違法ダウンロードを検討されている議員の先生方へ
お疲れさまです。いつもありがとうございます。違法ダウンロードの問題について、2点ほどご意見申し上げたく存じます。
・議論がまとまらない主原因は、議論の筋道が自由主義から外れているためと思われます。
文化庁の報告書などを見るにここまで、著作権を守るためにはどの種のダウンロードまで許容されるべきかという視点で検討されており、そのダウンロードの正当性を理由付けられるかどうかで判断しようとしているように見受けられます。そのため、ある種のダウンロードが十分に理由付けられず正当性に疑義があれば禁止してよいという流れになっているようです。
しかし自由主義には、ある行為が他者に危害を与える場合にのみ行為を禁止できるという基準があるはずです。包丁を商店で買う行為が殺人につながるとしても、購入を禁止すべきではないのは、包丁を買う正当性が示されるからではなく、包丁を買うこと自体が他者に危害を与えない、またその恐れが小さいからでしょう。
よってダウンロード禁止の是非を、ダウンロード行為が正当化できるかで判断するのは、自由主義の視点からは逆の議論であろうと思われます。そうでなく、ある種のダウンロードという行為そのものが、著作者の守られるべき利益を侵害すると示された時に限って、その行為が禁止されるべきで、そうでなければ自由主義の原則から禁止し得ないと考えるのが筋だろうと考えます。
殺人についてすら上記のように謙抑的なのに、著作権の議論になるとエスカレートしがちなのは、我々が著作権を守ろうと一所懸命になり過ぎているせいではないでしょうか。わが国の経済のためにも著作権が守られなければならないのは当然ですが、自由主義国としての矩を踰えるのではないかと危うく感じます。
何らかの行為が法益の侵害に「つながる」なら禁止してよいなら、およそ全ての行為を禁止する理由付けができるので、その国がいくら自由主義を標榜していてもその「自由」はお題目に過ぎないと思います。日本はそのような国でないと信じています。
・「ダウンロード権」はネット時代の人権だと思います。
表現の自由や学問の自由があっても、もし国民が紙を所有することが禁じられていたら、事実上、表現の自由などはないと言ってよいと思います。なぜなら、表現などの活動をするには、その前提となる知識が必要だからです。書物や、触れたことを書いておくメモは、国民が知識を得る手段、知識を持っておく手段で、そこに書かれた正しい知識や、それに基づく正確な引用などが、自由な活動の基礎になっています。
今後、完全なネット社会となり、紙がなくなったら、紙の時代における書物の入手やメモ書きもデジタル的なものだけになるでしょう。そこでもし、触れた情報を取得し保持することが許されなければ、それは紙の時代で紙の所有が許されないのと同様、表現の自由や学問の自由は事実上なくなってしまうと思います。
ここで求められているのは、「触れた情報を取得し保持する自由」です。この自由は、紙の時代には紙という媒体に対する所有権で守られていたのですが、デジタル時代になり、情報が媒体を離れてやり取りされるようになったため、所有権によって守られなくなってしまいました。
わが国の人権体系が一貫したものであるなら、表現の自由や学問の自由などの基礎として、「触れた情報を取得し保持する自由」が存在しなければならず、ネットにおいて「触れた情報を取得し保持する」とはダウンロードそのものですから、「ダウンロード権」は人権であると言えるのではないでしょうか。
そうであれば、著作権は財産権(経済的自由権)の一種ですから、精神的自由権に属するであろうダウンロード権を著作権を理由に制限することはできないのではないかと思われます。
なお、スクリーンショットではなく、画面をカメラで撮るなら構わないという議論もあるようですが、それだと電子署名の検証などはできず、また正確なデータが必要な学問でも役に立たないケースがあるはずです。その時どきの文化はその時どきの技術に基づくものですから、このような制限はその時点の文化の利用を妨げ、著作権法の目的であるはずの文化発展にそぐわないと思われます。
以上、ご一考頂ければ幸いです。よろしくお願いします。