天使の抹茶ラテと悪魔の落書き㉙
【終わりの始まりⅩ】
トキエが昭吾に口づけをした瞬間、女性と昭吾はその場に崩れ落ちた。
昭吾の背中にしがみつく男は煙の様に消えた。まさしく煙の様に一瞬で気体になって消えたように見えた。
微かに聞こえる潮騒と風にざわめく葉の音が辺りを包んだ。
「え? 二人とも死んじゃった?」
タクローの声が後ろから聞こえた。裕也は右手に握りしめたままだったメモを覗く。
汚い文字で、漢字をど忘れしたからと平仮名で書かれた「こえがとどきますように」という文字は滲んでいなかった。
タクローがすぐ耳元で言う。
「ほらね。意味ないって言ったでしょ」
意味がなかったのだろうか。血だらけだった男が自分の足で立って、申し訳なさそうな目でトキエを見つめていた事も、昭吾と口づけをする直前に見えたトキエのあの笑顔も関係なかった事なのだろうか。もしかしたら、何らかの偶然が重なってタクローでさえも把握していないような奇跡が起こったのではないだろうか。ないだろうか、というかそう思いたい。
裕也の目に焼き付いたトキエの最後の顔は、そう思い込ませてくれる素敵な笑顔だった。
「これ滲まなくても効果あるんじゃないです?」
「バカだなあユウちゃんは。僕が何年この仕事やってるとおもってんの? そんな事絶対ないよ」
呆れたように言いながら、倒れたトキエを抱き起こした。
そんな紳士的な行動力に関心しようと思ったが、タクローの手がさりげなくトキエの胸を触っているのを見て、地の底まで幻滅した。
「おい! おっさん! やめれ!」羨ましい! いや違う。卑しい!
紙切れをポケットにしまい、すぐに駆け寄ってタクローの魔の手からトキエを救いだす。背中へと背負い、背中に胸が当たる部分に全神経を集中しながら車へと運んだ。トキエの肌は冷たく冷え切っていたので、つけっぱなしの暖房がありがたかった。座らせようとしたのだが、後部座席を占領するアヤタンが非常に邪魔だったので、まずアヤタンを座らせてから隣へトキエを座らせた。こう見ると、片方は人形とはいえ綺麗な女性が二人乗っているようにも見えた。
「このおっさんどうしようか」
タクローが倒れたままの昭吾を指さしていう。一切起こそうとしないのがすがすがしい。仕方ないので裕也が近寄って死んでないか確認した。口元に耳を近づけると、安らかな寝息が聞こえた。
「この人なんで倒れたんですかね」
そう言いながら、取り憑いたモノが急に剥がれたせいだろうかと想像したが、タクローはさも興味なさげに「さぁね。チューで心拍数上がりすぎたんじゃないの? 寒いからもう行こうユウちゃん」
といい加減な事を言いながら、この寒空の中意識のない男を捨て置こうとする潔さに感服する。
「ううむ……」
昭吾のうめき声が聞こえた。
「大丈夫ですか? 起きられます?」
裕也は声を掛けたのだが、それっきり反応がなくなってしまった。
今のところ生きてはいるようだが、このまま死なれると嫌なので、近くに止まっていた車の側まで引きずってあげた。鍵が掛かってなかったので、後部座席に押し込んだ。それはさすがに、ブツブツいいながらもタクローが手伝ってくれた。
助手席に座った時、後部座席で静かに寝息を立てるトキエの顔を見ながら、もうトキエじゃないんだろうなと思った。
「なにユウちゃんエッチな事想像してんだよー」
「どさくさに紛れて胸さわる犯罪者に言われたくありません」
「あれは事故だよコレ本当に」
羨ましい……と呟く裕也を尻目に見ながら、タクローはポルシェのエンジンをつけようとしたのだが、ポルシェのエンジン音は力尽きるようにから回った。
「アレ? アレアレ?」
何度か回してみるが同じような音が響くだけで、エンジンは動かなかった。この寒い中、エンジンを切って暖房をつけっぱなしにしていた事とヘッドライトをつけっぱなしだった事が災いしてかバッテリーが上がってしまった事が容易に想像出来た。
「さてどうしよう」
タクローが諦めるように背もたれに体を預けた。
「あ! ユウちゃんシートいじったでしょ!」
「仕方ないでしょうが、トキエさん乗せなきゃいけなかったんだから」
「僕シートの角度が合わないと運転できないだよなぁ……エンジンかからないけどねアハハ」
「わかりました……代われ下さい」
裕也はそう言って、タクローと席を入れ替えた。
「トキエさん寝てるんですからシート倒しすぎないでくださいね」
「うん。解ってる解ってる」
聞いてるのか聞いてないのか、気の無い返事をしながらタクローはシートを倒していた。
「まったく……」
裕也が呟きながら、キーを回すと何事もなかったかのようにエンジンがかかる。
「え?」
「ユウちゃんが運転した方が良いって事だねこれは」
リラックスした様子で腕枕をしながらタクローが言う。もう運転する気などさらさらないと言っているようだ。
仕方なく発進させる。
「超安全運転で帰りますよ。遅くても文句言わないで下さいね」
ほとんど徐行で来た道を戻る。何年ぶりなのかも定かではない運転に緊張しながら、空が薄ぼんやりと明るくなっているのを横目で見ていて前方の違和感に気付くのが遅れてしまった。さっき抜けてきた木々のトンネルの前に、車のヘッドライトのハイビームが待ち構えるようにこちらを照らしていた。
止まっているのは黒いバンだった。その車の前には、まさに仁王立ちで青いスーツを着た男と、重機の様な巨大な男だった。一瞬黒いバンが二台止まっているようにも見えた位だ。
僕は車を止めた。大男の顔がかなり強面だったのと、となりのスーツの男の顔に大きな傷があるのが見えた時点でアクセルを踏みつけて走り去りたかったのだが、只でさえ細い道の真ん中に立っているので止めざるえなかった。
「誰でしょう?」と聞く代わりにタクローを見た。
「ん? あーお客さんだなー」
タクローは自分の腕を頭に回して寝たまま答える。タクローの知人であればまぁ大丈夫だろうと思い、警戒を緩めた。緩めてしまった。
スーツの男が、運転席の窓をコンコンとノックした。近くでみるとさらに迫力のある顔だった。目の下から口にかけての傷が恐怖に拍車をかけている。僕は内心ドキドキしながらウインドウを開けた。
「おはようございまーす」
にこやかに挨拶をされる。
「あ、おはようございます……」
「タクローさんもどうもー」
タクローが横目でちらりと男を見て返事をする。
「やっほー」
「どうしたんですかーこんなへんぴな場所までいらっしゃって」
「ドライブだよ。ねぇユウちゃん」
「え……ええ。まぁ」
「この上の別荘って大河原組の組長さんの持ち物らしいですよ」
男はその言葉を顔見知りであるところのタクローにではなく、一番近い僕に向けていった。
「大河原組?」
「あれ? ご存じない? おかしいな」というと、男は僕の胸ぐらを掴んで窓から引きずり出した。ゆっくりとしたスムーズな、スマートな動きで、僕は悲鳴もうめき声も出すことが出来なかった。声が出たのは地面に組み伏せられてからだった。
「ちょ……ちょっと! なんなんですかいきなり!」
「いいからいいから。ちょっと待っててね」
何がいいのか解らない。喉元を掴まれて立たされた。声が出せなくなる。
「タクローさん、すいませんね。僕等も事態をよく飲み込めてないんですけどねぇ。でも悪いようにはしませんから」
「あはは。ユウちゃん凄いおもしろい顔してるよアハハ」
この薄情者……。首を絞められなが意外とパニックになっていないのは、男の力加減が絶妙で、声は出せないのだが死の危険を感じるほど苦しくはなかったせいだ。
「後ろの女性二人は……?」
「え? トキタンとアヤタン」
男が窓から後部座席へと手を伸ばした。
「二人に触らないでね。触ったら僕怒ると思う」
タクローの抑揚の無い声が大きく響いた。僕を問答無用で車から引き摺りだした男の手がぴたりと止まる。その手の向かう先は、人形のアヤタンなのだが、タクローにとって僕より人形の方が大事だという事はよく解った。
「おっと。失礼しました。タクローさんには嫌われたくありませんからねぇ」へへへと男が笑って手を引っ込めた。後部座席の二人は俯いていて顔が見えない。本当に女性が二人寝ている様に見えた。
「でもタクローさん。女子高生はまずいんじゃないんですか?」
「このアヤタンは中学生だよ」
「まじっすか」
男が驚いていた。僕も驚いた。
その間に、黒いバンの前に立っていた男がバンの運転席に乗り込んでいた。体重がかなり重いせいか、男が運転席側に消えるのと同時に車が傾いていた。
「じゃあタクローさん。このお友達ちょっとだけお借りします」
「いいよー」
我、関せずという風に、再びシートに体を預けながら言い放った。なんと白状な奴だという抗議の視線を送ったが、タクローがこちらを見てさえいなかった。そのまま男に引き摺られるように、黒いバンの後ろへ乗せられたのだった。
絞められていた首が解放された事で声が出せるようになったはずだった。でも血だらけの先客が二人縛られているのを見て、違う理由で声が出せなくなってしまった。
「組長! どうしました!?」
「うーん」
「あのやろうに何かされたんですか!?」
くだんの二人は、見た目ほど弱っている様子はなかった。昭吾が寝ている車の側で拘束を解いて貰うなり、後部座席に寝かせてある昭吾の介抱に当たっていた。介抱といっても声をかけるだけなのだが、顔に傷のある男と、大男は側で事の成り行きを見守るように立っていた。裕也はその大男に掴まれて身動きがとれずにいる。
「組長!」
トキエに昭吾と呼ばれていた男が今は組長と呼ばれている。裕也にもおぼろげながら関係性が見えてきていた。
「う……と……」
昭吾が朦朧とした様子で言葉をこぼした。声をかけている二人の男はその声をかき集めるように拾う。
「うと?」
耳から血を流している男が昭吾の口元にその耳を近づける。
「トキエ……」
「トキエちゃんをさらわれたんですね!?」
「このやろう! 返さんかい!」
足に紐を巻き付けた男が凄みながら裕也に掴みかかろうとするが、足に怪我をしている様で、イテテテと立ち上がれずにしゃがみ込んだ。
「うーん……」
「なんです? 組長!」
「森村……」
「なるほど。あのやろうが森村ちゃんもさらっていきやがったんですね?」
「このやろう! 返さんかい!」
足に怪我をしている男が立ち上がろうとし、イテテテテと言いながらコロンと倒れる。倒れながら裕也を糾弾する。
「卑怯な奴だぁあ」
「違いますよ!」
裕也が反論しようと声を出すが、顔に傷のある男の声にかき消された。
「森村って何だ!?」
介抱する二人を押しのけるようにして昭吾の肩をつかんで声をかける。
「おいじじい。なんだ! 栄二の事か!?」
「うーん」
激しく体を揺すられる昭吾だったが、まだまともに会話が出来る程意識は回復していないようだ。だから、その質問には代わりに裕也が答えた。
「栄二さんですよ。さっきまでここに居たんです」
「ああ?」
男が痛々しい傷口のある頬を裕也へ向けた。心臓が縮み上がる様な冷たい迫力のある顔に見えた。
「なに言ってんだお前」
「え……いや……その……」
恐怖でうまく声がだせなかったが、声が出せていたとしても状況をうまく説明できる自信はなかった。
「どこだよ。居るなら連れてこいよ」
連れてこようにも、トキエさんと一緒に消えてしまったんです。
と、心の中で叫んでみた。口から出たのは「あぅ……あ……」という音だった。男に凄まれて腰がひけるほどびびり倒している自分が情けなかった。男が裕也の胸ぐらを掴んだ。
「栄二は……ここにいたのか?」
迫力に反して、男が絞るように出した声は優しく震えていた。
「栄二は生きているのか?」
何かを願うような悲しいその声の響きに、裕也は気持ちを整える事ができた。この人にはちゃんと伝えなければいけないと思った。
「栄二さんという方は、思念のような存在になってこの方の背中にしがみついていました」
「なんだそれは。つまり幽霊かなにかって事か?」
胸ぐらを掴んだまま男は聞く。
「僕もよくわかりません。ただ、死んだ……もうこの世にいる方ではなかったのは確かです」
男が裕也から手を放した。
「もう居ないの?」
そう聞いてきたのは後ろの大男だった。図体に似合わない、透明感のある高めの声だった。
「はい。消える所は僕がしっかり見届けました。もう居ません」
裕也を拘束していた大男の手が離れた。
「あのやろう……なんでこいつの背中なんだ……」
男が背中を向ける。
「なんで俺達の前じゃねぇんだ!」
明け方の光に霞む遠くの海に叫ぶ。
「出て来いよ栄二!」
大男も傷の男の側へ歩み寄り叫んだ。
「ウワーーーー!」
頼りない震えた声だった。
「別れの言葉くらい言わせろよ!」
怪我をしている男達は黙って二人を見つめていた。
逃げるなら今だと思った。
今なら誰も自分を見ていない。そっと、足音を立てないように男達の叫び声に紛れるように後ずさりをした。一歩ずつ慎重に遠ざかる。
ポケットの中の紙切れを取り出して握りしめる。
少しだけそこに書いてあるはずの言葉を復唱するように祈った。
「あ! お前! 待て!」
「待て! いてぇ!」
「バカ! そこ掴むないてぇ!」
昭吾の側に居た二人が逃げようとしている裕也に気付いたが、勝手にもつれ合って転んでいた。その声を合図にするように裕也は振り返り地面を蹴った。タクローの車が止めてあるはずの場所まで全力で走る。もし居なくなっていたら化けて出てやる。