天使の抹茶ラテと悪魔の落書き⑧
【いつもの悪夢と幽霊男】
同じ夢を見る。正確には同じ夢ではないのだが、決まって最後が同じ結末なのだ。
これは夢だと認識していたり、認識が出来なかったりもする。何でもないような出来事や、過去の記憶から作られたようなノスタルジックな雰囲気に包まれていたりするのだが、最後がいつも決まっていた。
遠くに水平線が見えているのだが、自分は海岸にいるのではなく、高い崖の近くに居る。天気は決まって穏やかな晴れの日で、眼下に広がる小さな町は、海に面している町とはいえ、漁業が盛んな様子は見られない。むしろ畑や田んぼといった農業が生活の主軸のような町だ。
崖までは緩やかな下り坂になっており、やがて自分はそこをゆっくりと走り出す。徐々に速度が速くなっていき、崖は目の前に迫っている。そこを躊躇無く飛ぶ。そして落ちてゆく。太陽が自分の下の方に見え、眩しくて目をそらすと、夢の終わりである無慈悲な地面が目の前にある。
夢だと認識していてもしていなくても、起きたときは汗だくになっていて鼓動が早い。
僕は死にたいのだろうか。
布団に埋もれた目覚まし時計を見る。起きるはずの時間はとっくに過ぎていた。
寝坊したせいで昼過ぎとも呼べない時間になって、ようやくバイト先のマンションについた。やっているアンダーグラウンドな商売にはにつかず、田中さんは遅刻にうるさい。いつも寝てばかりで仕事のほとんどを裕也にやらせているが、裕也が遅刻した時は「凄いね裕也君」の言葉の後に、遅刻とは関係のない小言を一日中言ってくる。今までなら、テンションも落ち込みがちになっていたが今日は違う。いや、これからは違う。この先の人生で気分が落ち込むなんて事もきっとないだろう。自分にはタクローの本がある。そもそも遅刻した理由も、明け方まで自分の輝かしい人生を設計していたからである。寝ようと思ってからも、興奮して寝付けなかった。何度も枕を抱きしめながら嬉しさに悶えた。
とはいえ、十二階から降りてくるエレベーターを一階で待つ間、多少の焦りはあった。エレベーターは急いでいる時に限って、すぐに乗れない。そんな事を考えて居ると、後ろから声を掛けられた。
「あの、すみません」
振り返ると男が立っていた。灰色のロングコートを着ていた為すぐに昨日の男だと思い出す。かなり体格がよく、近くに立たれると裕也が完全に見上げる形になってしまう。
「はい?」
答えると男が俯く。
「なんですか?」
男は俯いたまま何も喋らない。もう一度聞く。エレベーターが一階に着き扉が開いた。不毛な沈黙が流れる。
「あの急いでるんですけど……」
「あ、そうですよね。すみません。ごめんなさい。でもですね、少しお話がございまして」
男は何度も頭を下げる。悪い人ではなさそうだ。しかし、今は時間がない。すでに何時間も遅刻しているのだ。早く仕事に取りかかって、本屋へ行きたい所である。
「今本当に時間がないので、また。すみません!」
エレベーターに乗り込みドアを閉めた。男は一体何者だろうか。気にならない訳ではなかったが、それより気になる事がある。タクローはもう本を書いてくれているのだろうか?
「すごいね裕也君。もう夕方になろうとしてるけど」
田中さんは珍しく起きていた。小言を言う準備は整っているらしい。
嫌味を聞き流しながら仕事を終わらす。そう忙しい日ではなかったが、定期的に向けられる批判はそれなりに体力を奪っていた。散々言いたい事を言い続けた田中さんが途中、インターバルを取るようにコンビニへと出かけたので、その隙にタクローへ渡す品物を鞄へ詰め込んだ。横領と呼べる行為だが、この仕事自体が犯罪であるから、それほど罪悪感はない。こんな仕事をやるのも、あともう少しだ。田中さんともそれほど長いつきあいにはならないだろう。横領がばれないように注意して、仕事へ戻った。
「お疲れ様でしたー」
「はいお疲れー」
毒を全て出し切ったのか、裕也が帰る頃には田中さんの機嫌は良くなっていた。
「あの、遅刻すみませんでした」
「明日から気をつけてね」
「すいません。明日休みなんで……」
「あそっか。なんか色々言って疲れちゃったよ」
敷きっぱなしの布団に寝転んでゲームをしながら言う。小言を言う方もそれなりに疲れるのだろうか。
エレベーターのドアが一階で開いた瞬間、裕也はドキリとする。
ロングコートの男が立っていたからだ。ずっと待っていたのだろうか。さっき会ってから四時間程が経過している。
「えっと……なんでしょうか?」
今度は裕也から声をかける。正直つきまとわれているようで気味が悪い。
「すみません。あの、今お時間とか大丈夫でしょうか?」
「……え? 時間長くかかります?」
携帯電話の時計を見る。
「それほど長くはかかりません。少しだけ聞いてもらいたい事があるんです」
お時間は大丈夫ではなかった。もうすぐ喫茶店は終わる時間だった。
予定ではアヤノさんの居るカフェへ走り、少しお話をして昨日の弁解をして、アヤノさんから抹茶黒蜜ラテ甘さ控えめを受け取り、その足でタクローの本屋へ行くのだ。だが、ここで時間を取らなければ、毎日気まずい思いをすることになりそうだったので仕方なく男の話を聞くことにした。今日はアヤノさんはあのカフェには居ない。裕也は、そう自分に言い聞かせる。
男の話はこうだった。
自分はいつのまにか幽霊になっていた。そしてどうやらこの辺りの地縛霊らしく、マンションから遠くに出る事が出来ない。
途方にくれていた時、エレベーターから降りて来た裕也が自分に声を掛けてきた。裕也であれば話が出来るのではないかと思い声を掛けさせてもらったとの事だ。
男は神妙な面持ちで、一言一言を遠慮がちに、それでいてしっかり裕也へ伝わるようにはき出した。見たところ、それほど社交的な人間には見えない。控えめな性格は伏し目がちな視線や物腰にも表れている。背が高いのだが近くで話していてもあまり大きさを感じないのはそのせいだろうか。そんな彼が、見ず知らずの裕也にこうして相談するほどだ。相当悩んでいたのだろう。だから返す言葉はすぐに見つかった。
「すいません。ちょっと急いでますので」
階段脇のスペースからきびすを返し、足早にマンションの出口へ向かう。裕也は自分へと問う。何故話しを聞いてしまったのか。完全に危ない人じゃないか。ああいう一見おとなしそうな人が、怒ってキレたりすると怖いのだ。怒らせなければいいのだろうが、何が怒らせるスイッチなのかが解らない。つまり関わらないのが一番なのだ。
「901号室で怪しい仕事が行われています!」
後ろから叫び声がした。エントランスから階段を抜けて最上階まで響き渡るような声だ。響き渡るついでに裕也の心臓もしっかりと振るわせている。ショックで軽く飛び跳ねてしまった。着地後、体の大きさって声の大きさと比例するんだなぁ……とあまり関係の無い事を考えてしまっていたのは、裕也の頭の中もしっかりショックを受けた為だろう。
振り返るとやはり、さっきのおとなしそうなロングコート男が顔を真っ赤にして裕也を睨んでいた。
「……あの……ちょっと?」
「901号室で怪しい仕事が行われています!」
男の叫んでいる言葉が理解出来たと同時に、901号室は裕也の仕事場であるという事に気付く。
「誰か通報して下さい! 児童ポルノのDVDをコピーして発送する仕事です!」
「やめて下さいよ!」
男のコートを引っ張り階段脇まで連れてくる。その間も男は「警察を! 警察をお願いします!」と叫んでいた。
叫び声を聞いた人間が警察を呼ぶ可能性は低くはない。男の言う事信用して通報するのも然りだが、それよりマンションのエントランスで暴れている怪しい二人をどうにかしてくれと通報する可能性の方が高い。二人と言われても俺は暴れてない。
警察を呼ばれるのは確かにやばかった。ひっそりマンションの一室で作業をしているのは、堂々とは出来ない商売だからだ。今この男が叫んだ刑法何条だかに引っかかるのかは知らないが、警察が来て901号室に少しでも疑いを掛けられるのは困る。田中さんが捕まってしまう事に対しては何にも思わないが、今の裕也の収入源がなくなってしまうのは困る。それに田中さんが捕まるという事は、裕也の身も危なくない訳ではない。とにかく、警察はもちろん901号室を他の人間に意識させて良い事など何もないのだ。それより何故この男がここまで仕事の内容を把握しているのか。
「違法行為が行われている! 901号室に制裁ぼ……制っ……」
男の口を押さえる。必死で。男の顔はかなり高い場所にあるので、裕也は飛びかかって男の顔を手と胸で抱え込む。
男は急な裕也の重みに耐えきれなかったのか、ヨロヨロと壁に当たり膝から崩れ落ちる。その拍子に押さえていた手が離れた為、裕也が大声に対しての心の準備をした。が、その必要はなかった。
「話しを聞いて下さい。あなただけが頼りなんです」
裕也の方の力が抜け、諦めて話しを聞こうと感じたのは男の声があまりにも真剣だったのと、これ以上不毛な運動をしたくなかったからだ。それか男の目が少し赤く潤んでいるように見えた為かもしれない。男はゆっくり、裕也に向かって正座をする姿勢をした。裕也は嫌な予感がした。男はそのまま額を床へ近づけた。
「本当に勝手なのは承知です。お願いがあります」
裕也の背中と額からじわりと汗がにじみ出るような感じがした。
いつもよりかなり重く膨らんでいる鞄の他に、持ち手の無い大きい袋を持たされたような気分だった。
明日の休みはあの男の為に使わなければならなくなった。とはいえ休みの日に遊んでくれる友達も裕也には居ないので、もともと予定は無かったのだが。
土下座をされたのは初めてだった。あの後、人目につくと嫌だと言うと、マンションの屋上へと案内された。
「あの……怖いんですけど」
という裕也が言うが「大丈夫です。私が居ますから」
と幽霊男は言った。
「だからあんたが怖いんだって」
と呟くが幽霊男には聞こえてなかったようだ。
今は使われていないのか、蛍光灯はついていなく真っ暗な階段を進む。幽霊男は慣れた足取りでどんどん進んでいく。屋上の扉の前に手書きの赤く太い文字で「立ち入り禁止」と書かれた紙が貼ってあって、裕也はまた腰が引けた。
屋上はマンションの大きさほど広くはなかった。屋上というよりもマンションの屋根といった表現がしっくりくるような、何もないスペースだった。一応腰ほどの小さい手すりが周りを囲んではいる。
自分が高い所に行くと、足がすくんでしまうのを知っている裕也は何があっても手すりに近づくものかと思う。しかし、裕也の立って居る場所からみる夜景も素晴らしいとは言えないものの、それなりに綺麗で一瞬見とれてしまった。
「綺麗ですよね」
「ええ。それなりに」
幽霊男は手すりに近づいて下を見た。裕也は近づかない。
「このビル周りは全部お墓なんですよ」
「……知ってますけど」
「面白い景色なんですよ。上からみると。真っ暗で」
「そうですか」
「地獄へ続く暗い穴に囲まれてるような気がしませんか?」
「しませんが」
裕也は動かない。
「あ、すいません。高い所苦手でしたか?」
「はい」
「すいません! 気付かずにこんな所まで……すみません!」
幽霊男が手すりの所から小走りで近づいてきた。
悪い人ではなさそうだ。
幽霊男は名前を『辻幸夫』と名乗った。
「幸せな夫とかいてさちおなんですが、結局自殺してしまいました」
自嘲気味な笑顔を作って言うが、本人も面白いとは思っていないだろう。裕也は愛想笑いを返す。
「それでお願いってなんですか?」
「妻を救っていただきたいのです」
正直面倒くさいと感じた。こんなよく分からない人の言う妻が、本当に妻であるかどうかも怪しい。
「僕に誰かを救うなんて無理ですよ。自分の事だって救って欲しいのに……」
幸夫は両手の平を僕に見せて振った。
「いえ、救うといっても妻の自殺を止めて欲しいだけです」
「いやどこが『だけ』なの。一大イベントじゃないですか」
幸夫の妻は、月に一度屋上へ上がって来てはこの屋上から飛び降りをしようとするらしい。幸夫はそれを止めようとするのだが、自分の姿は見えないらしく何もできない。今のところ高さに怯んでいる様子の妻は飛び降りる事なく帰ってくれているのだが、最愛の妻がいつ死んでしまうのかわからない状況は自分にとって生きた心地がしないらしい。と、ここまで話すと幸夫は思い出したように付け加えた。
「僕死んでるんですけどね」
「帰ります」
「あ、ごめんなさい! ごめんなさい!」
帰ろうとした裕也を必死な様子で止める。
「わかりましたよわかりました。僕に出来る事はしますよ」
とりあえず、この場をやり過ごす事にする。こういう妄想系の人は信じてあげるフリをすれば危害を加えてくる事はしないだろう。
「それで、その奥さん次はいつくるんですか?」
「それは……わからないんです」
申し訳なさそうに言う。
「いつも来ている日に今月は来ていないんです。もしあの子が思い詰めてしまって、違う場所で何か起こっていたらと思うと……」
神妙な顔で下を向く幸夫へ裕也は言う。
「新しい男でもできたんじゃないんですか?」
意地悪のつもりだったのだが、幸夫は慈愛に満ちた笑顔で言った。
「僕の事を忘れられているならそれでいいんです。うん。それが一番いい。あの子は幸せにならないといけない」
どこか自分にも言い聞かせるようにも聞こえた。
「それで、僕どうしたらいいです?」
やけくそ気味に聞く。
「すみません。とりあえず今から言う住所へ行っていただいて妻の安否を確かめて貰えませんか?」
「とりあえず……って」
「えと、書く物大丈夫ですか? 妻の名前が辻友美といいます。住所は……」
「あぁっ、ちょっと待って」
急いでカバンからペンとメモを取り出し、幸夫のいう住所を書き留めた。
「空で覚えてるんですか?」
「はい、妻が僕の死後901号室からその場所まで引っ越す時になんとか覚えました。紙とペン持って死ななかったので……」
そういうと優しそうな苦笑いを浮かべる。可哀想に、この場所に住んでいる女性がつきまとわれているのか。
「ん? 901号室?」
幸夫の苦笑いにごまかされてうっかり聞き流す所だった。
「はい。私が妻と生前住んでました。なのでたまに部屋の中に入らせていただいてましたが……」
裕也は、目の前の変な男は前の住人で、合い鍵を持っているのだと推理した。それならあの部屋でどういう仕事が行われているのか知っていても不思議ではない。
「ふーん。あれ、でも住所解ってるなら自分で行ったらいいじゃない」
「自分地縛霊なもので……すみません」
「ええ……でも901号とか一階とかは行けるんでしょ? 頑張ったら行けるんじゃない?」
「そう思ってやっては見たんですが、どうやらこのビルの周辺で、死ぬ前に行き来した場所にしか行けないみたいで……」
そういって裕也の足下に視線を落とした。どうやら裕也には解らない地縛霊事情という設定を考えているらしい。
「はいはい、解りましたよ」
得体のしれない男の妄想によくここまで付き合った。優しいよ自分。裕也は頭の中で独りごちる。
「すみません。よろしくお願いいたします……」
幸夫は、もう何度下げたか解らない頭を深々と下げる。何も言わないでいると幸夫がビルの一角の柵に目を向けた。つられて裕也もそちらを見る。そこから飛び降りたのだろうか……などと考えそうになった。信じそうになっている自分に驚く。一流の詐欺師は人をどうだますかよりも、人をどう信じ込ませるかに重点を置くらしい。
この男が自分をだますメリットがどう考えても見あたらないのだが、詐欺師の素質はあるのだろう。
「じゃあもういいですか? これから行くとこあるので」
「あ、はい。お話聞いていただきありがとうございました」
幸夫の言葉が終わる前に踊場へ向かう。階段への扉を開けた時、幸夫を振り返る。面白半分、意地悪半分で聞いて見た。
「仮に、この住所に住んでいる女性が、今どうなっていたとしても、えっと……幸夫さんは何もできないんですよね? 死んでるんですから」
「それはそうなんですが……でもこの世界に存在している以上気になってしまうというかですね……」
幸夫は照れくさそうにする。
「はあ」
「……何事もなく、今も元気で幸せにしていてくれているならいいんです。彼女がここ来るときはいつも泣いてましたから」
「もし男と居たら?」
安否を確かめるだけならまだしも、ストーカーと善良な人との板挟みなどに関わりたくはない。
「そうであれば何もしなくていいです。あの子は凄く綺麗ですから、寄ってくる男性は多いでしょうし」
「綺麗なんですか?」
「ええ。本当に僕には勿体ない程」
バツが悪そうに言う男の目はとても優しかった。勿体ないなら付きまとうのもやめたらいいのに。
「じゃあ僕は、元気かそうでないかだけ見てくればいいんですね?」
「はい。あんまり裕也さんに迷惑もかけられませんし」
そう言うとまた裕也の足元へと視線を落とした。何かついてるのだろうかと気になって裕也も見てしまう。
「あ……十分迷惑ですよね。すみません本当に」
言葉を続ける男の体の節々から、申し訳ない気持ちが漏れ出ている気がした。裕也の顔を見て話さないのはそういう気持ちからだろうか。
「なんで死んだんです?」
これは意地悪全部で聞いた。
「あ……たいした事じゃないんです……」
幸夫は自分が飛び降りたという場所を見つめる。
「ただ……喧嘩……みたいな日が続いていて、つい、僕が死にたいってあの子に言ったんです」
「そうなんですか」
「もしかしたら、怒って欲しかったのかもしれません。子供ですよね。……でもあの子は僕がどこかで期待してた言葉はくれませんでした」
妄想の中でも、思い出す過去の妄想というのは鮮明なものなのだろうか。裕也は幸夫の声が少しうわずってきたのを耳で感じていた。その様子を目で確認する前に幸夫と同じ場所を見る。役者をやっていたから解る。妄想だろうが何だろうが、ここまで自分の設定を信じる事ができてこそ、演技に命が吹き込まれるのだ。この男の演技はうまい。本当に幽霊になりきっているのだろう。正直、悔しかった。そして見入ってしまっていた。
「ただ一言、死んでよ……って。……それで……その後、屋上へ上がって」幸夫は乾いた笑みが張り付いた顔で裕也を見た。「……飛び降りたんです」
「それで……ですか。彼女が死んでって言ったから?」
そんなことで? とも思うが、人が死ぬ理由なんて言葉で聞いてもたいした事じゃなく聞こえるものだ。幸夫の口からは肯定も否定もなかった。やがて風が吹いた。凛と冷えた風は、二人を包んでいた沈黙を流す。
幸夫が何か思いついたように口を開く。
「あの……裕也さん……ですよね」
「はい」
名前も901号室のどこかで調べたのだろうか? 仕事柄名前を書いた物を残す事などあり得ない気がするが……そもそも、田中さんが部屋に居ない瞬間なんてそんなに無い気もするが……
「……証拠見せますね」
「え?」
幸夫は裕也に背中を向けると、短距離走のスタートよろしく、勢いよく掛けだした。向かう先は先ほど男が視線を向けていた柵だ。
「ちょっと!」
裕也は開けたドアから手を放し、男を止めるべく走り出すが、三歩ほど動いた時、男の体は柵を跳び越えビルの屋上から見えなくなった。
「あ」と声を出せないまま固まる。真っ白になるとはこの事だろう。
次に続くはずの音に耳をすます事しか出来なかった。体のどこに力をいれていればいいのか解らなかった。ただ、立っている事しかできない裕也の耳に、予測していた音に似たものが聞こえた。想像よりも湿った音だった。
「……おいおい嘘だろ」
裕也の呟く声が、地上から十二階分近い夜空に吸い込まれる。
一歩、また一歩と恐る恐る柵の方へと近づいてみる。喉が酷く乾いている事に気付いた。
この場合、自分は容疑者になるのだろうか、ニュースではどう報道されるのだろうか。田舎の親はそれを見るだろうか、あるいは人づてで聞かされるのだろうか。アヤノさんはどうだろう。人を殺したかもしれない男が身の回りをうろちょろしていたと知れば、かなりの恐怖をいだくだろう。ぐるぐるとうるさい程の考えが脳をかき回す中、幸夫が消えた柵へと到着する。少しだけ身を乗り出して下を覗こうとする。しかし、怖くて出来なかった。それは高さから来るものではなく、人を一人殺してしまったという罪悪感からくる恐れだった。ビルの周りが目に入る。取り囲む墓地には街灯も無く、黒い海にこのビルが浮かんでる様にも見えた。遙か下の通りを走る高級車の音は波音の代わりだろうか。
「逃げよう」
頭はうまく働いてくれなかった。ただ、ひらめいた言葉がそれだった。裕也はきびすを返す。
「これが証拠になりますか?」
「ああああああああ! ははぁ!」
幸夫が裕也のすぐ後ろにいた。裕也は衝撃に体を突き飛ばされたように後ろへ飛ぶ。柵を飛び越えて行きそうだったが、足が低い柵に引っかかり空と柵の間へと倒れ込んだ。
「危ない!」
幸夫が裕也を助けようとして柵を飛び越えた。が、勢い余ってそのまま空へと飛び出した。
「あああ!」
裕也は驚愕とも落胆とも解らない感情で幸夫を見て叫ぶ。
「すいませーーーーーーーん」
幸夫の声はビルの一階へと吸い込まれるように小さくなっていった。
ゴス! という音が今度ははっきりと聞こえた。
いつの間にか目を瞑っていた。幸夫がどうなったのか確認が取れない。
「なんなんだよぉう」
裕也はガタガタと震える全身を押さえながら、音のした下を覗き込んだ。幸夫が倒れていた。はっきりとは見えないが、頭の周りを黒い闇が包んでいるように見えた。それは血だという事が、すぐに解るほど大きく広がってゆく。
「……」
何がなんだか解らなくなって、とりあえず叫ぼうと息を吸い込む。
「僕が落ちちゃいました」
裕也のすぐ側で幸夫の声がした。顔を上げると、裕也をしっかりと掴んだ幸夫が笑っていた。再び下を見ると倒れていた幸夫の姿は無くなっていた。
「あああああああ!」
そのまま叫んだが、気管に唾液が入ってしまい咳き込んでしまった。
「大丈夫ですか? すいません。すいません」
幸夫が背中をさすってくれる。裕也の目から涙が出た。