「春馬くん」を語らないメディアを悲しむ。
三浦春馬くんが旅立ってしまって半年以上が経つ。まだ私の心は癒える気配がない。
年末年始、新聞やテレビの片隅に、春馬くんの生きた証にふれるものはないかと探したが、「亡くなった方々」という寂しい一覧表にわずかな記事を見つけたのみ。
あれほどの俳優が、映画やドラマなら必ず主演、バラエティに出てもメインの扱いを受ける大スターが、なぜ「自死(の疑い)」というだけで、そもそも居なかった人のように、透明人間のように扱われるのか。彼の周りで、彼を讃え、もてはやしていた人たちはどこへ行ったのか。誰も、何も語らない。あれから、時間が進まない。
ドラマ「太陽の子」の撮影に密着した番組で、柳楽優弥さん、有村架純さんが、撮影中の春馬くんのことを控えめながらも語ってくれたのが、とても貴重で、あのとき、7月18日で止まってしまった時間が、ほんの少しだけ動いた気がした。
春馬くんを想う人たちがいつまでも癒されず、想いを封印して暮らさざるを得ないのは、メディアが「自死」という事実を、地雷のようなものとして危険視しすぎて、春馬くんを巡る一連の話題を禁忌のように扱っているせいもあるのではないかと思う。
三浦翔平さんら、春馬くんの親友とされる人でさえも、テレビの取材で彼の名前を口にすることすら控えている。「僕らの大切な仲間がいなくなって…」、うん。ファンの中には、春馬くんの名前を聞くだけでも抑えていた悲しみが噴出し、あとを追いたい気持ちが蘇るというかたがいるかもしれない。それを配慮してという気遣いはとてもよく分かる。大人だなと思う。
でも、彼が大切に思っていた友の口から、その名前が出ないことを悲しみ、その名前が呪詛のことばのように忌避されることに、余計に辛さを募らせる人間もまた存在する。私のように。
これがアメリカだったらどうだろう。
いくらスポンサーや関係者にくぎを刺されていたとしても、司会者やコメンテーターは、故人への想いをこらえずに言うだろう。「彼は素晴らしい人だった。彼は私たちの心の中に今もいる」。自分の思いのままに、故人への敬意を示し、同じ思いを持つ人たちに語りかけるだろう。視聴者も、その言葉にまた悲しみを新たにし、喪失感をともに分かち合い、そして少しずつ前に進むのだ。それが人間らしい、亡くなった人の悼み方ではないのだろうか。「キンキーブーツ」のスタッフが春馬くんを想い寄せてくれたメッセージを観れば、そのようなメッセージが人を傷つける事はないのが分かるだろう。
今の日本のメディアは、叩かれることを恐れ、出る杭になることを恐れ、誰もが一目置くような大物でさえも、同調圧力に組み敷かれているように見える。誰も、そこからはみ出すほどの感情は露わにせず、視聴者の誰の感情も過度に刺激しないよう、細心の注意を払っているように見える。ここまで、国民が総じて「空気を読む」ことを最優先するのは日本人だけだろう。
今、悲しみによって、持つべき枠の中から大きく感情が「はみ出した」私から見ると、みんながみんな、枠の中に収まろうと汲々としているのがとても滑稽に思える。モノクロの喜劇のように、静かなおかしみを伴って見える。
枠の外で発言ができるのは、唯一、匿名性が保証されるSNSの中でだけ。そこでは、多くの「春友」さんたちが春馬くんを語り合い、励まし合う。私も、多くの同志の言葉に慰められたし、励まされた。でも私たちは、春馬くんは、こんな地下の秘密結社みたいに寄り合わなければならない程のことをしたのだろうか?ただ純粋な魂が、圧力の強い世界に疲れて、空へ還っただけなのに。その魂を、心が呼び続けているだけなのに。
大きな声で春馬くんを讃え、大声で泣き、悲しみを発散させることができる場所へ行きたい。誰もが同調圧力から逃れ、感情を発露し、その権利が考え方の違う人からも認められる世界へ行きたい。
そんな場所でなら、もしかしたら、彼を失わずに済んだのではないだろうか?
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