましばらく歩いてみた。後ろから、激しく自分に刺さっているような気がする視線に耐えきれず、小さい路地へと入った。それでも安心することが出来ず、早歩きでその路地からしばらく歩き、さらに人気のない路地裏へと身を隠す。この気温でも冷や汗というのは普通に出るという事に感心し、裕也はようやく一息ついた。
 自分が小心物だという事を自覚した瞬間でもあった。鼓動はアヤノさんと対峙した時と同じ位、忙しく脈打っている。

 やはり財布は女物だった。黒いエナメル製の財布は外側にがま口がついていて、ボタンを開けるとお札を入れる部分が開くといった形の物だ。女性に人気のブランドのプレートが主張している。がま口を開くと、小銭がいくばくか入っている。ボタンを開ける。
 そこには大量の一万円札が二百枚位入っている! と強く願う。
しかし、お札の入っているはずのスペースにはレシートしか入っていなかった。
「ええ……」
落胆が声になる。
 財布にはキャッシュカードらしき物も何枚か入っていた。だが、裕也には他人のキャッシュカードで現金を引き出すといった非道徳行為をする勇気も知識も持っていない。ポケットから喫茶店のレシートを取り出し、タクローの文字を見る。
『僕は道ろで財布を拾う』
大きい文字はしっかりと滲んでいた。
「だから財布じゃなくて金って言ったのに……」
財布であるがゆえに罪悪感も当然付きまとう。小さく毒づいてみるが、がま口の中に小銭が入っていたので結果は同じかもしれないなと思う。レシートをポケットにしまいながら次に思ったのは、この拾った財布をどうしようかという事だった。そのまま捨てるのは気が引けるし、交番に届けるのも面倒臭い。少し悩んだ結果、交番の前に捨てるという結論に至った。確か、麻布十番商店街入り口の向かいに交番があったという事を思い出す。時間的に、そこまで行って財布を捨てる頃には喫茶店がオープンする時間になるだろう。
 見落としがないかどうか、もう一度財布を開く。一応財布の持ち主の名前を見てみようと、キャッシュカードを取り出して名前を見た。
『SACHIO TSUZI』
 男が使うには女っ気が強すぎる財布に見えるのだが、人それぞれだ。そこまで人の趣味に文句つけるつもりはなかった。SACHIOさんも財布を落としてしまって気の毒なのだ。そこまで考えて、もう一度名前を見る。それは、なんとなく見たのではなく、裕也の頭の中に何か引っかかる言葉が渦巻いてきたからだ。
『SACHIO TSUZI』
幸せな夫と書いて幸夫。確かあの幽霊は自分の事を『辻幸夫』と言ってはいなかっただろうか。裕也の周りの外気が一瞬急激に冷え込んだような感覚がした。カードを財布へと戻す。
「本人に聞いてみりゃいいか」
ここは麻布十番である。幸夫が出る、バイト先のマンションもそれほど離れていない。裕也は幸夫に聞いて見るべくマンションへと向かおうとした。だが、その手数料にせめて小銭だけでもと思い、がま口の中から硬貨を手のひらに出す。見た目よりもかなりの量が入っていて、片手の手の平は握り込めないほどいっぱいになる。
「おい!」
裕也のすぐ後ろから男の声がした。大きい声だったというのと、裕也自身がやましい行動をとっていた事で全身が大きく震える程驚いた。そのせいで、手のひらに乗っけていた小銭はほとんど地面へと落下した。冷たいアスファルトに小銭が踊る音が響く。
「お前なにやってんだよ」
声の方に顔を向けた。黒いだぼついたジャンパーに太いズボンの若者が裕也を見ていた。首には金色のチェーンが光っていた。
髪の毛は真ん中を残して立てているような髪型で、表情は顔の半分以上を隠すような大きいサングラスを掛けていたのでほとんど解らない。ただ、男の威圧的な態度とは裏腹に高めの声と小さい体、そしてサングラスを機能的に引っかけているような、鼻の横の大きいほくろが印象的だった。

 この間タクローの本屋ですれ違った男であるという事はジャンパーが同じであるという事とサングラスで思い出せた。
「それあたしのなんだけど」
小さい男の後ろから出てきたのは同じく大きいサングラスを掛けた女性で全身を白い毛皮で出来たようなコートで覆っている。サングラスの下から見える顔だけでも、それなりに美形だという事は想像できた。身長はホクロ男より遙かに高い。
「拾えよ」
ホクロ男が、声を出せずに佇んだままの裕也に言う。
「あ、はい」
裕也は落ちている小銭を拾い始めた。
「ここもだよ!」
女性が高そうなヒールの先で小銭を指す。黒い網のようなデザインのタイツが目に入る。
「見んじゃねーよ! こいつまじむかつくんだけど」
「いいよ。俺に任せとけって」

お金を拾っている裕也の上でサングラスの二人が話す。裕也は惨めな気持ちになった。しかし、自分はまだ財布を拾って小銭を手のひらに出しただけなので、別にここまで言われる事はないのではないかと思う。手のひらいっぱいの小銭をがま口の中に戻した。
「返せよ」
ホクロ男が金色のブレスレットと金色の指輪をした手を見せてきた。
裕也はその手の上に財布を渡しながら言う。ホクロ男の体は裕也よりも小さかった。
「あのですね、僕拾って小銭を出しただけなんですけど……」
「なんで小銭出したの?」

ホクロ男が財布を女に返しながら言う。
「お札が入ってなくて、せめて小銭だけでも頂戴したかったので」
とは言えなかった為、黙り込んだ。道路に視線を落とす。たばこの吸い殻が落ちている。
「盗むつもりだったんだろ? お前」
「……」

ホクロ男が女に財布を渡す。女はすぐに財布を開いて裕也がさっき見た『SACHIO TSUZI』のキャッシュカードを確認した。
「よかった……」
「よかったねぇ」

心底ホッとした様子の女の肩にホクロ男が手を回す。ホクロ男の体がふらついていたので、足元を見ると背伸びをしていた。
 『盗む』という言葉に釈然としない裕也は、あの状況でどう言い逃れが出来るかと考える。「小銭に持ち主の名前が書かれているかと思って」とか「ギザギザの十円と自分の十円を替えてもらおうかと思って」とかだろうか? そんな事を考える余裕があったのも、男の威圧されてない威圧感と、裕也を和ませる大きなホクロのおかげに違いない。だが、女の声に裕也の余裕は無くなってしまう。
「ちょっと! 札一枚も入ってないんだけどー」
「マジで? いくら入ってた?」
「覚えてない。でも結構入ってた」

ホクロ男が裕也を見る。
「僕じゃないですよ! 僕が見た時にはもうなかったですから」
裕也は慌ててかぶりを振る。
「なんなの? やめて頂戴ウチの前で」
突然、後ろから聞こえた声に振り返ると、初老の女性が玄関先から怪訝そうにこちらを覗いていた。
三竦みのような状況に沈黙が流れる。
「すみません」
裕也が初老のおばさんに一礼をしてその場から逃げようとした。
競歩のスピードで違う路地裏に逃げ込もうとしたが、すぐにホクロ男に捕まる。
「なんで逃げるんだよお前」
「いや逃げてないですよ」
「逃げただろうが今」

ホクロ男が笑いを吹き出しながら言う。焦りながらも確かにと思う。
「いや、だって僕取ってないですもん」
「じゃあ話せば解るでしょ。なんで話もせずに逃げ出すの?」

ホクロ男の言葉はもっともであった。
「まじ逃げるとか最低ー」
遅れて女が歩きながらやってくる。
「こいつ取ってないんだってよ」
「はぁ? そんなの信じられる訳ねーじゃん」
「本当なんですってぇ」

懇願するような声が裕也の口から出る。
「まあ少し話しでもしようよ。オタクも嫌でしょ? こんな事で交番に連れていかれるの」
裕也の腕を掴むホクロ男の手に力がこもる。体の割にかなりの力がある事は、裕也の抵抗にびくともしないその体が物語っていた。
「……わかりました」
裕也は仕方なくホクロ男に従う事にした。

 男に片腕を捕まれたまま、三人で何処かへと向かっている。その途中、裕也は嫌な予感がしていた。何気なく、捕まれていない片方の手でポケットからレシートを出して文字を確認してみる。
『すごいキレイな女の人に出会う』という文字が滲んでいた。
「やっぱりか」
呟いた声が自分の思った以上に大きくこぼれた。
「あ? 今なんつった?」
後ろの裕也を振り向いた女の声がキンと響く。
「いえ。何でもないです。すみません」
「まあまあヒナちゃん」

ホクロ男が、ヒナちゃんと呼ばれた女を宥める。
その後、二人は裕也に聞こえない小声で何やら話しをしてしていた。
 キャッシュカードの『SACHIO TSUZI』の文字。
そして『ヒナちゃん』と呼ばれる女。目の前の二人の不穏な相談。
 嫌な予感ほどよく当たる。期待とは得てしてそういうモノだ。
そして今、裕也は嫌な予感に気付かない振りをする。


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