麻布抹茶

天使の抹茶ラテと悪魔の落書き⑦

【天使とタクロー】

 麻布十番駅の四番出口まで歩くと、『クーゼ』の看板が見えた。
 タクローは本屋で着ていた服のまま裕也の隣を歩いている。麻布十番という場所柄、街の雰囲気とボロボロの服は当然合っていない。
「まだー? 僕疲れちゃった」
タクローが頬を膨らまして言う。ひげ面のおっさんがそんなことをしても鬱陶しいだけで全然可愛くない。大体、地下の本屋を出てからまだ五分も歩いていないのだ。運動不足にも程がある。
「あの店ですよ」
「どこどこ?」
「あの緑の看板です」
「へーなんかオシャレだね」

すっかり暗くなった町中に浮かぶ看板と、不安に苛ついている裕也の顔を交互に見てはしゃぎだす。一緒にお店に入って、しかもコーヒーをご馳走したりなんかしたら、友達同士に思われるだろうな。
少し憂鬱な気持ちになるが、これは幸せへのステップだと自分に言い聞かせる。そうだ。この男は超能力者なのだ。
「ねえ、君の好きな店員さんが可愛かったら話しかけてもいい?」
タクローが笑いながら言う。どうひいき目に見ても、声を掛けられて好印象を持たれるようには見えない。
「駄目に決まってるでしょ」
「なんで? 可能性のためだよ」
「話かけた時点で、可能性が消えてしまうと思います」
「どうして?」
「仲良くなる可能性のあるかもしれない気持ち悪いお客さんから、仲良くなる可能性の無い気持ち悪い変な人へ印象が変わるからですよ」

そして自分はその気持ち悪い人と一緒に居る変な気持ち悪い人になるだろう。
カフェの入り口の手前で、タクローにもう一度念を押す。
「いいですか? 変な事しないで下さいね」
「変な事って何?」
「わからないですけど、とにかく変な事ですよ。普通にして下さい」

この男の普通に任せるのは怖いと思い言い直す。
「絶対に喋らないで下さい」
「うんわかった」

神妙な顔で裕也へ向き直る。素直な部分もあるんだなと少しだけ安心した。

「いらっしゃいませー」
入り口の自動ドアが開く前から、レジにアヤノさんが立って居るのを確認して鼓動が激しくなっていた。
 自然にしよう、自然にしようと考えると自然に振る舞う事事態がどういう事なのか解らなくなってくる。
「こんにちは」と爽やかに、それでいてにこやかに言おうとして笑顔を作ると、アヤノさんはタクローを見て少し驚いた様な表情を見せた気がした。人という枠を外れそうな小汚い風貌の存在にショックを受けたのだろうか。
「こんにちは」 
「こんばんわ。いらっしゃいませ」

頭が真っ白になった。裕也のこんにちはという言葉に対し、こんばんわと言われただけで思考が止まってしまった。ついでに呼吸をするのも止まっていた。思考という歯車は完全に止まっている。
「ねえねえ、ゆうちゃん。おはぎって何?」
歯車を動かしてくれたのは意外にもタクローの声だった。何秒か前に絶対喋らないように言ったはずだったのだが。
アヤノさんは不思議そうに裕也を見ていたが、笑顔でタクローに声をかける。
「餅米を餡でくるんだ物ですよ」
優しそうな目が細くなる。可愛い。その笑顔の向けられた先はタクローだ。勿体ない。アヤノさんの声が勿体ない。裕也はタクローに嫉妬する。
「なーんだ。そうなんだ。君、ちょー可愛いね」
この馬鹿野郎。
「いやいや……そんなことないです」
あやのさんが顔の前で片手をひらひらさせ、困ったような笑顔をする。裕也はそれを見逃さない。タクローが言葉を続ける。
「本当に可愛いよ。すごい爽やかっていうかさ……」
「ちょっと! アヤノさんが困ってるじゃないですか。やめて下さいよ」

決まった。これで変な男のナンパからアヤノさんを守った俺の印象は良くなるはずだ。しかもこの男とあまり親しくない間柄だという事も暗に伝わっただろうし、顔を覚えてもらう為のインパクトもある。
「へーアヤノたんって言うんだ。名前も可愛いね」
タクローは事も無げにさっそく付けたあだ名を口に出す。
「え? 何で名前……」
アヤノさんが驚いた顔で裕也を見た。頭が真っ白になる。
……しまった。これではただのストーカーと思われかねない
「たった今そのネームプレートを見てそれが名前なのかと思ったんですよ。あはははは」と言おうとしてあやのさんの胸元を見るが、今日はネームプレートがついてない。
「え? いや……あれですよ」
裕也は必死で言葉を探す。背中にヒンヤリと冷たい汗が噴き出るのを感じた。あやのさんは怪訝そうに裕也を見ている。
やめてくれ。見とれてしまって何も考えられなくなってしまう。
「あ。携帯大丈夫でした?」
隣の店員さんが声をかけてくれた。こちらの胸元にはネームプレートがついていたので、無意識にネームプレートを見てしまう。
『MIE』と書かれている。
「ああ。全然大丈夫でしたよ。でもなぜか朝から誰からも着信もメールも無いんですよね」
話の流れを変える為に絞り出した言葉だったが、力み過ぎて声が震えてしまった。
「それ壊れてるからですか?」
言葉に笑いを含みながらミエさんが言う。
「いえ。違うと思います」
いつの間にか隣のあやのさんはミエさんを不思議そうに見ている。なんで自分の名前を知ってる不審な人と楽しそうに話をしているの? とでも言っているようだ。
きっとそう思っているのだろう。その視線にミエさんが応える。
「今朝いらっしゃってたから……」
「ああ、そうなんですか」

あそう。で? なんで名前を知っているの? とでも言うような顔で裕也を見る。視線は時に言葉よりも多くを語るものだ。おそらくあやのさんは本当にそう思っている。
「アヤたんアヤたん。どれがおいしいの?」
タクローがあやのさんの顔を凝視しながら聞いた。やめてくれ。名前を呼ばないでくれ。これでは好印象どころではない。
「あの、抹茶黒蜜ラテの甘さ控えめを二つ。持ち帰りでお願いします」
「えー。ちょっと座ってこうよぉ」

タクローが抗議するが、無言で却下する。
支払いを済ませ、注文の品が出て来るのを待っている間、タクローがあやのさんやミエさんにくだらない質問をしようとするのをなんとか止め、品を受け取ると早々に店を出る。
「ありがとうございましたー」
背中を押すのはミエさんの声だけだった。
振り返って手を振るついでにあやのさんを、もう一瞬だけ眼に焼き付けたかったが、そんなことが出来る程余裕は無い。
「最悪だ」
自然と思っている事が口に出る。
「何が?」
「何ってあやのさんの俺に対する印象ですよ」
「そうだね。良くないね」
「良くないねって……あなたが声掛けたのが原因でしょう!?」

そうだ。この男が悪いのだ。ナンパするような風貌にはまるで見えないのに声を掛けるからいけないのだ。
「しょうがないじゃない。アヤたん僕の事ばっかり見てるんだもん。一目惚れされたのかなって思っちゃってさ」
「たんとか言わないで下さい」
「それに名前言って勝手にあたふたしてたのはユウちゃんでしょ」
「ちゃんとか言わない!」

しかし、あやのさんは自分にどういった印象を持ったのだろう。
自分のしてしまった失態とはいえ、考えると重い気持ちになる。
「あやのさん俺の事どう思ったかな……」
タクローに聞こえるように呟く。少しでも安心出来るような言葉が欲しかったのかもしれない。
「名前を知ってた気持ち悪い客」
「気持ち悪くはないでしょう?」

どうひいき目に解釈しても、好印象ではないだろう。
「でもすっごく可愛いね。ビックリしちゃったよ」
裕也は駅の地下への階段の前で立ち止まった。
「タクローさん。気持ち悪がられていたとしても、惚れさせる事に支障はないですか?」
タクローは少し間を置いて答えた。
「まぁ本はさ、結局ユウちゃんの印象より僕の印象の方が作用するから問題ないんじゃない?」
「よかった……ちょっと複雑だけど」
「でもあの子可愛すぎるなぁ。ゆうちゃんには勿体ないんじゃない?」

そんな事は言われなくても解っている。それをこの男に言われるのは腹が立つ。
「ではタクローさん。要点だけ伝えます。僕にあやのさんが恋をして、やがて付き合う事で強く結ばれた二人は経済的にも豊かに、一生幸せに暮らせる……というような本をお願いします」
当初書いて欲しい事に『欲』がかなり足されているが、ここはタクローの出方を見る。
「うーん……」タクローが考え込む。やはり欲張り過ぎたか?

「うーん……」手で伸びた髭をつまみながら、なにやら考えこんでいるのだが、どこか芝居がかっているように見えるのは気のせいだろうか。
「あ、じゃあ……」
「いや! 大丈夫だとは思うんだけどさ、いろいろ難しいかもしれない」
「どういう事ですか?」
「もしかしたら……もしかしたらだけど、本書けないかもしれない」
「は? ちょっと待って下さいよ!? 何でも書けるって言ったじゃないですか!」
「いややっぱり書けなくはない。うん。書ける! 書けるかもしれないけど、書いても失敗しそうなしないような……」

タクローが口ごもる。まとまってない言葉を口元で整理して無理矢理喋っているように聞こえる。
「今までに失敗した事あるんですか?」
「ないよ」

なんなのだ。一体。何が言いたいのだ?
「じゃあ大丈夫でしょ。よろしくお願いしますよタクローさん。品物は明日ちゃんと持って行きますから、明日までに書けるとこまででもお願いします」
「明日まで!?」

周りの人が振り返る程の勢いで叫ばれた。この男は声のボリュームのつまみも壊れている。
「そんなに長い文章じゃなくていいですよ。明日までに書けるような長さで。細かい内容は任せますが、さっき僕が言った要点は入れてください」
「……なんだったっけ?」
「あ、メモします」

鞄から手帳を取り出して一枚破り、付属のペンで簡単に書く。
「あやのさんが僕を好きになって、やがて付き合って、経済的にも精神的にも豊かな生活を一生幸せに共に送る」
書いた内容を、一度音読してタクローに聞かせメモを渡した。
「よろしくお願いします!」
「頑張ってみるけど……」

乗り気でない気持ちが、表情で前面に押し出しされる。素直な男なのだろう。その表情に気付かないふりをして、裕也は地下へ降りるエスカレーターに体を乗せる。
「あの! もし出来ることなら、本の内容を感動的に盛り上げてほしいです!」
「わかったー」

棒読み調の覇気のない返事が返ってくる。地下へ降りていく裕也と、地上で手を振るタクローの間に、お金を持ってそうな女性が入ってきた。
「じゃあ帰ります。また明日」
裕也はタクローに手を振り返しながら声をかけた。
「じゃーねー。後ろのおばさんに痴漢しないようにねー! ぐふふ」
タクローの大きい声が地下に響いた。裕也は女性の視線に謝る。おばさんと言うほど老けていなかった。
 大江戸線のエスカレーターを下り続ける。さっきのあやのさんの怪訝な表情を思い出した。地下の深さに比例して裕也の気持ちまも沈んでいく。しかし、電車に揺られ三駅程過ぎた頃にはタクローの書く本が起こす奇跡への期待に、胸を躍らせていた。今日の失態なんてなんの問題もないという事に気付いたのだ。
 昔の、受かるかどうか解らないオーディションに期待を膨らませていたのとは違う。今回は必ず手に入る事が解っている。喜びと期待で体の内側から震えが起こりそうになるのを堪える。早く帰ってどういう人生を歩んで行こうかじっくりと考えよう。あやのさんだけじゃなく、金も名誉も、タクローを使えば何でも叶う。自分の人生はこれからなのだ。この出会いは、今までついてなかった自分へのご褒美なのだ。神様ありがとう。
 電車が最寄り駅へ着く。ホームへ降り立つと、改札へ向かう階段を駆け上った。

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