他人の家の中は、なぜこうも魅力的なのか。
見知らぬ他人の家の中が見たくてたまらない主婦。その動機は何なのか。見たい家と興味のない家の違いは何なのか。自分の家はなぜ魅力的に思えないのか。自分の深層心理を初めて紐解いてみる。
鼻炎の子供を耳鼻科に連れて行く道中、車の中からよく見かける家がある。県道沿いのなんということもない一軒家。玄関の扉が、風通しのためにいつも少しだけ開けてある。
上がり框に、決して趣味がいいとは言えない玄関マット。昭和からずっと変わらない引き戸の靴箱。その上には誰かのトロフィー。薄暗い廊下の奥に、微かに、台所への入り口の暖簾が見える。ああ、中が見たいーーー。
信号待ちの僅かな時間に、同乗している家族に不審に思われない程度に、家の中を観察するのは至難の業だ。周りの景色を満遍なく眺めるふりをして、家の中にすばしこく目を走らせる。信号はすぐに変わる。家の中から誰かが出てきて、目を離さざるを得ないときもある。とても心残りな瞬間だ。
電車に乗るときも、一人のときは必ず、空いていても座らず乗降ドアの横に立つ。線路沿いの家々の中を垣間見る、絶好のチャンスだからだ。
電車が停車駅に近づいてスピードを落とし始めると、急いでターゲットとなりそうな家を品定めする。新しすぎず、古すぎない家がいい。私の目に留まるのは、平均して築15〜20年くらいの家だ。建築物に興味はないので、凝った意匠の家にも用はない。どちらかと言うと平凡すぎて、一瞬目を離したらもうどこへ行ったかわからなくなるような、外観的には無個性な家がいい。自転車や、藻が生えた水鉢、日に焼けたサンダルが庭に放り出されていると素敵だ。洗濯物が、小さな子供のものだと、いやでも家族構成を推測させられるのでそれもいい。
マンションもいい。こちらも新しすぎる、ホテルのような建物には目がいかない。集合住宅というより雑居ビルと言ったほうがいいような、得体の知れなさのある建物。その窓から眺められる部屋の様子が、絶妙にいい。窓のサッシの桟に、襟のヨレたTシャツがハンガーに吊られてかけられているのとか、部屋の壁にペナントや、いつの時代のものか分からないポスターが貼られていたりするのがいい。わけのわからない年齢不詳のおじさんがベランダに煙草を吸いに出ているのも、目が合いさえしなければ、胸踊る要素になる。
なぜこんなに、特に立派でも豪華でもセンスが良くもない普通の家の中が見たいのか。
そしてよく考えてみたら、知っている人の家の中は、特に見たいと思わない。見ず知らずの、家族構成もわからない他人の家の中が見たくてたまらないのだ。
知っている人は、その人となりが分かってしまっている分、ひとつひとつのディテールに、想像力が働かないからかもしれない。
あのトロフィーは何の賞品か。テレビの横のマッサージチェアには誰が座るのか。居間の茶箪笥には何が入っているのか。階段の踊り場はどんな匂いがするのか。冷蔵庫にいつも入っている食品は何か。知っている人の家なら、だいたいの想像がついてしまうから心が弾まないのかもしれない。
お洒落な家、余計なものがなく、センスのいい家具に囲まれた家にも、魅力を感じない(自分が住むなら、もちろんそんな家がいいに決まっているけど)。
となれば、私が見たいのは他人の生活感そのものと言えるかもしれない。それが良いとも悪いとも、お洒落だともダサいとも、誰にも判定させない、確固たる力を持った生活感。
通りすがりの家の窓の磨りガラスの向こう、台所と思しき窓辺に、大きな壺のシルエットがほのかに見えて、思わず道ばたに立ち止まって考え込んでしまったことがある。漬物が漬かっているのか。お婆さんのへそくり入れか。どぶろくかもしれない。何にしてもその場ですぐに「こんにちはー」とその家に入って、それをじかに見せてもらいたい、と思った。
外から見れば、それは誰のものか、何に使うものかもわからない、生活に染まりきった物々。そこに住む家族にしか分からないルールが宿り、想いが染み込み、時には誰かの怨念で内側から腐り始めている物々。
私が見たいのは、座敷わらしのようにその家を守っている、そういう物々であるような気がする。他人の家の、精霊のようなそんな物々を見ているとなぜか心が安らぐ。もしかしたら本当に精霊なのかもしれない。
わが家は築13年の一軒家で、海の見える小高い山の上の住宅地にある。白い箱をイメージして建築事務所に建ててもらったもので、外壁などは薄汚れてはきたものの、「お洒落」と褒められることもたまにはある。
箱の中は、かしましい三姉妹のおもちゃや身の回りのもので埋め尽くされ、丸めたティッシュや、トイレットペーパーの芯、貝がら、三姉妹の誰かが集めた、折れた鉛筆の芯等々を、一日に十数回拾って捨てるのが私の日課だ。
家を建てたときには、レゴやボーネルンドのお洒落なおもちゃしか置かないんだと息巻いていたのに、数ヶ月のうちにアンパンマンやらプリキュアやらの軍団に城を明け渡すことになった。
鼻炎がちな一家なので洗濯物は基本的に部屋干しだし、壁に貼った子供の絵は5年前から替えてない。散らかしたまま出かけて帰宅した時などは、思わずため息が出るほどの生活感に溢れている。
この家も一歩外から眺めれば、どんな人が住んでるんだろう?どんな風に暮らしてるの?と誰かに興味を持たれるような、素敵な生活感に溢れて見えるのだろうか?
一度でいいからよその人になって、電車の窓からこの家を眺めてみたい。水道の検針員になって、白い壁の外からわが家を眺めてみたい。
そうすればこの家に住む私たちが、言いようのない確かな何かに守られていて、これ以上なく幸せで、自信を持って未来へ進んでいるように感じられるから。
やっと子供たちが寝静まった深夜。
小学生の頃からの趣味、新聞折り込みの不動産屋のチラシに眺め入る至福の時間が始まる。
中古物件の間取り図をじっくりと堪能し、かつてそこに住んでいた人々と、これからそこに住むであろう人々の生活に思いをはせる。
もしかしたら白い箱ではなくそこに住むことになっていたかもしれない、私たち一家の別の物語にも、たっぷりと思いを致す。
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