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[小説 祭りのあと(1)]四月のこと~黒い石と時計技師の恋~
裏口を出た途端、僕は強い風に襲われた。
すぐ近くの公園からは桜の花びらが一斉に舞い飛び、アスファルトが一瞬薄紅に色付いた。正面からはゴミ収集車の音。海側を見上げると、工業地域の上空は、早くも雲とも煙とも見分けがつかない灰色に覆われていた。市役所通りに繋がるこの道の向こうには、闊歩するビジネスマン。
もう少しで、宇部金座商店街が今日も目覚める。
朝の玉子焼きで胸焼けがする。甘過ぎたのだ。料理の得意な母だが、玉子焼きだけは好みが合わない。
朝から爽やかとはとても言えない気分の僕は、少し手間取りながらも自転車の鍵を開けて表口へ走り出した。
「おはよう。今日は早いのう、恭ちゃん」
朝の九時三十分過ぎ。店先を箒で掃く大崎の爺さんが僕に声を掛けた。
「今から自動車学校いきよるんです。生徒が来る前に何とかしーさいやって、急にですわ。大型ビジョンを」
「それはよー精が出ぇことだ。忘れ物はないかの?」
用具鞄は確かに持った。だが何か忘れているような……布切れだ。修理で付いた指紋などの汚れを取る布切れを、また入れ忘れた。
「ほれ。いつも何か忘れちょって、後で慌てーろうに」
「すんません大崎さん。助かーました。また後で」
跨ったままで自転車を百八十度回し、僕は実家の電器店までペダルを懸命に漕いだ。
大崎さんの笑い声が背後から聞こえた。
ゴミ収集車はもう走り去った。朝の十時から開店する商店街はとても静かで、自転車の錆びたチェーンの音が甲高く響き渡る。
当然のようにシャッターが閉まっている岸時計店の前を通り過ぎると、見慣れない女性がそこには立っていた。
その顔を見たいとも思ったが、そんな時間はないと全速力で走り抜けた。
小さな花柄の、この街には不釣り合いの上品なワンピースと、まるで高級な金属製品の如く見るものをうっとりとさせる曲線美が、僕の頭に確かに記憶された。
生徒を少し待たせてしまったが、五分遅れでなんとか修理が完了した。まだ早春で良かった。真夏でこんなに慌てたら、止まらぬ汗で工具を落として液晶画面を壊しかねない。
まだ肌寒い風が吹く土手を、サボりたい僕は倒れない程度にのろのろ走っていた。
新学期が始まったばかりのこんな時間に、土手道を歩く人などそうはいない。犬の散歩に付き合わされているどこかの旦那さんか、ウォーキングに勤しむ奥様くらいだ。
ところがそのどちらでもない老紳士が、向こうから悠然と歩いてくるではないか。
ステッキを持ったその人は、まだ数十メートルは離れている僕を見て立ち止まった。
もちろん無視して通り過ぎることも、軽く会釈して終わることも可能だった。
そのどちらも僕は選ばず、ゆっくりとブレーキを掛けて彼の目の前に停まった。
「どうされましたか?具合でもお悪いんですか?」
特に苦しそうな素振りはなかったが、社交辞令的に僕は聞いた。他に尋ねようがなかったから。
「いや、大丈夫ですよ。それよりあなたは不思議な力を信じる方ですか?」
来た。怪しいタイプの声掛けだ。宗教の勧誘だろうか。唐突過ぎる展開。
しかしどう見ても、この紳士にそのような胡散臭さは微塵も感じない。ただ単に、この土手に似つかわしくないだけだ。僕は素直に答えた。
「信じる、信じないのどちらかと言えば……見たことも感じたこともないだけで、そういうものはあってもいいと思います」
どっちつかずの僕らしい曖昧な返事。本当の思いだから仕方がない。
それでも彼は穏やかに僕を見て微笑んだ。
彼は茶色のスーツの右ポケットから、小さな石を取り出して僕の前に差し出した。
直径三センチくらいの、ゴツゴツと角張ったその黒い石は、目の前の川縁にでも転がっていそうなものだった。
「突然ですが、あなたは選ばれし人です。この石を持つように、選ばれたのです」
一体何だこの人は。またもや唐突に。いよいよ怪しげな空気が漂ってきた。
「いや……僕はいいです。そういうのには、興味ないですから」
気味悪い感情そのままの薄ら笑いで、僕は受け取るのを拒否した。
しかし彼は動揺一つしなかった。
「あなたが怪しむのも無理はないです。普通のことではないですからね。しかしこれは事実です。この石は特別な力を持っています。あなたをお見かけした瞬間に、石は突然熱を帯びました。あなたが持たなければいけないと、呼んだのです」
余りにも真剣に答えてくるので、僕は少し面白く思えた。
「それって、タダですか?」
そうは言っても、またもや頓珍漢なことを口走ってしまった。だが普通の庶民である僕にとっては、重要なことだ。
「ええ、もちろん。これはもう、あなたのものですから」
相変わらずの真顔でそう言って、白髪の老紳士は黒い石を僕の右手にそっと置き、両手でその手のひらを温かく包み込んだ。
「持ち主が決まって、私は安心しました。どうぞ大切にしてやってください」
「いや、あの……これをどうすればいいんですか?」
困り果てた僕の言葉を見事に受け流し、老紳士は再び穏やかに微笑んだだけで、ゆっくりと歩き去ってしまった。
どうしたものか。意味不明だ。選ばれたってどういうことだ。
僕は一体この石をどうすればいいのだ。
もちろん川に向かって投げ捨てることもできたけれど、僕はそうしなかった。
特に理由はなかった。もしかしたら、紳士の言うことが本当かも知れないという妙な期待感があったのは、認めよう。
商店街に戻ってくると、時計店の外まで店主の岸さんが例の女性を見送っているのが見えた。洋服や体つきだけでなく、容姿も大変美しい人だった。
「どちらさんですか?」
「ああ。お客さんですよ。時計の修理を依頼さーたんですわ」
明らかにいつもの対応とは違っていた。作業台の奥で挨拶するだけの岸さんが外まで見送るとは。
その目は確かに職人の目ではなく、女性を見る男の目だった。
「どうなされました?何か違ぁですよ、いつもと」
「へぇ?やーやー、そねーこと……」
この気のない返事。僕の質問に、彼は間違いなく照れていた。
これは面白くなりそうだ。早速陽治に知らせよう。
「何じゃと?岸さんが惚れとーじゃと?」
ショーケースの向こうで陽治が大声で答えた。
「しっ。声がでかいっちゃ」
「こーはえらい事件じゃ。あの岸さんがじゃろ。いよいよかぁ……いや、あの人は無理だで、うん」
「決めつけーなや。でも、何もせんなら駄目じゃろうなぁ」
岸さんは、仕事の腕は確かだが恋愛沙汰はさっぱりだ。独身の僕が言うのも何だが、奥手過ぎる。
高校を出て東京の大手時計メーカーで修業し、家業の時計屋を継いだ。東京に出た五年ちょっとの間も、生真面目に仕事だけに没頭してしまった。それだけ好きなことだったのだろうが、本当に時計のことぐらいしかまともに知らないのが、岸さんだ。
この僕だって、実家に戻るまでには何度かお付き合いはしたことがあるのに…おいおい、何の自慢をしている。
「しもやん。得意のあれ、使わんか?」
「えっ?何すりゃあえーんさ」
二人は考え込んだ。
そう。僕は自称発明家。ただし、役に立った試しなど殆どない。
小さな頃に見た、あの丸い頭のネコ型ロボットに僕は憧れた。ポケットから秘密道具は出せないが、作ることはできる筈だと小さな頃から工作に没頭した。
工業大学にまで入って、ソーラーカーからロボット工学まで様々な製作に携わってきた。手先は器用なほうで、あらゆる素材も電機系も取り扱える。
だったら何故役に立たないのかって?
失敗のし通しなのは、単純に僕のポイントがずれているからだ。自分がこうだと信じた狙いが、本来の目的からズレている。ニーズを取り違えてしまうのだ。
その間違いを的確に指摘してくれるのが、この浅田精肉店の若き主、陽治なのである。
文系なのに数学が得意で、僕よりずっと勉強ができた。百八十センチを超える恵まれた体格で、運動も万能だった。こんな地方の商店街でこじんまりと生きるなんて勿体ないタイプ。だが陽治は高校卒業後、あっさりと家業を継いだ。
国公立大学だって普通に入れたのに。奨学金だって推薦入学だってできた筈なのに。
「ウチ、貧乏だから」と言っていたが、違う。
ゆくゆくは精肉店を継ぐつもりならば、学歴など何の役にも立たないと、早々に見切りをつけたのだ。
それだけではない。育ててくれたこの街を捨てることなど、一切考えていなかった。
そういう決断は、本当に頭がいいからできることなのだ。少し恰幅が良くなってきたのは、多分惣菜の試食のし過ぎだ。
「ほら旦那さん、仕事しなさんせ。恭くんもじゃろ。話は仕事が終わってしんさい」
幸が窘めた。彼女もまた、僕の適切なアドバイザーだ。
幸の第一印象は最悪だった。
中学の入学式の日。勢い余って自転車で僕にぶつかりそうになった彼女は、「見えてたなら避けてよ」と平然と宣って去っていった。教室に入って同じ顔に遭遇した瞬間は、本当に嫌だった。
だが徐々に、悪気など一切ない「元気な人」なのだと分かってきた。
何にでも好奇心旺盛で、壁など作らず誰とでも付き合い、楽しむことを忘れない。こんな嫌みのない人間を、誰が嫌うだろうか。
広島の大学を卒業し地元の信用金庫で三年ちょっと勤めていたが、陽治のプロポーズを受けると、仕事をスパッと辞めて一緒になった。
彼女もまた、学歴やキャリアに拘りがない。幸せになれる方向へと直感で邁進する。羨ましいがなかなかできないことを、いとも簡単にやってのけるのだ。
「じゃあ後で寄るわ」
「母さんにも一言言って来んさいよ。すぐ怒らいけーねー」
そうだった。母には頭が上がらない。
怒ると言っても、口うるさくはない。ボソッと呟く一言が、鈍感な僕でさえもズドンと打ちのめす。
そう、さるかに合戦で言えば僕は猿で、母は僕を押し潰す臼なのだ。僕にとっては生き甲斐であっても、金にならない発明に対しては、何やってんのと冷めた目で見られるのだ。
「何処行くっちゃ。また浅田君の家?」
夕飯が終わってすぐにリュックを背負うものだから、僕も分かりやすい人間だ。
「先に寝とっていいで。じゃ」
母の呆れ顔と父の笑い声を背にして、僕は裏口から出た。公園から花びらの残りがひらりと舞う中、僕は薄明るい街灯に照らされながら早足で向かった。
「私もその人、見た。ここら辺じゃ絶対に見んような、綺麗な人じゃった」
「でも岸さんから聞き出すんは、難しいでー」
「お客さんのこと、口外できんだろ」
「ちゅうても、岸さんそこまで聞く人?」
男二人は素直に頷いた。
「男から言わんと、そういうことは。女はそういう所に魅かれるけぇ」
またもや男二人は納得した。女心はどう逆立ちしたって僕らに分かる筈がない。
「じゃあ、岸さんから仕掛けんといけんなぁ」
「彼女に何か渡すとか…盗聴器忍ばす?」
「それ、犯罪違うの?」
夜警のサイレンが高く鳴り響く。幸の言葉と同時に僕を戒めるように。
「じゃあ、カメラは?」
結構ギリギリな線を提案した。それでも二人はそれがいいと賛成した。
二日後。僕は置時計に小さなカメラを仕掛けた。本体の下を厚底にして、そこにカメラを忍ばせた。作り終えるとすぐに僕は岸時計店に向かった。
岸さんは僕の提案に驚いた。何故その事情が分かったのか不思議そうだった。いや、あの表情を見て分からないほうがおかしい。
その時、あの女性がお店に現れた。岸さんは慌てて、障子の陰に置時計を隠した。
「いらっしゃいませ、宇美さん。まだ修理は終わっとらんのですよ」
「いいえ。急ぎませんから大丈夫ですよ。一応どれくらい進んだのかと思いまして」
岸さんの作業机の上には、男物の腕時計があった。
これはおかしい。岸さんの腕なら二日程度で修理が終わる。いくらなんでも近隣で評判のこの店が、数週間や何ヶ月待たせるなんてことはない。
もしかして、意図的に遅らせたのか?そうやって彼女に何度も会えるようにしたのか?
それは奥手な岸さんの、精一杯の感情表現なのだろう。
「そうそう。時計がないと困るでしょう。代わりという訳じゃないですが、これ」
僕の渡した置時計を、岸さんは宇美さんに差し出した。岸さんの耳がみるみるうちに赤くなってきた。
「ふふっ」
宇美さんが少し微笑んだ。
「えっ。どうしました?」
「いえ。何を頂けるのかと、ドキドキしちゃいました」
顔まで真っ赤の岸さんは、初恋の人を前にした少年のように、うぶで可愛いかった。
「有り難くお借りいたしますね」
宇美さんは快く置時計を受け取った。時計店で置時計。我ながら間違いはなかったと安心した。
カメラは僕の部屋で遠隔録画されている。明日の閉店後に、岸さんのお店で一度内容を確認しようと岸さんと約束した。楽天的な僕は、上手くいけばいいなと心躍った。
しかし結果はすぐに分かった。岸さんの想いは届ける前に散り去った。
「これ、病室じゃないん?」
僕ら三人と岸さんは、作業台の上の画像に見入った。
そこには身体に包帯を巻かれた男性が横たわっていた。ちらりちらりと宇美さんの甲斐甲斐しい看護姿が見えた。一応音も拾えるようにしておいたのだが、かすかに聞こえるだけだ。四人は耳をそばだてて、その小さな音を懸命に拾った。
「あなた、って言うとりません?」
そう。ベッドの男性は宇美さんの旦那さんだったのだ。
「岸さん。時計の故障、何が原因なんですか?」
「よくは分からんのじゃけど、強い衝撃で部品が幾つも外れとったんよ。見た目は大丈夫なんじゃけどね」
「原因は聞いとらんのですか?」
「ああ。そこまでとても聞けんでね……」
詮索しないのも岸さんらしい。彼は明らかに肩を落としていた。仕方がないと諦めているようだった。
画像から流れる雑音がどうも邪魔に思えて、僕はすぐにビデオを止めた。
その夜から岸さんは修理に没頭した。時間を延ばすことなど、一切考えていなかった。愛する人の大切な時計ならば、すぐにでも。実直な職人の彼に戻るのは、早かった。
「えっ?もう直ったんですか?」
時間が掛かると伝えていたので、宇美さんが訪れたのは三日後だった。実はビデオを見た翌日の昼にはもう修理が終わっていた。
「外見は綺麗ですが、中の部品がたくさん外れとりました。失礼ですがこれはどうしよったんですか?それにこれ、男物ですよね」
宇美さんが憂いを帯びた表情を浮かべた。この表情も罪作りなほど美しかった。
「ええ、夫のものです。車で大事故をしたんですよ。大型トラックに前後から押し潰されたんですが、奇跡的に助かったんです」
二週間前にその記事はニュースで一分くらい流れた。新聞にも小さく載っていた。
「旦那さまは大丈夫ですか?」
「お陰さまで。大怪我はしましたが、内臓や脳には影響がないそうで、とっても元気なんです。痛い痛いって、うるさいんですよ」
そう言って宇美さんは笑った。心からの笑顔をされては何も敵わない。岸さんもまた心から安心して笑った。
「あっ。それなら時計をお返ししないと」
「別に後でいいですよ。退院ついでに旦那さまとおいでください」
お礼の後にお会計を済ませて、宇美さんは新品の箱に入った腕時計を籐のトートバッグに大事にしまった。
岸さんはまた彼女を店の外まで見送った。いつもの穏やかな眼差しだったが、やはりどこか寂しそうだった。
アーケードの屋根に轟音が鳴り響く。古い屋根は大粒の雨に突き破られそうだ。梅雨入りから一週間。宇美さん夫婦はそんな日に置時計を持って、岸時計店を訪れた。
「本当にありがとうございました。この時計、父親から譲り受けたものなんです」
「とても大切に使われとうのがよぅ分かりましたよ。オーバーホールもやりますからまたおいでください」
「あぁ。私たち、実は熊本の人間なんです。出張中の事故だったもので」
「そうですか……また機会がありましたら、お寄りくださいね」
その日もまた、岸さんは店先まで二人を見送った。理想的な夫婦の後ろ姿を、岸さんは二人が角を曲がるまで見つめていた。
「岸さん、お疲れさまです!」
「ああ恭介くん、えろうずぶ濡れじゃあないか。どこかの帰りかい」
「小学校で修理しとうたんですけど、合羽忘れよったんですよ」
「ははっ。相変わらずじゃの。早う着替えんさい」
そう言って岸さんはいつもの穏やかな笑顔で僕を気遣った。その表情には寂しさなど微塵もなかった。それが切なかった。
「おい。電話じゃ」
岸さんのお父さんの声が響いた。軽く会釈して彼は店の中に帰っていった。
彼の幸せはいつやってくるのだろう。
いや、今でも彼は自分なりの幸せを紡いでいるのかも知れない。誰かの時計を昔に戻すことで、その人の思い出を取り戻すことの嬉しさで。
僕も店に急いで戻った。雨が止んだ。僕が戻ってすぐのことだ。少し恨めしかったが、まあいいかと今日は思えた。