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[小説 祭りのあと(3)]七月のこと~思い出のアドバルーン~

 「ほんに何じゃい、この倉庫は」
 僕が実家に帰ってきてから一度も入ったことのなかった倉庫は、埃まみれだった。
 古くからのお客さんに預かってくれと頼まれていたズボンプレッサーを、僕は探していた。何でも息子さんの再就職が決まったとのことで、必要になり引き取りに来たのだ。
 「ったく。何処に何があるんか、さっぱり分からんじゃ……ゲホッ!」
 咳き込みながらもとにかく探す。眼鏡は伊達なので目に埃が直接入って涙ぐむ。梅雨の晴れ間は暑過ぎて、Tシャツやワイシャツどころか、羽織った作業着まで汗だくになる。埃塗れの灰色の汗を額から流しながら、ようやく僕はそれを見つけた。

 ドスッ。

 壁に立て掛けてあったズボンプレッサーに乗りかかっていた何かが、棚から落ちた。

 「これ……」

 二十五年前の思い出が蘇った。父と一緒に大空に揚げたアドバルーン。
 埃を拭うと、煤けて変色しているように見えた。
 幟の左下にある破れた痕まで、あの頃のまま。
 僕の身体に刻まれた、苦い記憶がギリッと疼いた。


 約三十年前に、宇部市にも郊外に大型ショッピングモールがオープンした。
 ご多分に漏れず、我が金座商店街も大打撃を受けた。最盛期で四十八軒あった店舗も、経営不振と後継者問題で徐々に減っていった。つい五年前には遂に二十二軒になり、文字通りのシャッター街と化してしまった。
 そこで立ち上がったのが、老舗の醤油店当主である大崎さんだった。彼を筆頭に商店街を挙げて復活作戦を決行した。そのお陰で現在は、チャレンジ店舗を含めて二十九店舗にまでなった。どの店もぎりぎりの線でなんとか続けていることに変わりはないのだが。

 そしてこのアドバルーン。
 父が二十五年前に電器店の起死回生を狙って、夏の感謝セールと銘打って空に放ったものだ。

 簡単に蹴破れそうなアーケードに繋がる屋上へ恐る恐る上り、六歳の僕は父と一緒にそれを持ち上げた。
 ヘリウムガスをたっぷりと入れて、二人は同時に手を放した。
 フワッと宙に浮いた。曇り空の白と合わさって、鮮やかな赤と青がトリコロールとなり僕の眼に眩しく映った。

 しかしその三分後。突風を受けてアドバルーンは空中で暴れ始めた。
 必死でそれを抑えようとする僕を、父は危ないと何度も引き剥がそうとした。
 風を甘く見てはいけないと僕は初めて知ったが、もう遅かった。
 掴んだ幟に煽られて、僕は半透明色したアーケードの屋根に放り投げられた。

 気付くと僕は病院のベッドの上にいた。右足首と骨盤の骨折に、腹部の裂傷だった。
 今でも電器店の上の屋根には、僕が割った箇所の修理跡が残っている。破れた幟は、僕が掴んでちぎったものだ。

 「父さん、これ」
 名古屋場所が結びの一番を迎えた夕飯前。僕はそこそこに埃を払ったアドバルーンの塊を両手に抱えて、父の目の前に差し出した。父はそれを見た途端に、苦虫を噛み潰した表情になった。
 「どうしたん。そんなもん見つけてどうするんよ」

 捨てると言うとでも思ったのだろう。しかし僕は真逆の提案をした。

 「今度、これを揚げよう思うんよ」

 「止めとけ」

 それだけ言って、父はテレビに目を遣った。
 それも当然だ。自分の息子に大怪我を負わせた物に、いい顔をする筈がない。
 「今度大謝恩セールをするから、その時に揚げる。父さんは何もせんでいい。浅田くんに手伝ってもらうけぇ」
 父は無言を貫いた。母も夕餉の支度を、いつもと変わらず続けた。

 決心は変わらない。苦い経験は自分自身で乗り越える。
 父譲りの頑固なところを、二人は知っている。これ以上止めても無理だと思い、平静を装ったのだろう。

 「おいおい。今時アドバルーンってないじゃろー。第一、フレーズが古臭くなっちょらんか?」
 「大丈夫。確かそこまで時代遅れな言葉じゃーなー筈よ」
 ショーケースを挟んでの立ち話では、僕の考えに陽治は否定的だった。

 「そういうの、役所に届け出要るんじゃなーの?」
 「後輩の押尾に聞いてみたら、申請自体は簡単じゃと」
 市役所には高校の陸上部で後輩だった押尾がいて、度々相談に乗ってくれる。今回も電話で連絡してみたら、数年前に担当だったらしく詳しく教えてくれた。
 航空機の飛行位置よりも低いので、問題はないとのことだった。

 「あら、かおるちゃんいらっしゃい」
 「こんにちは!あれっ、電器屋のお兄さんじゃないですか!何話していたんですか?」
 大学生のかおるが僕に声を掛けてきた。喫茶店でのアルバイトへ行く途中、売り切れる前に夕飯用の野菜コロッケを買いにきたのだった。

 そうだ。彼女にも話をしてみよう。
 そして予想通り、彼女はこの話に乗った。
 「アドバルーンって見たことないから、凄く興味あります!明日の夕方は、バイトじゃないから大丈夫です!」
 明日、僕とかおるとで汚れたアドバルーンを広げて洗うことにした。
 陽治はまだ乗り気ではなかった。

 そろそろ梅雨も明けそうなくらいに、この日は快晴だった。
 暑過ぎる。水に濡れてもいいように着替えた半ズボンとTシャツが、既に汗でベトベトに濡れている。両腕に抱えたアドバルーンの汚れが、腕に引っ付いて気持ちが悪い。

 店の裏手にある路地にそいつを放り投げると、アスファルトに積もった黄砂とアドバルーンの埃が同時に舞い上がった。
 僕が何度も咳き込んでいると、かおるが紺のジャージ姿でやってきた。

 「何かそれ、サイズ小さくない?」
 「バレました?高校の時のジャージなんです。無駄にお金使えないもので」

 医大生はお金持ちだけだと誰もが思っているようだが、彼女のように普通の家庭から進学する子もいるのだ。
 しかし国立とはいえ、学費に実習費、専門書の費用など、医学部にかかるお金はバカにならない。勉強時間さえ工面するのも大変なのに、彼女は書籍代の足しにと、アルバイトまでやっているのだ。
 そして落ち込んだり疲れていたりする彼女の姿を、僕は見たことがない。何処までバイタリティのある女性なのかと、感心する。

 「さて、早速始めっか」
 二人は畳んだままのアドバルーンを丁寧に広げた。経年劣化が進んでいて、幟の所々にほつれがあり、バルーンのゴムもくっ付いて広げにくくなっている。
 それでもこれを揚げなければ意味がない。
 丁寧に、ゆっくりと。そう唱えながら僕らは無事、アドバルーンを広げ終えた。

 「これ、いいんですか?」
 「ホントだ……」

 『夏の感謝祭じゃあ、あ~りませんか!』

 あれれれ。あの父がこんな流行りに乗っていたなんて。どうしようかな。
 まあいい。今日は綺麗に洗うことが目的なのだから。蛇口に繋いだゴムホースをかおるに持ってもらって、僕は栓を捻った。

 「凄い凄い!こんなに綺麗な色をしてたんだ!」
 本当だ。くすんでいた筈の幟に、鮮やかな赤・白・青のトリコロールカラーがみるみるうちに蘇ってきた。
 倉庫に隠し続けて二十五年止まっていた時が、一気に現代へと針を進め出した。右ポケットの石が、ほんのりと温かくなった気がした。

 「おぅ。やっとーなぁ」

 陽治が背後から現れた。思いがけぬ感動に浸っていた僕はびくっとした。
 「お店はどうしたんよ」
 「惣菜が売り切れたけぇ。幸と母ちゃんに後は頼んで、見に来たわ」
 「冷やかしかい」

 三人は裏返しにして、もう一度水を掛け直した。確かに劣化はしているが、一度くらいは問題なく宙に浮かべることはできそうだ。

 「しもやん。大丈夫か?」
 「えっ、何が?」
 「忘れてなーろーな、怪我のこと」

 「ああ。もちろん忘れー筈がなかろう。今でも傷が疼くからのー」
 右脇腹の傷跡を見る度、馬鹿なことをしたと悔やむ。

 「でもな、悪いことばっか思い出した訳じゃなーよ。フワッと浮かんだ時の感動も、忘れられん…その記憶をこのまま、嫌な思いで塗り潰しておきたくないんよ」

 「全部分かってやろうとしとるんか?」

 そうだ。僕自身の手で敵を討つ。自分のためでもあり、それだけじゃない。

 「ごめん。乗り越えんと、次に進めん」

 腕組みをして陽治は考え込んだ。

 僕が大怪我をした時、咄嗟に僕を背負ってくれたのは、一緒に屋根の上にいた幼稚園からの親友である陽治だった。
 意識を失った僕とプランプランと垂れ下がる足首、そして背負った際にTシャツに付いた大量の赤い血は、図らずも幼い陽治の心にまで傷を負わせてしまった。

 「怖くはなーんか?」
 僕は頷いた。自分に納得させるように。
 「弱い自分を乗り越えーのは、結局自分自身ちゅうことか」
 「そう」

 陽治は困った表情で首を左右に揺らし、瞬きを何度かしてから僕に向かって言った。

 「分かった分かった。俺がお前を支えちゃる。当日一緒に、屋上に上るわ」

 素直に嬉しかった。実は正直心細かったのだ。
 でも、そんな僕の思いを一番理解してくれる陽治が、後ろについてくれると言ったのだ。
 僕は黙ってまた頷いた。にやけて何度も何度も首を縦に振った。

 「さぁて。そうすーと、このフレーズはどうすーかい」
 皮肉っぽく笑う陽治の言葉で、すっかり忘れていた恥ずかしいことを思い出した。

 お金をかけて直そうか、このままにしようか……


 夏の謝恩祭当日になった。父の代の末期に大型家電店との提携を始めたので、そこらの街の電器店よりも格安で販売ができるのは本当に助かった。もちろんこの日限りの特価品も数量限定で準備した。

 そして肝心のアドバルーンだが、僕はこのまま揚げることに決めた。
 一文字も直さず、破れた所もそのままにして、空に向かって敵を討つのだ。

 風はないのだが、困ったことに雨模様だ。
 僕の家の屋上は少し斜めになっている。水はけを良くするためだ。
 商店街の他の店舗は殆どが平坦なので、ウチもそのようにできていれば問題なかったのだが、今更どうしようもない。

 大雨ではないが、霧雨で余計に足下が滑りやすくなっている。
 何しろ事故のトラウマが僕にはある。誰もが慎重になってしまう。いくら僕が強がってもだ。
 かおるだけでなく、父も母も、さすがに心配だと二階までやってきた。

 僕は階段を上り、陽治の手から折り畳んだアドバルーンとヘリウムガスのボンベを受け取って天井に置き、二人も登り始めた。
 階段の途中で陽治は、階下の父母に向かって「大丈夫」と合図した。

 伊達眼鏡だから霧雨で煙ることはない。しかし目元が濡れることには変わりがない。視界も悪いし、やはり足下がおぼつかない。
 裸足になった僕は四つん這いになって、前へ前へと進んだ。陽治はアドバルーンを少しずつ前へとずらしながら進んできた。

 一瞬僕の身体が下にずり落ちた。左足が滑ったのだ。

 「おい!大丈夫か!?」
 「お、オーケー……やっぱり怖いっちゃあ怖いのー、これ」
 「今更止めるとかぁ、言わせんぞ」
 「もちろん」

 僕の意志を陽治は再確認した。少しずつ雨は強くなっている。同時に作業着の胸ポケットの石もまた、熱を帯びていた。
 こんなことで諦めるなんて、絶対にしない。

 屋上の吹き抜け部分に、僕たちはようやく到着した。
 ここなら平面になっていて、多少濡れていても転ぶことはない。
 僕はバルーンにヘリウムを入れ始めた。ところがこれが上手く入らない。試しに膨らませるのを忘れていたのだ。自転車の空気入れと同じ原理な筈なのだけれど、ゴムが経年劣化で硬くなっていて、膨らんでくれない。

 「もう。こうすーしかないじゃろう」

 陽治はバルーンをあちこち引っ張って、ゴムを柔らかくしようとした。僕も同じように試みた。そしてヘリウムをもう一度入れてみた。少し膨らんだが、ガスの勢いでバルブからバルーンが飛んでいってしまう。

 ドスッ。

 物音に振り返ると、そこには父がほふく前進でゆっくりと、こちらにやって来るではないか。脳梗塞の後遺症で右半身が動かないのに、無茶なことをする。

 「父さん!いいけー。大丈夫じゃ!」
 「そねーにグズグズしょーたら、開店に間に合わんじゃろ!」

 僕は父の方にゆっくりと近寄った。僕は急いで引き返した。
 そんな僕らをあざ笑うかのように、雨はどんどん強くなってきた。

 僕はようやく父の脚のほうまで辿り着き、父が前に進みやすくするように、後ろから慎重に押した。
 ずぶ濡れでもう、何分くらい経ったのか分からなくなっていた。そしてなんとか、父も僕も吹き抜けに到着した。

 そこからはとても早かった。父はバルーンの扱いに慣れていた。二十五年間膨らませたことがなかったのに、いとも簡単にバルーンを膨らませるのだった。

 「飛ばんように、しっかり持っとくんよ」

 ヘリウムを入れ終わると、僕ら三人はバルーンを持った。もう手を放すのみとなった。僕らのリベンジは無事成功する筈だった。
 いや、成功はしたのだ。

 バッチャーン!

 バルーンが宙に舞った瞬間。幟の上に溜まった大量の雨水が、三人の身体を目がけて降りかかった。ただでさえびちゃびちゃなのに、もう濡れねずみだ。

 それでも僕は、空に浮かんだアドバルーンを見上げていた。
 雨にも負けずに揚がった幟は、雨で視界が悪くても十分に目立つトリコロールカラーだった。何よりも父と陽治とで揚げたことが、嬉しかった。

 そして胸ポケットの辺りの熱は、少しずつ冷めていった。

 あれ。これって雨だよな。何か目の辺りがザワザワしている。きっと雨が、目に入って沁みているだけだ。

 父が珍しく怒鳴った。
 「おい恭介。そねー所でボケッとしちょらんと、開店準備。早う早う!」
 「うん。父さん、陽ちゃん、ありがとう」
 僕は微笑む二人に片づけを任せて、慎重に出入口まで移動した。なんとか無事に戻ってきた。
 「はい、これ」
 母が頭からバスタオルを被せた。かおるは着替えを差し出してくれた。
 「あれ、パンツは?」
 「そねーもんまで濡らしたんかね!?」
 僕は着替えを受け取って、自分のデリカシーのなさに舌を出して半笑いしながら、隣の部屋へと小走りした。
 そう。下村電器店の大謝恩セールは、これから始まるのだ。


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