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花は招く

花の表現者ではなく代弁者としての橋本和弥 (寄稿)

橋本和弥という人がいる。
花を毎日撮り続けている。

花に魅せられる、という言葉がある。
使い古された、言い回しではある。
しかし、その言葉は橋本氏にあてはまるようで、
いささか足りていない。

今回の展示物は花に魅せられた人間が、
その魅力を単純に写真作品として
開陳しようという試み、ではないように思う。

植物は言葉を持たない。
けれど、植物は招いてくる。

植物が招くとは、どういうことか?

いささか言葉では、わかりにくいし、
体験した者でなければ腑に落ちる
表現でもないだろう。

紫式部をあしらったバナー作品を見た時のことだ

紫式部02

秋を感じさせる風流な枝ぶりに、
紫の小さい実がなる。
枝葉が地上の重力に沿って、
上から下へと弧を描く。

今にも風にそよいで揺れそうな、
その枝ぶりを人は心地よく眺める。
そこに、ふと宙空に色づく前の黄緑の実や、
紫に色づいた実が浮かぶ。
自然界には有りようのない光景だ。

先ほどの風流な枝ぶりの
紫式部の空間からすれば騒がしい。

騒がしいといえば、ノイジーである、
という言い方もできるが
この騒がしさはノイズではない。

これは…。

そう「招き」なのだと、
しばらく風流な枝ぶりのみの展示と
宙空に実が浮遊する展示とを、見比べて気付いた。
植物が招き、ささやきかけていることの騒がしさ。

紫式部が招いている。

植物に魅せられる、とは、その招きに
呼応した人の一種、興奮した状態といえる。

招きに呼応した人が、
その人の持てる能力や技量をもって
花を扱い始め、対峙し始める。

ある人は、育てることを通して、
ある人は、生けることを通して、
また、ある人は、撮ることを通して。

だが、往々にしてそこに現れるのは、
魅せられた人の解釈や作品であって、
魅せられる前の、招いた当事者である
植物や、花のささやきの、言葉ではない。
植物は言葉を持たない。

だからこそ、
色づき、花咲かせ、実をつけ、枯れ、朽ちていく、
その折々の姿のメタモルフォーゼ(変化・変身)の
時々でささやきかけ、招いてくる。
そのささやきに目を留め、招きにどう呼応するか。
それは、勿論、人それぞれではある。

橋本和弥は花に招かれた。

それに呼応するうち
彼は、日々招かれる、それら植物からの
素敵な招待状を、
多くの人に見てもらいたいと思い始めた。

招待に応じて、着飾って出かけることは
花をモチーフとした作品世界に
携わっているいるものたちが
日々、SNS などを通して実践している。
それよりも、彼は、招いてくる植物たちからの
招待状そのものを、その素敵な文面であり、
言葉であり、デザインを、
見てもらいたいと思ったのだろう。

言葉を持たない植物は、人をどう招くのか?

今回の展示は、植物からの招きを
感じ取った橋本が、感じたように花を描写した
作品世界である。
自然の中に、このように花が咲いているわけではない。
橋本が花を注視して見つめる。
すると、やがて花が橋本に対して迫ってくる。
その迫りを、花からの語りかけを、聞き漏らすまいと
描き写すことに努めただけなのだろう。

だから橋本和弥は表現者ではない、
花の代弁者、エージェントというべきである。

2019年8月1日〜5日開催の花の写真展に寄せて
(寄稿:エディター・表現技術批評 盛屋照也)

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