船魂神社と義経
函館にいる。
ペリーから迫られて開かれた、幕末からの歴史ある港だけあり、西洋文化や、独特の雰囲気が色濃く残る街だ。
1日中歩き回り、「擬洋風建築」のフィールドワークと、神社・寺・教会を巡り「祈り」を中心に1日は過ぎた。
なんと!源義経北行伝説の史跡がここ函館にもあったのだ。それが「船魂神社」だ。
船魂神社は、融通念仏で信仰を弘めた良忍が観音堂を開いた事で始まったらしい。。それが何故神社になったのか??謎めいている。
船魂神社は函館山の麓、元町の基坂近くにある。
良忍は平安時代末期の天台宗の聖です。1132年60歳で病で亡くなっているらしいのですが、この函館市の説明だと1135年に観音堂を゙建てたと…
謎です。どちらかの年代が間違って伝わっているのか。。
津軽半島から蝦夷地(えぞち)に渡った義経は、この磐から湧き出た清水を見たんですね。
「清水」かぁ……
坂上田村麻呂が蝦夷(えみし)の阿弖流爲(あてるい)と磐具母禮(いわぐのもれ)を大和朝廷の京に連れていき、助命嘆願したが適わなかった二人の為に建立した寺院も「清水寺」。。
なんか関係有るんですかね?
たまたま? 清水? まじで?
何かを清水に例えてませんかね?
そんな気がしてならないのです。。
因みに船魂神社には、境内の中に
素盞雄尊と出雲大社、彌彦神社がありました。
うむ。。
北前船の影響ですかね??
良忍も大阪中心の融通念仏宗の開祖ですし、若狭から出港した北前船の船乗り達が、越の国、出雲国の日本海側の大社を祀ったのか??それとも、融通念仏宗だけに、「念仏踊り」を芸能にした、出雲の阿国絡み??
江戸の末期ごろ神社になった様に書かれてましたが、明治新政府の神仏分離政策によって神社になっちゃったのか??これまた、解らんです。
年代からは、義経より良忍さんの方が先に来てる筈、その時は観音堂だった?。。 なのに、義経は清水発見と、津軽半島からの無事渡航を゙船魂明神の奇跡としてる。。
観音堂に船魂明神かぁ
水脈??
仏法の法脈??に例えてる?
法脈と言えば。。
長野県善光寺は「善光寺大勧進」と「善光寺大本願」という天台宗と浄土宗が順番に無宗派の善光寺を護りつづけていますが、天台宗の大勧進には「御血脈」という法脈が記載された結縁袋が購入できます。
この御血脈に、天台宗の最澄からの流れが、融通念仏宗の良忍に引き継がれていることを確認できます。
私、以前に善光寺に行った際に購入しました。中身は開けない様に複雑に折り込まれていますが、開けて見てしまいました。
良忍は、能の謡曲「三山」「百萬」「隅田川」にも登場します。
良忍は仏教声明(しょうみょう)で有名です。
仏教声明というのは、所謂音楽です。謠(うた)です。声が生まれた時から美しかったらしく、幼名は「音徳丸」と名付けられてます。
庵を結んだ良忍は、滝の下で声明の唱を練習していた際に、滝が聴き惚れて止まり「音無の滝」と呼ばれるようになった…等の伝説まで存在します。
その美声が評判を゙呼び弟子が増え、庵を゙結んだ京都大原にちなみ「大原流」として今でも存在し、芸能の源流になっているそう。
義経も能の謡曲に頻繁に出てきます。。
義経・良忍。。
解らんことばかりです。