麻布抹茶

天使の抹茶ラテと悪魔の落書き③

【疲れた男と怪しい本屋】

 バイト先である十二階建てのマンションはオートロックは無いものの、エントランスが竹林のようになっていて、それが間接照明で照らされており多少の高級感があった。築三十年の割には造りもしっかりしていて、例えば隣の部屋の音が聞こえてくるというような事もなかった。

しかし、周りは全てお墓だった。

一度、エレベーターの故障の為、九階にある部屋まで階段で行った時、通る部屋殆どの部屋の前に盛塩がされてあるのを見て、そのような類の物を信じない裕也もさすがに取り憑かれる覚悟をした。
 エレベーターで九階まであがる。上へ行くスピードの遅さに少し苛ついたがいつもの事だ。仕事場である901号室の前には盛り塩はない。たまに裕也が一人で仕事をしていると、視線のような物を感じたり、物音がすぐ後ろでしたりという事があったが、それは盛り塩をしていないせいではないと思い込むようにしている。
 そもそも一人になる事もほとんどないので大丈夫だ。きっと大丈夫。そう頭の中で唱えてから、合い鍵で扉を開ける。中は薄暗かったが、すぐに目が慣れ、室内の様子が分かる。部屋の中心で汚らしい布団がモコモコと動いた。
「田中さん。おはようございまーす」
「……おはよう……」

「聞いて下さいよ! 駅前のカフェの女の子がめちゃくちゃ可愛くてやばかったんですけど。いや、僕この年になって始めて一目惚れを経験したと気付きました。いや……可愛かった。それでいて綺麗だった。……可憐だ……世の中の全ての美を集約したら彼女になるんです」
自分のテンションが異様に高い事を自覚しながら、溜めていた言葉を一気にはき出す。
 …………
寝息しか返ってこない。少し冷静になる。
「田中さん」
 …………
イビキしか返ってこない。部屋の真ん中で寝ている為、このままだと仕事が出来ないのだが、仕方がない。ここは仕事場兼、田中さんの自宅であり、自分は雇われの身だ。
 田中さんが起きたのは、それから三十分程経った頃だった。その間にカフェで買ったおにぎりと黒ごまラテを飲み込んだ。おにぎりに関しては、チーズが気になったが普通においしかった。黒ごまラテは思った以上に甘かった。甘い物が得意でないため、いつもの裕也なら半分くらい飲んで捨てている所だが我慢して一気にのみほした。
 寝起きの田中さんに、改めてカフェでの一目惚れの件を話した。
「へーよかったじゃん。二十代最後の恋だ」
「いえ。人生最後の恋です」

思い返すうちに再び気分が高揚していた。目の前には裕也の体を横にも縦にも二回りほど大きくしたような体格の田中が布団の上に座っていた。不健康そうに浮腫んだ顔で空を見つめている。
「あっそぉ。羨ましいよ」
「いやホント一度見に行って下さいよ。絶対恋しますよ。いや恋しないでくださいね」
「そのテンションが疲れる」

そういうと立ち上がり、布団をたたんでクローゼットへ押し込んだ。
布団が無くなったので一日の仕事を始める。

 裕也がこの仕事を始めたのは二ヶ月ほど前だった。台本を作り、少ない人脈で俳優を集め、裕也にとっては最後の舞台を大赤字で終えた。その結果、元々あった借金が普通に生活していては返せない額になってしまい、途方に暮れていた。仕方なく、真っ当ではないと自他共に公言している知り合いに泣きつき、この仕事を紹介してもらった。紹介料として三万円持っていかれた。日給一万二千円なのですぐに元は取れたが、警察に捕まるかもしれないリスクを考えるとそれが高かったのか安かったのかは未だ解らない。

 仕事場から帰る頃。夜と言える時間だった。雨は止み、空は暗くなっていた。この季節になると夜の自己主張が強まる。自動販売機の明かりが吐く息の白さを際立たせた。裕也ははやる気持ちでカフェへ向かっていた。昨日まで通っていた駅へ直行する道とは違う。カフェへ行くのに一番近道だと思う始めて通る道だった。
 肌を撫でる冷たい風が、心地良いと思える程に体温が上昇しているのがわかる。中学校の頃、密かに好きだった女の子の家へ電話して、特に見たくもない漫画を借りるため、女の子の家まで自転車を漕いだ時以来の高揚感だ。
 たしかあの時は、向こうに嫌われている事に気付かず、空回りして終わったんだよなぁ。
 裕也は少し冷静になろうと思った。立ち止まり、周りを見る。
居酒屋、焼き鳥屋、鉄板焼きの店。どの町にもある店だが、どの店も高そうに見えるのは土地柄だろうか。そんな洒落た道から、一本脇道に入った。喫茶店まで少し周り道をするつもりだった。少し歩くと電柱にホワイトボードが立てかけられたように捨ててある。

よく見ると黒のマジックで『本↑地下』と大きく書かれてあった。

矢印の方向を見ると、何という事もない雑居ビルの地下をさしているようだった。捨てられているのでは無いとすると本屋があるのだろうか。こんな街のこんな路地裏でこんなに怪しい店を営む根性に敬意を表し矢印に従う事にした。どんな本が売っているのか興味もあった。階段を下りようと近づくと、下から男が不機嫌そうに駆け上がってきた。高そうなジャンバーを羽織り、大きいサングラスをかけている。そのせいで顔はよく見えない。顔の見えない知らない男を見る趣味は無いので、裕也は道を譲る。こんな本屋に入る物好きが、自分以外にも居るんだなぁと思い、男の背中を見送る。何も買った様子が無いので、望んだ物は無かったのだろう。
 男はさっき裕也が見た看板になにやら投げつけると、肩を怒らせながら遠ざかっていった。少し気になってしまい、看板まで戻って紙くずを拾う。紙くずは四つ折りでくしゃくしゃになっていた。せっかく拾ったので開く。ノートの切れ端の様な紙くずは、本当に紙くずという名前にふさわしい物だった。
 なにやら小さい文字で文章が二行程書かれていたように見えた。はっきりしないのは読もうと思ったとたんに滲んだように見えたのだ。もちろん文字がいきなり滲む訳はないので見間違いだろう。
 滲んだ文字の中で『見える』という様な文字がかろうじて読めた。
紙くずをそっと地面へ戻し、再び地下へと続く階段へと向き合った。


 薄暗い地下への階段は意外に長かった。この先にお店があるような雰囲気もない。両肩が壁に触れそうな程の細い階段を下に下に下りてゆく。一歩ずつ響く自分の足音と共に気温が一度ずつ下がっていく様な気がする。暗い蛍光灯が等間隔に設置されてあるが、点滅しているものもあって不気味さに拍車をかけている。

 おかしい……建物の地下にしてはあまりにも深すぎる。と思った時、ようやく行き止まりをむかえた。さっき見たのと同じ形のホワイトボードが鉄の扉の前に立てかけられている。

 今度は『本売ります↑中』と書いてある。綺麗な字ではない。裕也は怪しさを体中で感じながら、扉の取っ手に手をかける。廃墟の裏口といった雰囲気である。氷のように冷たい取っ手を捻り、一度扉を引いたが開かなかったので押すと、音も無く扉は開いた。地下の濁った空気がそう感じさせたのかもしれないが、別の世界に通じている扉が開いたような気がした。


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