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AIが統治する国に正義と最大幸福は訪れるのか【アニメ PSYCHO-PASS1期~劇場版】
5月に劇場版「PSYCHO-PASS PROVIDENCE」が公開されるということで、1期から3期を除く映画版まで振り返ってみた。
あらすじ
舞台は、人間のあらゆる心理状態や性格傾向の計測を可能とし、それを数値化する機能を持つ「シビュラシステム」(以下シビュラ)が導入された西暦2112年の日本。人々はこの値を通称「PSYCHO-PASS(サイコパス)」と呼び習わし、有害なストレスから解放された「理想的な人生」を送るため、その数値を指標として生きていた。
シビュラシステムの正体と本当の悪とは何か
舞台はシンギュラリティを迎えた後にもなる2100年代の日本。
シビュラシステムと言われるAIが職業から犯罪など全てを統治し、主人公となる公安の警官常森などもシビュラを使ってサイコパス係数を判定し犯罪者や潜在者を裁いていく。
1期ではそのシビュラシステムがサイコパス係数が最も高かった犯罪者の脳を集めて繋ぎ、悪人だったものたちが人間の幸福や善悪までも決めていたという話だった。
人間の善悪は公正とされる機械ではなく、その善悪の範疇より最も外側にいる極悪人が裁くことで公平な正義や最大の幸福を人間に与えられ、社会の秩序を構築するというのがシビュラシステムの結論であった。
そしてそんなシビュラシステムでも裁くことのできない免罪体質者と言われる槙島という悪人が現れる。
シビュラシステムでも裁けない人間なので悪人を悪とも認識できないシステムから外れてしまった人物。
ここで完璧に統治していたはずのシビュラシステムの不完全さと揺らぎについて問われることになってしまう。
シビュラシステムはそうした図りえない悪人をシステムの中に取り込んでいくことで常にアップデートしてきたが、槙島はそれも拒む。
人間の倫理からは遥かに逸脱した人物であるが国の法律であるシビュラシステムはそれを裁くことができない。
本当の悪人はシステムの穴から潜り抜けた最も外れた場所にいる。そして私たちはそれを認識できず無意識化で外しているといういまにも通じる社会システムの脆さに目の当たりする話であった。
シビュラシステムは作中でもパノプティコンとも例えられるようにシステムによって過度な自己監視能力も植え付けられている社会として機能しており、それをこの作品ではユートピアに見せた逆説的なディストピアな社会として描かれている。
何をしても魂が汚れにくい常森はシビュラから選ばれ数少ないシステムの正体を知り反逆的な感情を持ちつつも、
理性で社会の秩序保持のためある種「必要な悪」として受け入れる彼女の存在は、シビュラとしても来る社会に生きる在り方としても理想なのだと思える。
彼女は「法が人を守るのではなく、人が法を守る」と口にする言葉と同様に社会秩序のためシステムの善悪の基準は敢えて泳がせながら、
人間自身が社会を構築し幸福を探求できる力と未来も信じながら社会に生きようとする。
宛てのない槙島についての裁きも自らで捕まえ裁きを望んだが、狡噛個人の怨念により槙島を銃殺し終わった。
全22話によるアニメとしては非常に長く分厚い話であったがいつまでも記憶に残る素晴らしいシーズンだった。
2期では狡噛が行方をくらまして執行官の面々も変わり、霜月という部下もでき、上司となった常森は事件の意図引くカムイという男を追いかける。
カムイは幼少期に起きた飛行機事故によりその被害者の身体や臓器、脳などを繋ぎ合わせた複製された人間として生きていいたためにこちらはシビュラシステムに存在の認識もされない透明人間のような人物であった。
監視官の目も自分に移植した彼はドミネーターで監視官や執行官を裁くこともできるようになりシビュラの脅威となる人間としてシビュラの全能性の矛盾を突くことになる。
最終的にシビュラの大元までたどり着きシステム自体を裁こうと目論んでいたが、シビュラがカムイの存在を認めるとシステム自身が矛盾を直してアップデートして終わった。
序盤のサスペンス要素やシステムの矛盾を突く経緯としては面白かったが、結局シビュラがエラーを無視していただけでそれをただ受け入れたぐらいにしか見えなかった。
話数も違うので比べるのも酷だが槙島の話と比べると魅力的な悪人でもなかった。
映画版では3期にも続くシビュラの開国政策
あらすじ
人々の精神が数値化され、それをもとに社会システムが構築、管理されるようになった日本。ある時、武装した何者かが密入国を果たしテロ行為を画策する。刑事の常守朱は、事件の核心に迫るべく捜査に乗り出す。
映画版では槙島を銃殺して逃亡していた狡噛が内戦状況下にあるシーアンから日本に来たテロリストの指導者という情報が入り、常森は単独で捜査に訪れる。
シーアンでは紛争の中心部に日本から実験的に送られたシビュラシステムを導入していた。
狡噛は逃げた先にシーアンにたどり着き、シビュラシステムを導入して表向きは治安が回復してるように見せ実際は独裁状態であったシャンバラフロートの違和感に気づき、反政府軍の戦力顧問として率いていた。
結局シビュラは内政干渉してシーアンの議長に脳を移植し、憲兵団や常森はシャバランフロートのインフラが整うまでサイコパスも無視して利用されていたという話。
クーデターが悪化していたのもシビュラの導入によって民主主義が崩壊し人々を無理矢理統括させるべく独裁状態になっていたということだろう。
この辺の経緯も治安の違いなどはもちろんあるがAIが国を治めようとする過渡期としての人々の反応や政治のやり方としてありえなくはない話。
最後は常森が義肢化した議長に公正な民主主義をやり直すために辞任するように説きシビュラはそれを受け入れた。
最新作の映画は1期から3期までのキャラクターが全て集まるが、主人公は常森と狡噛になるのだろう。
個人的には1期から映画版1作目まで見れれば十分だとは思っている。
3期は映画版での開国政策の名残による話のようだが、1話を見た限りキャラクターがあまり魅力的でなかったりシビュラシステムの在り方が雑になっていて面白くなかった記憶。悪役としても槙島がやはり魅力的過ぎた。
シビュラシステムは最大多数による最大幸福が目的であり、そのために全世界に広げようとしている。
そこに人間の意志や感情はどこまで介在し認められているのか、また機械が社会を統治した場合人間の脳をどこまで理解し裁くことができるのかの問題に一つ打ち出されたのがこの作品であった。
システムの下に裁きは「死」で簡略化され、大多数を統治するためには個人の自由も管理下に置いておく。
現在の社会でも変わらない普遍的な要素もあるが常森のようにそれさえも善悪の狭間から逃がして泳がせつつ、人間たる選択を探求するあり方は捨ててはいけないとは思わされる。