Science Fictionで考える介護と法医学と資本主義の限界
今日は朝起きるとかねてより見返したいと思っていた映画「ロストケア」がアマプラの見放題にアップされているのに気づき視聴した。本作品は松山ケンイチさんと長澤まさみさんの好演技が見られる介護事業をめぐる正義とは何かを問いかけた問題作だ。
最初に言っておきたいのは、この作品を見るに当たってはSFとして見るのが良いのではないかということ。同じようなテーマの作品に倍賞千恵子さん主演の「PLAN75」とか宮沢りえさん主演の「月」も高齢者の介護を扱ったきわどいテーマの作品がある。答えを出すことは危険すぎるテーマなので、仮想の思考実験として見る事を意識した。なのでこの作品に対しての感想によって不快な気持ちになる方もいらっしゃるかもしれないが、SFとして想像めぐらした個人の見解として見て頂きたい。
介護現場の過酷な実態を知れば知るほどに、その大変さに閉口してしまう。作品の中でも家族の介護に疲れ果てた登場人物が多く登場する。特に重度の認知症のご家族を介護する家族や、介護事業者の方々の苦労は想像を絶する。松山ケンイチさん扮する主人公の斯波(しば)という介護士は、人間らしい生活が出来なくなった介護サービスの利用者とご家族を”救う”と称して42人の方々を殺人してしまう(検察の調べでは41人だが、もう一人が誰なのか?は本編を見て下さい🤭)
これだけ聞くと殺人鬼の話にしか聞こえないと思う。しかし前田哲 監督(もしくは原作者の方かな?)が創り上げた犯人の斯波という男の人物像の設定が絶妙なのだ。検事に扮した長澤まさみさんの取り調べに淡々と答えていく殺人のロジックに、検事は押し負かされていき苦悩するのだ。(明らかな犯人の意見供述に法律を背負った検事が苦悩させられるって・・・🤭)
単純に言えば「介護サービス」とは本来(?)家族が担うべき親の介護をお金を払って代行してもらうサービスだ。もう少しストレートな言い方をすると、人の嫌がる作業をお金で代りにやってもらう行為だと言える。理由は各家庭それぞれだと思うが本質は変わらないと思う。
犯人の斯波はある理由がきっかけで、介護を強いられたご家族が「人間らしい生活が出来ない」と判断した時に「ロストケア(喪失の介護)」と称して苦しまずに利用者を殺めていく。この斯波という男の設定が絶妙で、現実にはあり得ないほど、優しく思いやりのある善良な人間として描かれている。この辺がこの作品がSFだと思おうと感じた理由だ。
人格的に完璧と思えるような人が、利用者自身と介護するご家族が ”もう人としての生活が出来ない” と判断した時だけ犯行を行う。”救う”と称して・・・
これを聞いた多くの皆さんが「そんな選択を人が勝手に決めていいはずがない!」と当然憤ると思う。その声を代弁して語ってくれるのが長澤まさみさんという設定になっている。この設定上、かなりの方が長澤まさみさんの意見に同調して作品を視聴すると思われます。しかし検事がロジックで打ち負かされていく様子を視聴するうちに、自分自身に介護の覚悟や考えがあるのかと問いかけられるストーリー上の仕組みになっている。
お金のある富める者は、およそ人間ではケアしきれない親の介護作業を事業者に任せて安全地帯で自分の日常を過ごせる。お金のない貧しい者は、程度の差こそあれ自分の日常を切り売りして親の介護に奔走させられる毎日が待っている。兄弟姉妹や親族で介護を押し付け合うなんていう話も身近でたくさん聞きます。
ここでロジカルな人は「尊厳死」の話を思いつくと予想しますが、いかがでしょうか?この作品は暗に「尊厳死」の是非も薄く匂わせながらテーマのひとつに据えられているように感じて、作品の奥深さと、人物設定のすばらしさを感じずにはいられません。
登場する人物たちすべてにリアルな人間味を感じる。演じたのが、松山ケンイチさんというのもあって「Death Note」の夜神月(やがみらいと)のような知能指数の高い超越者としての殺人鬼を一度は思い浮かべた。しかしこの作品にはマンガの登場人物のようなステレオタイプの人物は存在しない。みんな自分の人生を生きていて、弱さを持ってなんとか幸せに生きようと、すべての人物たちが生きている世界観だ。こう言う実社会に近い世界観で、介護士が42人の利用者の命を奪ってしまうという非現実的な設定を違和感なくぶち込んでいる点がすごいと思うのです。
さて作品の話はこのぐらいにもう一点、お話ししたい事があります。これは「岩瀬博太郎×落合陽一 法医学者の叫び死者の声を見て」というタイトルのNewspicksの動画の内容なのだが、法医学者の千葉大学の岩瀬氏が司法解剖の現実を落合陽一氏のインタビューに答える内容だ。
驚いたのは「科捜研の女」や「アンナチュラル」で出てくるご遺体を検死される法医学者のリアルだった。全国でたった158人しか存在せず、マンパワーが圧倒的に足りない日本の法医学会は、死因がよく解からない所謂「異常死」のたった1割しか死因の特定を行うことが出来ていないようなのだ?!諸外国の基準を日本が目指す場合1200人はいないといけない解剖医だが、158人!って少な過ぎると思いました🤭
岩瀬氏が言うにはこのマンパワー不足や、死因特定を行わない現状は世界的に見て異常なのだと言う。厚生労働省が発表する日本人の死因は発表上はガンが1位、2位は心疾患、3位は老衰、4位が脳血管疾患と続いているが、死因の特定を9割行っていない日本では1位のガン以外の死因は、適当なのだと言う。それは実際に検死をしてみると以外な事実を多く見つける事から分かると言う。(※病院で亡くなった方の死因の特定は8割方大丈夫との事。)
高齢者の一人暮らしの場合、倒れてそのままという場合も多い。この検死を行うか?行わないか?の判定は警察が行うのだが、先ほどお伝えしたように検死をする解剖医は不足どころではない状況であるために、なんらかの基準で警察もよほどの理由がないと検死へ回せないのが現実のようだ。回されたところで対応は不可能という現実・・・
ロストケアの中でも描かれていたが、亡くなった方のところへ警察と死因を判定する医師が来て、外傷がない事や年齢や健康状態から事件性がなさそうだという判定でその場で書類に「心不全」と記入する場面が出てくる。検死を行われないケースだ。実際にこうして作中で犯行は見逃されたのだ。
外傷を負わせずに年齢や健康状態から考えて「心不全」だと判定させることは、それほど難しくない。司法解剖が行われれば、薬物や毒物で死に至らしめたのを発見することは出来る。しかしマンパワーが足りていないという理由で検死は行われていない
「ん?!」
そうすると映画のように必要に駆られて家族を死に至らしめる人が現実にたくさんいてもおかしくないという事になる。表向きは年間の介護を苦にした家族による犯行死者数は45人だという。しかしこれはバレた件数に過ぎない。ロストケアの作中で斯波は「どうしてこの様な犯行を実行しようと思ったのですか?」との検事からの問いに「バレなかったからですよ。」と迷わず言った。
人間は弱い生き物だ。バレると分かっている悪いことは出来ないが、バレないと判ると、悪いこともやってしまう。司法解剖などの検死は、本来そういった治安を維持するためにも必要な制度であるべきなのだ。しかし実際に司法解剖はほぼ制度と呼べるようなシステムで運用されていないのだと言う。これは法医学の業界的なニーズがなくて予算が付かないことに起因しているようだ。
20年前まで司法解剖はお金が出ないので「まな板と出刃包丁」で解剖していたそうだ。解剖しても1円も警察が払わない時代が長く続いたらしい。利益を追求する市場原理に照らし合わせると、当然の結果のような気もした。
介護業界も法医学会も、市場原理の利益追求の観点からは儲けの出にくい見捨てられたマーケットだ。しかしその事によって見逃せない程の社会問題が起こりつつあるのを私たちはどうにかしていけるのだろうか?私たちの理屈は常に「民主主義」と「資本主義」に知らず知らずのうちに染め上げられている。儲からないモノにリソースは割り当てられない理屈が満ち溢れている。要らないモノは切り捨てると言う考え方で右肩上がりの成長を実現させてきた社会は高齢者の扱いにまだ対応出来ていない。(なんだか左翼ったスタンスの文章ですが民主主義も資本主義も基本好きですよ🤭)
現状では答えがでないと言う結論で結ぶしかないのですが、ロストケアはエンディング曲も設定がスゴイ!森山直太朗さんの「さもありなん」がエンディング曲だ。”さもありなん” という言葉はものすごく弱めの肯定の意味。かなり客観的な視点からの肯定の意味で使われる言葉だが、森山さんのお声で宇宙的な視野の時間の流れから”さもありなん”と歌い上げるエンドは感動的だ。この映画に一貫している、どちらの意見も強く肯定しない、強い否定もしないという姿勢をもう一度確認しているようにも感じた。
(いい曲です🤭)
便利なモノ、役に立つモノ、利益、メリット これらを追い求めるだけではどうやら立ち行かなくなりそうだとしみじみ感じる日曜日でした🤭
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