宮沢賢治『銀河鉄道の夜』考察 ー物語論
(この記事はがっつりネタバレをします!「銀河鉄道の夜」を読んでからの閲覧をお勧めします。)
宮沢賢治の名作『銀河鉄道の夜』は僕の大好きな童話だ。
童話と言えども子供にはちょっぴり難しい物語だ。ただ僕は子供の頃から、この作品のことは記憶していた。
【汽車が夜空(銀河)を走る】というロマンチックかつ非現実的な事象が子供心に刺さったからに違いない。
いじめられっ子の孤独な少年ジョバンニ。母親は病気で寝たきり。父親は漁に出かけたまま帰ってこない。「星祭」の夜、ジョバンニは母親のために牛乳をもとめに出かけ、町はずれまで行き、丘の上で夜空を見上げていると、夜空を駆ける汽車がやってきた。汽車に乗ると微妙な友達カムパネルラも乗っていた。銀河を駆ける旅のはじまりだ。
物語論【ナラトロジー】の視点から考察
物語の定義とは何か。一概には言えないが、「ことばのみで語られた時間的展開を含む出来事」だと、ひとまず定められる。
そもそも文学とは、「ことばのみで語られた芸術」を意味する。
確かに宮沢賢治の童話作品は、目を閉じて美しいものをイメージできる。宮沢賢治は童話という文学の媒体を使い、ことばで芸術≒自然と自己を表現したと思える。
物語の定型パターン《行って帰る》の物語。主人公は今いる場所から、何かをきっかけに境界線を越えて、あちら側の世界に足を踏み入れる。きっかけとは物語を次の展開へ移行するための【機能】と言われるもの。
(例:電話が鳴る→電話に出る→物語が展開していく。)
さらに言うと、物語に《時間》は存在しない。物語は論理的に連結された出来事の連続なので、本来、物語に時間は存在しない。しかし、場合によっては物語に時間という概念が存在するとも言える。これは正解、不正解の問題ではない。
物語のアイテム・牛乳
《行って帰る》について話を戻そう。主人公はあちら側の世界で、何かしらの経験や成長、お宝などのアイテムを手に入れたうえで、もとのこちら側の世界に帰る。
映画版の『銀河鉄道の夜』を見れば、分かりやすい。ジョバンニは銀河鉄道の旅を終えた後、真っ白な牛乳を手に入れて、自分の場所に帰る。《真っ白》な牛乳というのは、映像を見れば、視覚的情報として入ってくるが、この《真っ白な牛乳》を、ジョバンニが手にしたことは、彼が銀河を旅した証拠として、暗示されている。
冒頭、学校の授業のシーン。
「ではみなさんは、そういうふうに川だといわれたり、乳の流れたあとだといわれたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。」
この答は銀河。つまり牛乳が銀河をメタファーしているアイテムなのだ。
カムパネルラの死
銀河鉄道に乗ると、カムパネルラも乗っていた。カムパネルラは、なぜか水に濡れているようだ。これが何を暗示するのか?
銀河鉄道の旅は終盤となり、カムパネルラは途中下車をした。二人の別れだ。広い銀河の中へ、カムパネルラは消えていった。
そして、ジョバンニは目を覚ます。銀河鉄道の旅は、夢オチだったのだ。
町へ戻ると、カンパネルラが川におぼれたザネリの犠牲となって、川の中で、息を途絶えていた。ジョバンニの夢は現実と表裏一体、同一的だった。
カムパネルラは今もあの銀河の中にいる。川は宇宙そのものだ。水の世界は宇宙の世界へと、息の出来ない死者の行き場として繋がっているから。
そして自己の命を犠牲にしてまで、他者を救済する点に、宮沢賢治の倫理観が投影されている。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」(宮沢賢治 農民芸術概論 序章 より)
ジョバン二の切符
車掌さんが切符を拝見しに廻ってきたシーン、ジョバンニは切符なんか買っていないので内心焦る。
ジョバンニが自分のポケットに手を突っ込むと中に何か入っていた。銀河鉄道の切符だった。
どうしてか?
銀河鉄道は死者を乗せるものだが、それだけではない。銀河を旅する汽車は想像力が作り上げた幻想だ。子どもから大人になるにつれ、人は幻想から離れ、現実を見る。
子どもが持つ想像力。イメージ(幻想)を信じる心。それ自体が、この汽車に乗る権利(切符)だったのだ。しかしジョバンニ自身も、この銀河鉄道から降りることになる・・・。
子どもは一瞬で虚構の世界を創造する天才である。社会という拘束にしばられない自然交感能力も、子供が本来持つ才能だ。想像力を目覚めさせる児童文学とは、そんな子供たちの可能性の種になる。
いくつになっても僕は少年心を失いたくない。
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