麻布抹茶

天使の抹茶ラテと悪魔の落書き①

【ホクロの人と怪しい本屋】

 鏡には自分の顔が写っている。スポーツジムの水曜プログラムである『結果はコミット』に3カ月間参加して得たこの肉体に負けない程、精悍な顔つきだ。いつ見てもほれぼれする。ハードボイルドな裏家業が似合うニヒルな印象もありつつ、角度によっては爽やかなかわいらしさもある。無敵だ。と思った。
 鼻の横にあるぷっくりとした艶のあるほくろに化粧水を塗る。昨日の夜は、ほくろから生えてきていた毛の処理をした。丁寧に抜いて、最近ほくろのケアを忘れがちだったことも丁寧に悔いた。
 チャームポイントは大事にしなければ。自分はこのほくろを気に入っている。大きめのサングラスをかけると、そのほくろでガッチリとホールドしてくれるから、ずれない。優れたほくろは、見た目だけじゃなく機能的でもあるのだ。

 化粧水の後に乳液をほくろにしみこませる。指先でチョイチョイと慈しむようにつける。今年で二十六歳になるが、子供の頃は親が、物心ついてからは自分で毎日やっているケアなので手慣れたものだ。
ほくろのケアが終わったあと、自分の顔を眺める。やはりいい面構えだ。優しい印象も受けるが、鼻の横のほくろがそれをキリリと締めてくれている気がする。健二という名前も、呼びやすいし覚えやすい。まさにパーフェクトな気がしていた。自分の肉体美とほくろ美に酔いしれてると、ふいに昨日あった腹立たしい出来事を思い出してしまった。

 昨夜。恋人である陽菜に、晩飯を一緒に食べる約束をすっぽかされてしまった。一週間前から約束していたのに残念だった。それは問題なかった。陽菜が約束を忘れてしまうのいつものことだし、女は支度に手間取る生き物だ。おっちょこちょいな部分を自分にだけ見せてくれるのだと思えば、むしろ嬉しい位だった。埋め合わせに、これからランチを一緒に食べる予定になっている。
 問題はその後だ、時間が余ってしまったので、適当に晩飯を済ませタクシーでマンションのある麻布十番に帰ってきたのだが、それでも時間は余ったままだった。予定では今頃陽菜の家に行き愛を育んでるはずだったのだが、まあそこは仕方ない。まだ一度も行った事のない陽菜の部屋を想像しながら、マンションのある方へと歩きだした。麻布十番は、単価こそ高いがなかなかいい店が多く、夜遅くまで開いてる店も多い。なのに陽菜は麻布十番には来たがらない。あまり好きな街ではないとのことだった。自分のマンションもあるから泊まるにはもってこいの場所だし、陽菜の仕事場である六本木も近い。おまけに道行く女性は綺麗どころばかりだ。ふむ……なるほどそういう事か。かわいい奴だ。つまり、すれ違う女性への嫉妬と言う事か。俺を取られるとでも思ってしまうのだろうか。あいつ程綺麗な女もそうはいないというのに。
 にやつきながらふらふらと歩いていると、街に似つかわしくない路地裏に迷い込んでいた。いくつかゴミが捨てられている電柱の傍らには、手書きで書かれた本屋の看板があった。洒落た店ではない事は一瞬でわかる。そもそもこんな場所に本屋を出したところで需要があるようには感じない。目立つ場所でもない。現に、二年住んでる自分が初めて通った路地裏だ。
 もしかすると知る人ぞ知る名店なのか? 本屋で?

 帰って、寝るだけの身でもあるし、看板の矢印に従ってやることにした。看板が示すビルの地下に下りていく。かなり長い気がしたが、やがて重い扉が見えてきた。ただでさえ冷えた空気も、地下だからか余計に寒々しく感じる。引いてみたが開かなかったので、押してみたら開いた。普通逆だろ? と思ったが別にどうでもよかった。

 入ると、漫画の単行本がいくつか並んでいた。この年になってまで、ワクワクドキドキの冒険や魔法と剣の世界に思い入れは無いので、特に用のある店には見えなかった。知る人ぞ知る名店にも見えない。三歩しか店の中に入ってなかったが、早速帰ろうとて振り返り悲鳴をあげてしまった。ワクワクさせない店だが、ドキドキはさせてくれる店なのだろうか。
 いつのまにか扉と自分の間に男が居たのだ。髭ぼうぼうのホームレスといった感じの男だ。
すぐに「お客さんもう帰るの?」と軽い口調で話しかけてくれなかったら、悲鳴をあげていただろう。自分が頷くと「運がいいね、今キャンペーン中だからこれあげる」と四つ折り位にされた紙切れを手渡された。四つ折りだったかどうか解らないのは、自分がその紙切れを開いてないからだ。店を出たら開けていいよと、どこか偉そうに言ってきたのも気に入らなかったし、なによりそのホームレス男はこのほくろに対し信じられない言葉を発したのだ。
「うわ! そのほくろ気持ち悪いね。毛が出てるよアハハ」
恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じたが、店を出て扉が閉まる前に男の風貌に対し散々な程けなしてやった。
だが「そんなに怒らなくていいじゃん」等とへらへら笑ってたので余計に腹がたった。さっさと階段を上がり、地上へ出た所にゴミがいくつか捨ててあったので、握りしめていた紙切れを手書きの看板に投げつけて帰ってきたのだ。もちろん帰るなりほくろの毛の処理をした。

 いつものサングラスをかける。ほくろにぴったり合っていて、ホールド感はかなり良い。このサングラスを探すのに一年と四ヶ月かかった。もちろん安物ではない。時計を見る。そろそろ仕事の時間だ。今回の仕事は危険な仕事だ。生きて帰る事ができるだろうか。そんな事を考えている自分がいとおしい。

 鏡の中の自分にもう少し酔いしれていたかったが、かわいい恋人の方が今は大事だ。玄関前に常備してあるお気に入りの香水を十回プッシュして振りかける。意気揚々と玄関の扉を開けた。

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