桜漂流記 9
「こんな住宅地に森?」
ただ木々と、その隙間を 埋め尽くす雑草だけの世界に見える。まるで植物以外の進入を拒むかのようだった。雑草の密度が少ない部分から奥へと足を踏み入れた。
獣道だろうか。人1人分の幅くらい、両端の長い雑草がアーチになっていてトンネルのように奥へ続いていた。暗くなり始めている空と、全く人の気配がないその公園の雰囲気に気圧されてしまいトンネル中腹から足を踏み出せなくなった。
別に怖気づいたのではない。
オレは、こうゆう時の相棒に助けを求めるために公園入口まで引き返した。公園の外で座って待っていたリュウは、「やっと帰るの?」とでもいうように尻尾を振り乱しながら嬉しそうに立ち上がる。電柱からはずした鎖を両手に絡ませ全身の力で引っ張れるように準備をした。そのまま徐に公園の入り口に立つ。リュウを見るとまだ嬉しそうに尻尾を振っていたので少し心が痛んだ。でもそんなの関係ない。
「ふんぬっ!」
全身の力を込めてリュウの首を繋ぐ鎖を公園の中へと引っ張った。不意を突いたのもあってか、リュウのお尻を地面に引きずりながらではあるものの公園の中へ入れる事に成功した。入ってしまえば諦めるかと思っていたのだがリュウの抵抗は終わらなかった。首を逆方向にねじり、目を剥きながら先へ進む事を嫌がった。
動かざること岩の如し。
「なんだよリュウ。何があるんだよここに。コエーじゃんかよー」
どうしても一緒について来て欲しかったオレは、鎖を引っ張ることでリュウの説得へと換えていたつもりだったが、空気を引き裂くようなリュウの高い悲鳴を聞いてしまい引っ張るのをやめた。
一つ大きな溜息をついてオレはさっきの電柱まで戻って再びリュウをそこに繋いだ。
なぜそこまで嫌がる?
そういえば犬は霊感が強いと聞いたことがある。もしかするとリュウにはオレが見えていない何か恐ろしいものでも見えているのだろうか?
恐怖心を煽るだけだと気づき、考えるのをやめた。オレは仕方なく一人で森の奥へ行く決意をした。
ゆっくりと確実に、夕暮れが辺りを包み始めていた。さっきの獣道へ嫌々体を踏み入れる。道は木々の間を縫うように続いていた。オレは雑草のトンネルを、平泳ぎをするように先へと進む。黙々と進むにつれて、妙な事に気づき始めた。
これだけの植物の世界に虫の気配も鳥の鳴き声も全く見受けられないことだ。公園の敷地の形状も気になった。さっき入り口から見たときは公園の右端から左端までそれほどの幅はなかったように思う。しかし真っ直ぐにではないにしろ、オレは随分森の奥まで来ているはずである。つまりこの公園は極端に縦長、しかもその半分以上が誰も手入れをしたことがないような森になっているのである。
疑問が恐怖に変わりそうになった時、オレは森の迷路のゴール地点らしき場所へと到達した。その場所こそが、あの桜がある場所だった。
皆はオレの見つけた秘密の場所をすごく気に入っていた。早速近所の駄菓子屋の店先に落ちていたベンチを康広と一緒に拾って運んで来た。それを桜の木の根元に置いた。簡単な作業だったが、秘密の場所は秘密基地らしくなった。
この桜の木はとても変わっていた。大きいというのもあるが、一番変わっているのは幹だった。とても太く、青みがかっていて、なんだか魚の鱗のような模様の木肌をしているのだ。鱗のようにボロボロと剥がれることはないが、光があたるとキラキラと輝く部分があって、なんというか生命力に満ち充ちているような雰囲気があった。ひょっとしたら今にも龍の姿にでも変わって飛び立つんじゃあないだろうか、という想像をオレはよくした。
桜の場所に通うようになってから、俺たち四人は桜の正体について随分と盛り上がったものだ。おかげで俺の狙い通り洋子とはとても仲良くなったが、もれなく仁美とも仲良くなった。
オレ達は毎日のように秘密基地に行った。オレは桜の木に登って地面に一番近い枝に座っていた。オレのお気に入りの場所だ。
洋子と仁美はベンチに、地面から盛り上がった根には康広が座る。
これが4人のいつもの場所だった。
季節ごとに装いを変える桜は秘密基地の雰囲気も一緒に変えてくれた。
オレたちは桜に集い、同じ時間を過ごしてきた。全員で秘密基地に集まる事は高校を卒業して、それぞれ違う道へと進むにつれて少なくなっていったが、それでも必ず年に五回程は皆が集まるようになっていたからさほど寂しいと感じることもなかった。
洋子は遠くの大学へ通うために地元から離れた。仁美は洋子がいなくなったからか、引き篭もりがちになった。俺は地元の専門学校に行き、家からそう遠くない会社に就職した。康広は勉強していないはずなのに、昔から学校の成績はよかった。だが喧嘩ばかりしていたせいもあるのか進学はせずにチンピラのような生活を送っていた。
大学を卒業した洋子が両親に結婚の意志を伝えるため地元に帰ってきたのは3日前らしい。大学で知り合った男と婚約したというのをオレが聞いたのは2日前で、昨日そのお祝いとして一番ふさわしい場所で騒いだというわけだ。
オレ達は大人になった。洋子は結婚したらさらに遠くの町で暮らすらしい。四人であの秘密基地に集うのは今までよりもっと少なくなるかもしれない。
寂しくないわけではないが、それでもいいと思った。あの場所はなくならないし、俺たちも忘れたりしない。近くを訪れたときはベンチに座りにくるし、季節ごとの桜の装いも気になる。たまにでもいい。時間が経ち四人があの桜の木の下に集った時は、また話しをしよう。
そのときが春であるなら、無尽蔵かと思うほどの花を咲かせ舞わせるあの木の下で酒でも呑もう。
そのときが夏であるなら、優しい木漏れ日に溢れるあの木の下で風を感じよう。
そのときが秋であるなら、足元で鳴る根元に落ちた枯葉の音に耳を澄ませよう。
そのときが冬であるなら、凍える木の幹を4人で寄り添い温めてあげよう。
たとえ何十年経ったとしても、きっとまた四人で集まれる。示し合わせずとも必ず桜の下に集う。確信している。あそこは俺達だけの秘密基地なのだから。
などとセンチメンタルなことを考えながら、込み上げてくる胃液を唾液で押しとどめた。リュウは秘密基地がある公園から一番近い、ちょうどあの時、鎖を繋いだことのある電柱の近くにウンコをした。それは今日も果てしなく臭く、一日溜めていたためなのかものすごい量だった。しかも少し軟らかめで、袋に入れるのにとても苦戦していた。鎖を持ったままだとリュウがオレの顔を舐めに寄ってきて邪魔なので、昔と同じ場所に鎖を繋いだ。
やっと半分程便を処理した時、リュウがオレに向かって吠え始めた。
なんだこのやろう。飼い主様に向かってなんたる狼藉。誰のせいでこんな思いをしていると思っているのだ。家に帰ったら、ご飯を目の前にして一時間位「待て」の刑に処してやるぞ。涎を垂らしながら潤んだ瞳でオレを見る受刑犬の姿を想像してニヤニヤしていたら、耳鳴りがした。今まで経験したことのない程の大きい耳鳴りだったので一瞬困惑してしまったが、構わずに作業を再開させる。そして残りのウンコにスコップを近づけたときだった。
リュウの吠える声がだんだん遠く聞こえだし、目の前が真っ暗になった。