桜漂流記用

桜漂流記 8

   『陽太』

 最後に見たのはうんこだった。


昨日オレは洋子の婚約祝いで昼間から酒を呑んでいた。そのまま今日の明け方まで騒いでいたせいで日課の散歩に行けなかったからか、帰ってきたオレに愛犬リュウはワフワフ言いながらピョンピョンとおねだりをしてきた。

老犬のはずなのだが元気である。喜ばしい事なのだが、大型犬に跳びつかれるのは鬱陶しい。

ワシワシと頭を撫でてから、自分の部屋に戻って一眠りした。目が覚めるともう夕方手前の時間だった。リュウの散歩に行ってあげようと思い、汗臭いシャツを着替えて外に出た。リュウは俺を見つけると、空でも飛ぶのではないかと思うほどに尻尾を振ってくる。こうして喜びが目に見えるから犬は好きだ。

 オレがしゃがむと、久しぶりの餌がきたかのように顔を舐めまわしてくる。喜びは目に見えるままでいい。鼻や頬や口で喜びを感じるのに、リュウには色気が足りない。

待て! 待―て! だから待てというのに! このやろう。

舌で顔中を舐めてくるリュウの射程距離外へ離脱した。いくらなんでも犬の涎で溺れたくはない。鎖のせいでオレの場所まで来ることが出来ないリュウは悔しそうに吠え始めた。

飼い主に吠えるな。

 その後なんとか準備を整え2日分の散歩に出た。

俺の右手にはリュウが付いた鎖。左手にはコンビニの袋とスコップ。これはリュウのうんこを持って帰る為である。リュウはオレの知る限り何よりも臭いうんこをする。人だってあんなに臭いうんこはしない。あまりの臭さに体のどこかが悪いのではないかと思い、動物病院に連れて行き検査をしたことがあるが全くもって健康体だった。

オレは安心して落胆した。

 どのような匂いなのか説明したいが、近しい匂いの物をオレは知らない。いや、そんな物この世にあってたまるか。

 自宅を出発してからもリュウは忙しくそこらじゅうの草やゴミの匂いを嗅いでは、その都度嗅いだ匂いをリセットするようにフンッ! と、鼻息を鳴らしていた。

 ちなみにこいつが一番なついているのは洋子だ。仁美と康広には怯えているが、洋子が近づくとオレが聞いたこともないような甘えた声をだす。犬は飼い主に似るのか。

 小学校のとき同じクラスになって以来、高校を卒業するときまでずっとオレは洋子のことが好きだった。恋なんて綺麗な響きで言えるほど控えめなアプローチの仕方ではなかったのだが、とうとう洋子には伝わらなかったようだ。いいわけではないが、オレも途中から友人として一緒に過ごす時間のほうが楽しく感じるようになり、真剣に伝えるつもり はなかったように思う。

 純情な子供時代のオレが洋子ともっと仲良くなりたくて思いついたのが、俺たちしか知らない秘密の場所を作ることだった。オレはまず場所を探した。リュウの散歩がてらに何日もかけていろんな所に足を延ばしてみたが、いくつか候補に挙げられるような場所はあっても、秘密と呼ぶには心許無い場所ばかりであった。

 散歩コースに、一軒家が立ち並ぶ住宅街があった。他人との付き合いを極力避けたい人たちが集まって町を作ったのか、家という家一軒一軒全てが塀に囲まれている地区だった。

まるで迷路のようだと思っていた。その迷路の中のチェックポイントのような公園に入ってみたいと思ったのは、半ば妥協して候補の中から一つ選ぼうかと考えていた散歩の帰り道だった。青と赤の曖昧なグラデーションが空を飾っているような時間だった。中に入ったことは一度もなかった。リュウがなぜかとても嫌がるからだ。鎖を引っ張っても全身の力をかけて抗うのである。俺は鎖を公園の外の適当な電柱に括り付け、その公園に足を踏み入れた。

 中に入るまでは予想できなかったが、オレが思っていたより大きい公園だった。なにをモチーフにしたのかわからない遊具らしきオブジェがちらほらとあり、雑草に埋もれそうな鉄棒や、すでに埋もれた砂場跡地もあった。左右端には木々が聳えており、その間を背の高い雑草が埋めていた。その向こうを覗くと雑草の向こうには公園を囲んでいる家々の塀が見えた。入り口から正面、一番奥の方にはペンキが剥げて元の色さえ分からないほど
廃れたブランコがあった。もともとペンキが塗られていたのかさえ解らない。鎖と座る場所がないため小汚い鉄のオブジェになってしまっていたが、気になったのはそこではなかった。

公園を鬱蒼と生え囲む木々だった。奥へ、どこまでも続いているように思えたのだ。

森になっているのか、高く茂る雑草の向こうに塀は見えない。


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