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【ネタバレ考察】マキマさんの目的は国家側に立つ管理社会のメタファーか。鬼滅の刃から変わるデンジが下した「脱力愛」:チェンソーマン第1部完結
チェンソーマン原作では11巻で第1部として区切られ作者の毛色も感じられる非常に映画的な終わりとなったていた。
アニメまでを見た時の感想の時とは少し印象も変わるのでネタバレを含むマキマさんの話について書きたい。
国家側に立つマキマさんの正義とは何だったのか。
終盤のマキマとデンジの話を母性や毒親のメタファーとして考察している人が多かったので、
自分はもう少しマクロ的に観た日本の全体的な世相の風刺としても考えたい。
前提として共有したいのはチェンソーマンにおける「悪魔」は人間が認知する概念的なものの具現化であったことが分かる。
そしてその概念はヨハネの黙示録に準えられる四騎士の概念である。
「ヨハネの黙示録」は、新約聖書の一番最後の書です。 著者のヨハネが神に見せてもらった未来の光景を描いたとされるこの書には、戦乱や飢饉、大地震など、ありとあらゆる禍が書かれています。
マキマさんの悪魔においては「支配」であったことで、デンジやアキなど自分より弱い人間らを支配していたことのみならず、
国家に育てられ総理大臣と契約したことで世界の悪の概念事全てを消し人々の記憶と歴史を書き換えていたという作品全体の壮大な伏線回収として明かされていく。
当初の討伐目的でもあった銃の悪魔は実は既に消されていたが、マキマは国中の人間と悪魔の記憶をすり替えており、全ての経緯は彼女の支配下にあったというどんでん返しだったということになる。
マキマはデンジやアキの立場から置き換えると確かに歪んだ母性を示すあくにも見えるが、もう少し俯瞰でみると国家規模に値する存在でもあり現代風刺にも思う。
彼女はとにかくチェンソーマンを欲していた。ポチタは黙示録の話で言うとほぼ確実に地獄と現世を行き来する「神」でありあらゆる悪魔を地獄で殺し、現世では悪の概念を全て消せる力を持っていると明かされる。
マキマが国家規模の存在から神になりたかったかは置いておいて、チェンソーマンを欲したのはこの世界から黙示録における「死」「戦争」「飢餓」の終末の予言とされる「悪の概念」を世の中から消すことが彼女の大義として持っており契約して成し遂げたいのが大きな理由であった。
そもそもチェンソーマンの世界観では共通して悪魔が蔓延る社会不安の中、デンジの貧困を初め登場人物に未来に夢や希望を持っている人間もいなければ現時点で幸福感を持っている人間が全く出てこない。
そんな世界観の中でマキマは「悪の概念」を全て無にしてしまうことで、考えたくもない不幸の根源を人間に何も考えさせないようにさせることが世界の幸せに繋がるという彼女の下した結論ということである。
終盤にデンジがアキを殺してしまってから「マキマさんの犬になりたい」といった話があったが、あれは正にマキマの目的を具現化したものでもあった。
デンジはマキマの支配下にいることで「普通の幸せ」を味わい、「人生」としての恋愛、疑似家族、友情を知ってしまったのである。
そのすべてを終盤に失い人並みの深い不幸と絶望を味わされたことで彼は再びマキマの支配下にいることを望む。
社会不安の中で簡単に幸せを味わえるのは何も考えることをせずに誰かの管理下にいることであり行動原理の真理的な場面であった。
デンジは現代の若者の具現した存在でもあると言われるが、チェンソーマンの世界観と作品を通して反知性的な主人公像は現代の空気間と似たところは感じられる。
そしてこれを全体化してみるとマキマさんは世界をデンジやアキのように「何も考えない犬」にして制御しやすい平和な世の中をつくるという、現代のお上のやり方にも通ずる統治側の思想を描くメタファーだったともいえる。
この作品は70年代を舞台にしていると聞くが、丁度同じころに自由な教育を受け知性的な若者が増え血気盛んで危機感を感じた政府は、教育機関から大人が管理できる構造に全て変えてしまった過去がある。
結果的に教育費はどんどん高くなりデンジのようにまともな教育が受けられない人間も出る現在に至るが、統治側は考えない犬を作る歴史は国家規模でも存在する。
その中でデンジはどういう結論を出したか。
「精神分析の炭治朗」と「脱力愛のデンジ」
同じく数年前に国民的ブームとなった鬼滅の刃は精神分析構造の作品だったと言われる。
鬼は元人間であったが「鬼になってしまいたい」ぐらいの苦しい経験をして人々から恐れられる存在へと振り切ってしまう。
しかし鬼殺隊にやられ死ぬ間際にその経験を思い出して彼らに打ち明けることで、鬼だった状態から癒され安心して消滅していく。
炭治朗らはその支援者であり、程度の差はあれど人間が誰しも持ってしまう曖昧な悪の部分や病的な部分を、包括的な広い優しさの部分で許し癒していく存在。
鬼と鬼殺隊の構造を感染社会のメタファーとして見ていた人も多かったが、人々が強制的に分断されてから曖昧な部分を「曖昧なまま」では許されない世の中になってから炭治朗のような豊かな包容力を持つヒーロー像に私たちは感動していたのだとも思える。
そして現れたチェンソーマンのデンジは社会からも救済のない反知性的な若者を描いたリアルなヒーロー像。社会に希望がなく考えなければいけない不安が多いほど、何も考えないように普通の幸せを求め「破壊」に向かう現代の世相をついた主人公となる。
デンジに炭治郎のような豊かな優しさや愛情もなければ一般的な感性もあったわけでもない。ただ常に考えず脱力している。
悪魔も人間に通ずる概念でチェンソーマンがそれらを地獄で消滅させている。そこに鬼滅のような曖昧さを許す余地も一切なく、殺された彼らも恐れていた。
一部の終わりとなるマキマにおける支配の話もチェンソーマンを神格化し契約することでこの世の終末の根源を全て無にすることであり、
彼女の正義に癒しや支援者の概念もない。彼女自身も対等に接する人間も家族もなく恐怖で支配することでしか知らなかったから。
こういった主語の拡大をした大義で善悪だけで裁く傾向は現代の暴力性が増した社会の雰囲気とも構造が似ている。そこに共生という発想が既になくなっている。
ただデンジはアキやパワー、姫野と関わることで人間としての感性を少しずつ獲得していた。
最後のマキマとの会話で「マキマの世界にクソ映画は存在するか」と問う件は、彼なりに曖昧な悪さや病的なものに共生の感覚を持っていた決断だったと言える。
デンジはマキマを食事として食べて終わらせるが彼は暴力ではなく愛で終わらせたと話していたのも彼自身が獲得した人間としての感性があの脱力的な愛の形であった。
炭治郎のような豊かさも救いも無く無批判の管理と破壊行動から自らで感性をひたすらに獲得していく第一部だった。