人生5回目のフルマラソン「第2回神戸マラソン」~2012年11月18歳の挑戦~
【人生5回目のフルマラソン】
それは2012年11月に走りました。
第2回神戸マラソン。当時18歳。
社会人1年目。再び走っていました。
【引退覚悟のレース】
2012年3月。
「第34回大阪42.195kmフルマラソン大会」
in長居公園 で引退をする予定でした。
そして奇跡的に優勝することができて
有終の美を飾り、現役引退した…
はずだったのですが、再び走り出す。
それはフルマラソン優勝直後。
当時ヲタク活動をしていた僕は
NMB48の握手会に足を運んでいた。
その時NMB48所属で僕の推しメン
「矢倉楓子」が放った一言が心に刺さる。
あれだけ大勢のファンが居る矢倉楓子。
自分も大勢の内の1人だと思っていたが
僕の目を見て、握手してくれた際の一言。
『マラソンがんばって!』
自分から言わせた訳ではないため、
自分を認知してくれてたことが嬉しくて
感動。その言葉は僕の人生を動かしました。
また言われたい。頑張ろう。
マラソンを続ける理由。
そこに、頑張る理由ができた。
【暇な社会人】
大手企業は今から振り返れば
さすが!っていう感覚でした。
社会人1年目はほぼ100%定時退社。
しかも定時は17時00分までで帰宅。
家に到着するのは18時00分頃で、
夕食は20時30分頃でしたので、
めちゃくちゃ暇な社会人でした。
夢を持たず、やりたいこともなく。
とりあえずTV番組とDVD鑑賞の日々。
見たい!と思ったものは全部見た。
もうやることがない。どうしよ??
身体がモンモンとしてくる。
そっか。近くに住吉川がある。
走りに行こうかな。
15kmくらいをサクッと走る。
自由に汗を流すのが楽しくて
市民ランナーさんと並走したら
爆走して抜かす。これも最高。
もうちょい、もうちょい、もうちょい。
走りたい欲が少しずつ増していった。
顧問の先生の目が無く自由に走れる。
これもまた最高。ジョギングが楽しい。
そうしていると神戸マラソン!
エントリーのお知らせが目に入る。
出場してみよう。ノリと勢いで申込。
【神戸マラソンに向けて】
走りたい時に走る。
遊びたい時は遊ぶ。
寝たい時はとことん寝る。
欲望のままに過ごす日々が続いた。
何か試合にエントリーしてみよう。
8月 第2回神戸復興の町リレーマラソン
個人フルマラソンの部に出場。
これは1周約450m×94周回する大会。
普通はリレーで複数人で完走を目指す。
けど自分は個人の部つまり1人で出場。
3時間51分くらい完走に時間を要した。
次に10月マラトレ長居公園に出場。
これは長居公園15周のフルマラソン。
練習会の大きいバージョンな大会。
毎周チョコレートを食べながら、
休憩しながら完走を目指して走り
4時間12分程で完走をした。
【猫ひろしのカンボジア代表宣言】
刺激を受けたのは、
猫ひろしさんの存在。
当時、芸人として活躍中だったのが
カンボジア国籍を取得後、
オリンピック代表選手になる!
という大きな夢を宣言された。
月間走行距離という単語を
人生初めて聞くことになりました。
月間走行距離って何なの??
自分は全然走ってないやん!!
初めて知る世界基準の存在でもあり
その後を大きく崩す原因にもなった。
平均したら毎日30km走ってる⁉️
うそやろ。そんなに走るん!?
その為には時間を捻出しなきゃ。
これまでの帰宅後ランニングから
会社から家まで走って帰ろう!!
約17kmある道のりを走って帰る。
足りなければ、住吉川(1周約5km)
をぐるぐるプラスしてジョギング。
そろそろインターバル走も
やってみたいなー。
みなとのもり公園へGo!!
そろそろ神戸空港まで
走りに行きたいなー。
自宅からGo!(往復約30km)
好きなように走り込んだ…
【試合前の故障】
試合が近付くと不安と焦り。
きっと、その感情に支配され
痛みを感じないようにしていた。
高校時代、大きな故障経験はなく
きっと大丈夫。問題ない。
自分は怪我なんてしない。
って思い込んできました。
でも走り込みの量を増やすと
身体のどこかを痛めるんですね。
右足首。やられました。
フルマラソンはめちゃキツイ。
この足首で完走できるんかな?
自己新を目指すのは無理だろう。
じゃ、サブスリーは目指そう。
【第2回神戸マラソン】
2012年11月、社会人1年目。
18歳。すでに5回目の挑戦。
今でこそ10代フルマラソンは
普通な感じになってきてますが
当時18歳で走るなんてタブー。
実業団選手も駅伝があるから!と
フルマラソンに挑戦しておらず、
マラソンはスピードが無くなるから
挑戦してはいけないものだ!という
価値観が常識だった時代でした。
先頭からスタートしたい!
それだけで9時から本番のところ
朝7時にはスタート地点に並ぶ。
いざスタートすると
サブスリーのペースメーカーさんを
頼りに、その背中を追い駆けて走る。
西脇工業OB、報徳学園OBと書いた背中。
自分も神戸科学技術OBと書きたくなった。
正直レース内容については
これも記憶喪失してるんですね。
でも生まれ育った街・神戸を
全力で走る体験は最高の喜びで。
初めて走る都市型の大きな大会。
これまでの長居公園とは異なる。
その空気感や、風は心地良かった。
最高すぎるやろー!!もう興奮。
テンションあげあげを覚えている。
それと30km過ぎまで
ペースメーカーと共に走ってると
ペースメーカーさんが合図を出す。
「いける人はいってください!!」
前へ出よう!余力ある状態だったので
そこからは自分のペースで走り抜いた。
結果は2時間52分。
サブスリーは達成できた。
ペースメーカーのお兄さんは
きっとタイムが少し速かったから
30km過ぎで調整したのでしょう。
フルマラソンを走り切れたこと、
神戸の街を走り切れたことが、
ほんとに嬉しかった。
【マラソン熱がヒートアップ】
年末年始、再びまったり過ごす。
健康ジョギング程度にだけ走る。
それも束の間。
セカンドインパクトが発生した。
神戸マラソンが終わり約1ヶ月後
建築士が使うような黒色の筒と、
新聞紙が自宅に届けられた。
中身を見てみると((((;゜Д゜)))
『年代別19歳以下の部 優勝』!?
松井一矢の文字と、表彰状だった。
両親と共に喜んだのを覚えてる。
やるやん!運が良い!!
自己ベストより5分も遅いのに
10代では僕だけがサブスリー達成者で。
ダントツ優勝。嬉しかった。
そこから、もうちょい頑張れば
もうちょい速く走れるかも??
速く走ってみたい!欲が出た。
再び出場を決めたのが
「第35回大阪42.195kmフルマラソン大会」
大会2連覇するぞ!気持ちが入った。
【市民ランナーとの関わり】
高校卒業以来、1人で走り続け
誰かと一緒に走ってみたい!
そう思って当時のSNS「mixi」で
出逢ったのが 兵庫RC というチーム。
走ること自体を楽しんでるチームで
市民ランナー同士の交流の場でした。
段々、人との関わりが増えていき
もう、それが楽しくて楽しくて。
ランレッスンを受けるのも楽しい。
おしゃべりジョギングも楽しい。
ちょっと追い込みインターバル走も。
リレーマラソン出場も楽しい。
その後の宴会も楽しかった。
走り続けてきて良かったぁ!!
これからも走り続けたいと思うと共に
もうちょい速く走りたい気持ちも沸いた。
【人生の分岐点】
まさに第2回神戸マラソンにて
年代別優勝は人生の分岐点。
関わる市民ランナーからは
ランニングコーチの依頼が届いたり
一緒に走ろう!という声掛けあったり。
今に繋がる きっかけ が動き始めました。
まさか10年後、こうなってるとは…
当時の自分が描く想像の外に今居ます(笑)
翌年3月。
第35回大阪42.195kmフルマラソン大会
この試合でも奇跡は起きたのでした…