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【掌編小説】家

「もうお年ですから、次の公演ではおやすみになってください」

俺を真っすぐ見る女監督の目には感情がなかった。いやきっと、感情が籠もらないように、伝えてくれているのだろう。年のせい、と建前を敷いてくれていることにも、彼女なりの”武士の情け”が伝わってきた。

大学を出てすぐに彼女と組んで、役者として舞台をつくって。もう20年である。その幕引きがこんなふうに、ファミレスのボックス席で告げられることになるとは思わなかった。都心の駅に近いところであったからか、店内はやや混んでいる。若い女性たちが騒ぐ声や、部活帰りらしい男子高校生集団の笑い声などが響くなか、俺と彼女はしばらくの間黙りこんでいた。

ドリンクバーを往復する何人かの客が素通りしていく。いたたまれなくなって、俺のほうから口火を切った。

「お前が呼び出してくるなんてさ、そんな話だろうと思ったよ」

このタイミングで言葉を返すなら、悪者ではいられない。そのために、彼女は黙っていたのかもしれなかった。驚きも、恨みも、皮肉も、店員呼び出しのチャイムがピーピーと鳴るファミレスの店内には不釣り合いだ。なるほどファミレスというのは、こんな話をするための場所としては、案外ぴったりなのかもしれない。どんな話でも、ある程度以上、深刻になりにくいから。

「あなたと仕事を続けられないのは、私の力不足です。面目ないです。」

目を伏さないのは、はっきりと責任を被るつもりだからだろう。20年を共にした役者を切るというのは、どんな条件や事情があったとしても、彼女自身がそれを望まなければ、起こり得ないことだ。

「おれは、お前の家族だと思っていたよ。まだチケット売れないときに、なんの意味あんだろって思いながらやれんのはさあ、もうしょうがなかったからじゃん。お前とおれが、兄妹みたいに一緒になって、演劇やるって、最初っから決まってたっていうかさ」

それを聞いて、彼女も、さすがに心にくるものがあったようだ。すこし声が震えはじめた。

「家族って、条件ですからね。ポーカーで、最初に配られた手札のような。わたしも、あなたと一緒にずっとやっていくことを、疑ってなんかいませんでしたよ」

「俺を立たせないように言ったのは、プロデューサーか」

一瞬、瞳がゆらいだ。彼女も覚悟を決めたように、とつとつと話しだした。

「プロデューサー…もですが、若い子たちもです。もっと言えば、作品も。あなたのやり方は、いまの時代で舞台をつくっていくうえでは、古すぎました。もうこの仕事は家族のような関係性でやっていくものではないんです。いや、家族の間であっても、もう、怒鳴ったりだとか、殴ったりしては、いけないんです。すみません」

稽古でお互いの演技にダメ出しし合う緊張感がすきだった。夜公演が終わって、劇団のメンバーで朝まで飲むことも。非番のときにも誘い合って、麻雀やらパチやら行くことも。それらの人と人との付き合いっていうかコミュニケーションっていうかが、舞台に、生モノの気迫として生きてくるんだって、信じていた。それはハラスメントになるんだと、目の前の監督にも、ほかの古参のやつらにも、さんざん言われていたけれど、それは俺のスタイルだから、曲げられなかった。

とうとう目を赤くしはじめた監督を前にして、俺の居場所は、もうないのだと、本気で悟った。舞台が終わって、スポットライトが消されて客席が真っ暗になる瞬間を思いだす。

「すまねえな、ほんとに苦労かけて。いいものつくれよ」

それだけ言って、この女をプレッシャーから解放させてやらなきゃと、さっと立って、伝票をひっつかもうとする。すると、その手首をさっと掴まれた。

「ここは、もう、ほんとに、払わせてください」

彼女のその手が俺を引き止めているような手にも思えてきて、でもほんとの意味は逆で、俺も泣けてきて、ああ、とだけそっけなく答えて、彼女を振り返らないようにして、店を出た。

ああ、なんで俺こいつと離れなきゃなんねえんだろ。ずっと一緒にやってきたかっただけなのによ。

***

賭け事やらなんやら、妻の聡子に嘘つくのはもう慣れたもんだとしても、こんなに情けない嘘ははじめてだ。稽古だって嘘ついて、外出て、時間つぶすなんて。

聡子と鉢合わせないように、適当に電車でなん駅か乗ったあと、駅の地図で見かけた適当な公園に来た。なにをするでもなく、砂地の広場のわきにあるベンチに、ぼーっと座っている。桜の季節が終わりかけた時期で、まわりに植えられた桜の木から落ちたであろう花びらがそこらに落ちていた。木の枝にはほぼ花はなく、緑の葉に生え変わっていた。

春めいた陽光に、時々のそよ風。俺が劇団をクビになったってことを除けば、世の中は実に平和そのものだった。

広場は賑わっていて、その中でも、いやに家族連れが多かった。まだよちよち歩きの子供と一緒にピクニックをしていたり、子供の自転車の練習をしていたり。そういえば、今日は休日だった。

劇団で稽古詰めだった人生で、休日を意識することはすくなかった。真っ当な事務職をしている聡子は、いつもより30分くらい寝坊をしていたっけ。それでも俺のために毎日朝ごはんを出してくれるところは変わらなかった。

あーあ、でもこれからは、毎日休日かよ。

やけくそのようにうーんと背伸びをしながら空を仰いで、無垢すぎる青さが逆に嫌になって、思わず目を閉じる。浮かんでくるのは稽古のようすだ。劇団のやつら、ちゃんとやれてんのかな。ちょっと電話でもかけて様子を聞いてやろうか。そんなことを思いながら座っていたら、ここいいですか、と、男に声をかけられた。俺が座っていたのは横幅の長いベンチで一人で使うには長すぎたから、「どうぞ」と手で指して、座るようすすめる。

「ありがとうございます」

俺と同年代らしい男性はチノパンにチェックのシャツ、いかにも休日のお父さん、という感じの服装だから俺はめんくらった。カタギっていうか、一般人っていうか、真っ当な世界のひと。芸事で生きてきた俺は、こういう人間を見ると、うっ、となんだか引け目を感じてしまう。

俺の狼狽をよそに、男性は話しかけてきた。

「子供たちに合わせていたら、体が持ちませんよね」

ほら、ウチのはあそこのチビふたり、と男性は、自分の子供を指さして教えてくれた。小学校中学年くらいの男の子と、まだ幼稚園くらいの女の子。女の子がゴムボールをぽい、と捨てるたび、男の子がそれを拾ってやっているのを繰り返している。まるで男の子が犬にでもなっているかのような遊び方だが、彼女は喜んでいて、男の子も笑って付き合ってやっている。男の子は、やさしい性格らしい。

俺には子供がいない。正直に言えば、つくる余裕がなかった。売れない劇団で役者をやっていた俺は、子供一人を養うなんて考えられないような稼ぎしかなく、しかも忙しかった。聡子が子どもを欲しかったかどうかは分からない。今まで20年間、いちども、そういう話にはならなかった。しかし「子どもはいらない」という話も、聡子は一度もしなかった。それを言ってくれれば、いくらか俺の責任やら罪悪感やらは晴れるはずだったけれど。聡子はそこだけは、せめて嘘はつけずに、ずっと黙っていたのかもしれない。

「子どもってなんであんなに後先考えず走り回れるんでしょうねえ」

そう言って俺に笑いかけながら、自分の子どもの話を続ける男性は、どうやら俺も子どもの付き添いで来ていると勘違いしているらしかった。晴れた休日の公園の入場きっぷを車掌に確認されているような気持ちがして、俺はその誤解を否定することができなかった。男性は、満足げに話を続けた。

「あなたも分かるでしょう。仕事だけが人生だったころからは、考えられないですよ。子供が生まれて、ぼくははじめて世界がひっくり返るような体験をした。仕事のことをしていても、自分の趣味をしていても、ずっと、頭の中に子供がいるんです。愛といえば簡単なんでしょうが、そんな甘いもんでもなく、呪いのようなものでもあった。なにせ、逃れられないんですから」

ああ、本当に、と俺はみじかく曖昧にこたえる。そのとき、遊んでいる男の子と女の子のもとに、一人の女性が駆け寄ってくるのが見えた。男の子と女の子は、わっとその女性のところに駆け寄る。女性はふたりの母親なのだろう。そして女性は、両手に下げていたビニール袋を掲げて、買ってきたよう、とこちらに向かって呼びかけた。

その女性の無邪気な顔は、聡子に重なった。女性は聡子と同じくらいの年だろう。俺は、聡子のことをこの女性くらい幸せにしてやれているのだろうか。

「ああ、妻が帰ってきた、それじゃ」

男性は、俺のことは暇つぶしだった、と言外に伝わってくるくらいのそっけなさで、ベンチを離れ、女性のもとへと駆け寄っていった。

***

俺はそそくさとその公園を離れて、でも行く場所もなくて、まだ日の明るい、なんの変哲もない東京の下町の大通り沿いを、歩いていた。道に敷いているレンガのブロックは、グレーと赤茶色が互い違いになっていておしゃれだなと、下を向いていたから、気づいた。

大通りがいくつも交差する道路だったから、よく大きな交差点があって、歩みはときどき信号によって止められた。そのたびに俺は、考えなくてもいいようなことを考えるのだった。

ああ、とにかく正直に、劇団をクビになったことを聡子に言わなきゃな。

何度目かに歩みを止められた交差点で、俺は携帯電話を取り出して、聡子に電話をかける。

「もしもし、どうしたのー」

何も知らない聡子は、いつもと同じ朗らかな調子で、おれに話しかけてくれた。

「俺、クビになった」

ふだんは強情っぱりな俺だが、このときばかりは不思議な素直さで、それを口に出せていた。

「そっか、じゃあ帰っておいで」

「なんで?」

「なんでって、あなたの家じゃない。行くとこないんだから、帰るしかないでしょ」

聡子はそう言って、小学生に算数を教えるように、当たり前のことを言うような口調で言った。

「俺さ、別れないといけないと思ってた」

「なんで別れるのよ」

そう問い返してくる聡子の無邪気さに、俺の中で感情がこみ上げてくる。

「だって俺よお、お前をよお。夫婦として幸せにしてやれてなくてさ、役者もクビになってよお」

ぐずぐず言ってたら止まらなくなった。

「夢追うってズルズルこんな年まで役者やって、金もなくて、稽古だなんだって家にも帰らないで、ホント悪かったよう。しかも俺知ってんだよ、お前子どももほしかっただろ。あのなあ、お前が他の子ども見てかわいいかわいい言わないようにしてたって、俺気づいてんだよお。幸せにしてやれなくて・・・」

そのとき急に、ストーップ!と電話越しに叫んで俺の話を聡子が止める。

「いい、ひとついい?なんでわたしの幸せをあんたが決めるのよ。私は幸せで、あなたと私は夫婦だし、家族なんだから、とりあえず一緒にいなきゃいけないの。だから、とりあえず帰っといで!そんで、あんたももう年なんだから、ちょっとは休んだほうがいいの!」

そういう聡子の声は、なぜかすこし、楽しそうだった。日が短い時分だからか、あたりはだんだんと夕焼け色に染まってきていた。行くところのない俺も、まだ帰るところはある。俺は駅に向かってとぼとぼと拙い足取りで、でも顔は上げて前を向いて、歩いていった。

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』6月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「やすむ」。時間のながれに身を預けて心がやすめられるような、そんな6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。


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