健康と文明病 ④(ネアンデルタール人と進化論)
ネアンデルタール人と現世人類との共存
前回、頑丈型猿人とホモ属が230~100万年前にかけて、130万年間も共存していた事実を指摘しましたが、実は皆さんも良くご存じのネアンデルタール人でも、現生人類との間で同じ事が起こっているのです。これまで、ネアンデルタール人は知能が低く愚鈍な原始人類で、優秀な現世人類のホモ・サピエンスによって絶滅させられたと言う物語が、繰り返し語られてきました。多くの方が、その様に理解しているのではないでしょうか。しかし、前回の図22)を見直してもらうと分かりますが、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの生息時期は、ほとんどが重なっているのです。つまり、我々は約30万年間にも亘ってネアンデルタール人と共存して来た訳です。
それにも拘わらず、人類学者はわずか2.6万年早く絶滅したと言う理由だけで、ネアンデルタール人が如何に劣った人類であったか、絶滅して当然の出来の悪い人類であったかを証明しようと、死人に口無しとばかりにあら捜しに狂奔してきたのです。しかし、本当にネアンデルタール人がそんなに出来損ないの人類なら、何故30万年もの期間、彼等よりはるかに優秀なはずの現生人類と共存できたと言うのでしょう。現実を冷静に見れば、2.6万年前に絶滅した事より、30万年もの長期間共存し続けた事実の方が重要なはずです。
図31)ネアンデルタール人の復元(ネアンデルタール博物館)
ネアンデルタール人にとっては、1856年にドイツのネアンデル渓谷で発見された当初から受難の連続でした。最初は、カルシウム不足のコサック兵の骨とか、くる病や痛風で骨の変形した現生人類の老人の骨格などと真剣に論じられていたのです。その後も、上下に押し潰された低い脳頭蓋が知能の低さの証拠とされ、愚かで野蛮・残忍な獣的存在と見られ、現生人類と類人猿との中間の、曲がった下肢で前かがみに歩く原始人と考えられて来ました。長い間、人類学者たちは、ネアンデルタール人が現世人類に比べて如何に劣っ た存在か、絶滅して当然の欠陥人類であるかを証明しようと躍起になって来たのです。絶滅の必然性を証明しようと、彼等には言語能力が無かったとか、抽象的思考が出来ず芸術的才能が無いとか、弓矢や投槍器などの飛び道具を使えなかったとか、最近では長距離の交易を出来なかったなどと、思い付く限りの欠点をあげつらい貶められて来たのです。
図32)ルヴァロワ技法で作られたムスティエ文化の尖頭器
図33)スペイン・クエバアントン遺跡の4.3万年前のホタテ貝殻(右側にはオレンジ色の着色の跡)
図34)スロベニア国立博物館のディヴィジェベイブ・フルート(4.3万年前)
しかし、ネアンデルタール人は絶滅して当然といった、劣った愚鈍な人類などでは決して有りません。 イラクのシャニダールでは、ネアンデルタール人が遺体に献花して埋葬した跡が発見されています。また、30~25万年前には、ルヴァロワ技法と呼ばれる洗練された石器制作技術を開発し、石器を木の棒の先にアスファルトで接着して穂先として使っていました。そして、アカシカ・トナカイ・マンモスなどの大型動物を狩り、貝や魚の他、アザラシ・イルカなどの海洋資源も利用していました。また、20~15 万年前にさかのぼるギリシャの島々の石器の遺跡の存在から、地中海を航海していたと考えられます。さらには、薬草を使って治療を行い、食物を保存し、火を起こして洞窟に炉床を作り、ロースト・煮沸・燻製などの調理も行っていたと言われます。工芸品も、鳥の骨や貝殻から作られた装飾品、結晶や化石を含む珍しいオブジェ、彫刻、クマの長骨製のディヴィジェベイブのフルートなどが発見されています。洞窟壁画も、6万5000年前にネアンデルタール人が描いたと思われる壁画が、スペインのラ・パシエガ洞窟、マルトラビエソ洞窟、アルダレス洞窟で見つかっています。つまり、ネアンデルタール人が私たち現世人類より劣った存在だったと考える理由は何処にも無いのです。
図35)ネアンデルタール人の遺跡
図36)クリーブランド自然史博物館のネアンデルタール人(右)と現代人(左)の頭骨
さらに、図35)を見ると一目瞭然ですが、ネアンデルタール人の頭骨は私達より一回り大きく、脳容積も男性で平均1600ccと、現生人類の1450ccより明らかに大きかったのです。人類学者は、ホモ・サピエンスが登場するまでは、脳容積のサイズを進化の基準として来ました。ところが、ネアンデルタール人の方が現世人類より脳容積が大きいと判明すると、手のひらを返す様にそれまでの基準をあっさり放棄して、他の特徴で彼らの知能の低さを証明しようと躍起になって欠点を探し始めたのです。これほど酷いダブル・スタンダードは有りません。
ダーウィン進化論の呪縛
人類学者は、絶滅した古人類が発見される度に、原始的特徴を持つ人類は、進化した新人類に絶滅させられたと主張するのが常です。彼らが、この様なステレオタイプの発想に陥るのは、その背後にダーウィン進化論の呪縛が有る為です。ダーウィンの自然選択説では、生存闘争の中で環境に最も適応したものだけが生き残り、生存闘争に敗れたものが絶滅する事で、優れた形質を獲得した生物が自然選択されて進化して来ると言うものです。つまり生物の進化には、環境への適応能力の劣ったものが生存闘争で絶滅する事が不可欠で、進化する生物の陰には闘争に敗れて絶滅する生物が必ず居なければならないのです。ですから、新たな生物が進化してきた一方で、絶滅した生物がいる場合には、当然、古い生物は新生物との生存闘争に敗れて絶滅したと考える訳です。
ダーウィンの自然選択説によれば、ホモサピエンスが進化できたのは、競争相手よりも環境適応の上で優れた特質をもち生存闘争に勝ち残る事が出来た為で、反対にネアンデルタール人が絶滅したのは、劣った特質の為に生存闘争に敗れた為です。したがって人類学者としては、何としてもネアンデルタール人の欠点を、生存闘争で敗れる原因となった特徴を探し出さなければならないと言う事になるのです。優秀な我々ホモサピエンスが、愚鈍なネアンデルタール人などと共存するなど、とんでもないと言う訳です。
図37)チャールズ・ダーウィン
ダーウィン進化論では、この生物間の生存闘争の普遍性が理論の基盤となっています。 もし、生存闘争が存在しないとすると自然選択が機能せず、進化自体が有り得ない事になってしまうのです。ダーウィンは、この生存闘争の普遍性を、マルサスの『人口論』から導き出しています。マルサスはこの中で「人口は制限せられなければ幾何級数的に増加する。生活資料は算術級数的にしか増加しない」(『人口の原理』ロバート・マルサス著)。その結果、人口増加は必然的に生活資料の不足を引き起こし、植物・動物では「種子の浪費と疾病と早死」、「人類には窮乏と悪徳」が発生すると主張したのです。
図38)トマス・ロバート・マルサス
そして、ここからダーウィンは、生物は不足する食料を巡って必然的に生存闘争に直面するとの結論を引き出したのです。そして、この生存闘争の結果、より環境に適応した形質を持つ個体が生き残り、それが子孫に伝わる事で種の進化が 起こると考えた訳です。ダーウィンは『種の起源』の中で次のように述べています。
各々の種は、その存続可能な数より遥かに多くの個体を産出する。その結果、生存闘争が頻発するので、従ってどれかの生物が、複雑なかつ時々変化する生活条件の下において、もし少しでも自己に適したように変異すれば、その生物は存続の機会を持つことが多くなり、こうして自然に淘汰せられることになる。淘汰せられた変種は、遺伝という力強い原則によって、その新しい変容した形態を増殖するようになるだろう。(『種の起源』チャールズ・ダーウィン著)
このように、 ダーウィン進化論の基盤となっている生存闘争の普遍性ですが、実は一般に考えられている程、当然の事では無いのです。この点については、『遺伝子決定論は正しいか?③ 』の記事でも取り上げましたが、ここでは少し違う視点から述べてみましょう。
地球の生命圏を考える上で重要なのは、生態系を構成する生物にとってはゼロサム・ゲームではないと言う点です。地球の生態系には、外部の太陽から日々膨大な無尽蔵とも言えるエネルギーが供給され続けており、それによって生命圏が維持されています。つまり、地球生態系は閉鎖系ではなく、 生物は限られた資源を巡って闘争している訳では無いのです。太陽から一方的に供給され続ける有り余るエネルギーから、日々大量の有機物が光合成され、それが生態系を潤し続けています。生態系を構成する生物は、文字通り太陽のめぐみに全面的に依存して生存しているのです。生物は、生態系の中に自分の居場所を見付け、生態系の地位を確保する事さえ出来れば、生態系の中を流れ続ける大量のエネルギーの恩恵を、労せずして享受し生き続ける事が出来るのです。無意味な生存闘争に狂奔するより、競争相手のいない生態系のニッチを探し出して適応し、生態系を分け合って共存し、仲良く太陽のめぐみを享受する方が合理的なのです。何故なら、生態系には使いきれない程の有り余るエネルギーが、外部の太陽から日々無限に注入され続けている訳ですから。
前回、 生物は生態系のニッチを分け合う様に進化すると指摘しました。実際、異なる生態系のニッチへの適応によって、短期間で種分化が起こる事が知られています(生態的種分化)。北アメリカにはサンザシの果樹に寄生するラゴレチス属のハエが生息しています。メスは果実に産卵し、幼虫はその果実を食べて成長して、土の中で蛹になって越冬します。ところが、移民によってイギリスからリンゴの木が持ち込まれると、リンゴに寄生するハエが出現して来たのです。このラゴレチス属の新品種は東アメリカに広がり、農業にとって深刻な害虫になったと言います。実は、サンザシとリンゴの木では開花期が異なり、それに合わせて寄生するハエも休眠から覚める時期をずらして発生しています。その結果、種分化したようなのです。これらのハエは同じ果樹園に棲んでいるのですが、寄生する果実を変える事で、400年も経たない短期間に新しい品種が進化して来た訳です。
また、カナダのブリティッシュコロンビア州の湖沼群には、数千年前に2度にわたって移入されたトゲウオが生息しています。第1波は湖底の巻貝などを食べる様に適応し、第2波では沖合の水中のエサを食べる様に適応して生態系を分け合っています。そして今日では、沖合の魚は体が細く、湖底の魚は太く大きくなり、遺伝的にも異なっています。さらに、トゲウオは湖底に巣を作りメスを呼び込むのですが、水が透明の浅い場所に巣を作る沖合に棲むオスが赤いのに対し、有機物が分解されてできたタンニンの為に水が茶色になっている湖底の深い場所に巣を作る、底生環境に適応したオスは黒っぽくなっています。茶色の水の中では、赤は目立たずメスを引き付けられないのです。この両タイプのトゲウオを研究室の水槽で交配実験をしても、体色の事なる個体群のペアは余り交配しないと言います。
第2波で移入されたトゲウオは、競争を避けて既に占有者のいる湖底では無く、沖合の水中という空いた生態系のニッチに適応する事で、新たな品種への進化の道へ踏み出した訳です。これらの事実は、異なるニッチへの適応によって、数百~数千年と言ったごく短期間に、容易に進化が起こり得る事を示しています。こうして、生物は生態系を分け合う事で競争を避け、共存する道を選んで進化して来たのです。
また、生存闘争によって劣った種が絶滅すると言うなら、生物の絶滅は一定の頻度で起こるはずです。しかし、前回の図29)を見ても分かる様に、地球史の中では多くの種が同時に絶滅する、大量絶滅が繰り返し起こっている訳です。しかも、図30)と比較すると、大量絶滅は急激な気候変動と同期して起きている様に見えます。巨大隕石衝突による恐竜の絶滅で有名な中性代白亜紀末の大量絶滅でも、急激な気候変動に見舞われているのです。図30)を見ると、約 6600万年前の(K–Pg event)と書かれた所で、気温が急激に低下してボトムになっているのが分かります。
つまり、生物の絶滅は生存闘争の結果では無く、地球規模の気候変動・環境変動に巻き込まれた結果、絶滅が起きていると言うのが実態なのです。そして、図30)に見られる様に、地球は気候の激変に繰り返し襲われています。そのたびに、地球生態系は大きなダメージを受け、生物多様性の激減による崩壊と、その後の環境改善期の多様性の回復を繰り返して来たのです。現在、地球上には微生物を除いて約870万もの生物種が存在すると言われますが、これまでに登場した生物はおそらく数十億種にものぼり、その99%以上が絶滅したと考えられます。こうした生態系の変動の中で、生物多様性を回復する過程で起きたのが、多様な生物の一斉進化なのです。これによって、崩壊した生態系は再び多様な生物で満たされ、安定を取り戻したのです。この意味で、繰り返す大量絶滅は、その度に生物の進化を加速して来たとも言えます。そして生物の進化とは、生き残った生物で崩壊した生態系を再建する手段だったのです。
文明と気候変動
図39)過去2万年の気温変動(グリーンランド氷床コアより推定/横軸単位:千年)
気候変動は、我々の文明とも深い関係に有ります。前回、頑丈型猿人・ホモ属の進化が、氷河時代の開始と言う気候変動に後押しされる形で、更新世の始まりにほぼ同時に起こった事を述べました。実は、更新世の終わりにも、人類にとって重要なイベントが起こっています。それは、約1万2000年前の農耕の開始と、それに引き続いて起こった文明誕生です。図39)を見ると、1万2900年~1万1500年前にかけて気温が急降下した時期が有るのが分かります。これは、ヤンガードリアス・イベントとして知られる更新世末の寒冷化の揺り戻しで、それが収束に向かう約1万2000年前以降は急速に温暖化が進んで氷河時代は終わり、現在の完新世へと移行して行くのです。そして、1万年前以降はグラフは水平化して、気温は安定して推移して行きます。
図40)過去5億年の地表気温(気温は1960〜1990年の基準値、約14°Cからの差)
そして、この気候の安定期に、人類は農耕を開始し文明を育んで来た訳です。しかし、図40)を見れば分かるように、地球は長い地質時代を通じて激しい気候変動に見舞われ続けて来ました。先に紹介した更新世の氷河時代は、図40)では中央枠の(2.6)辺りから右端の枠の(12)辺りに相当します(※時間スケールが枠ごとに変わっています)。ヒト属が進化した氷河時代が、如何に変動の激しい時代だったか分かります。反対に、農耕の始まった1万2000年前以降は、グラフは水平化すると同時に振幅も小さくなっており、気候が極めて安定していた時代だった事を示しています。
図41)過去530万年間の地球の表面温度(下図:直近80万年間の拡大)
ところが、図41)の下図は80万年間の気温の変化を示したものですが、そこでは1万年の安定期は、右端のHoloceneと書かれたピークに過ぎません。この図を見ると、人類が文明を発展させて来た1万年間は、氷河時代の終わりに急激に温暖化してピークを付けた直後の、一時的な安定期に過ぎない事がわかります。今後、地球の温暖化で深海底のメタンハイドレートが崩壊して、ペルム紀末の様な地球の熱暴走が起こる可能性も考えられますが、図41)からはこの後地球が再び急激に寒冷化して、氷河期に逆戻りする様にも見て取れます。どちらにしろ、我々が文明を育んで来たこの1万年間の気候安定期は、気候の激変を繰り返して来た地球史の中では例外的なものだったのです。我々の文明は、1万2000年前に始まった急激な温暖化がピークを付けた直後の、例外とも言える一時的な気候の安定期に、たまたま農耕を開始したと言う僥倖の上に成立したものだった訳です。我々の文明は地球の気候変動という、極めて危うい基盤の上に成り立っていると言う事が出来るのです。
(つづく)