
ヒュドラを運ぶ
礼成江の水を飲んでしまったのは、康明を運び終わった時のことだった。
泥の混じった水の匂いが、喉奥から鼻へ抜けていく。岸に掴まり咳き込んでいると、「母さん!」と昭一が、ひしと腕を掴んできた。
岸に上がる。昭一はおんぶ紐を解き、康明を抱きかかえる。先程から泣き声一つ上げない。口元に手を当てると、微かな呼気が手のひらに触れる。しかし、目を閉じて、ぐったりとしている。
急がなくては。まだ弘子と啓子がいる。
北側の岸には、小さな人影がいくつも残されている。他の家族達は、跡取りの長男だけを連れて行くことにしたようだった。増水した川を往復するのは、難しい。男は子供を抱えて泳げるが、女には無理だ。三十八度線の向こう側に連れて行ける子は、一人だけ。
私、以外は。
大きく息を吸う。荒れた水面へ身を滑り込ませる。十二月の水は身を切るように冷たい。
泳ぐのは極東選手権競技大会の時以来だった。マニラまで行かせたのにと、最下位を取った者に浴びせられた言葉は、この水のように冷たかった。
だが、子供を見捨てるために、ここまで連れてきたのではない。
息継ぎの為に顔を上げる。霞む視界に、二人の影が重なって見える。啓子はまだ四歳なのに、自分の足でここまでついてきた。
『啓子から目を離してはいけないよ』
あとふたかき、ひとかきというところで、夫の言葉を思い出す。あれは、啓子が産まれた夜のことだった。
それなら、どうして。
岸に掴まる。指が土に食い込む。
それなら、どうして帰ってきてくださらないんですか。四人の子供を、どうやって連れて行けと言うのですか。
息を吐きだす。水を吸った着物が、私をまた川へ引きずり戻そうとせんばかりに重い。
「お母さん!」
弘子が啓子の顔を押さえつけながら叫ぶ。既に啓子は弘子の小指に噛みついていた。自分より小さい啓子を、倒れた弘子は押しのけることすらできない。
「啓子!」
啓子は大きく口を開けたまま、ぴたりと動きを止めた。
【続く】