脇見歩きのつぶやき:星の宮
発見 星の宮
2022年6月に、初めて池田市まで自転車で行き、五月山周辺の市街の様子を見て回りました。ハイキングコース手前のふもとの街道筋西へ下るあたりに、明星太神宮と掲げられた鳥居が。えっ!日本に星の神?をまつる神社があるんや、とびっくり
何故かというと、そもそも記紀神話には、星の神がほとんど出てこないのです。それは後でまた述べるとして・・・・
鳥居を抜けると、由緒の立て札と、小さな境内の門に、星の宮、とあります。
ご由緒です。
以前は、この星の宮の左右に九頭竜稲荷と庚申を祀る社が並んでいたそうです。
日本書紀の記述
日本書紀によると、応神天皇が中国の呉に使者を派遣して絹機織(はたおり)裁縫の工匠を求めた際に渡来した呉服(クレハトリ)・綾織(アヤハトリ)両名の織姫が、当地に居住して機織・裁縫・染色の技術を伝えました。 二人の織姫が到着した時にはすでに応神天皇は崩御されており、仁徳天皇に奉ってこの地で亡くなり、仁徳天皇によって祀られた、とのことです。
しかしながら、日本書紀には、星々がやってきて織殿を照らしたことに関する記述はありません。
後日、2022年11月に、関連スポットが気になって、クレハ神社とアヤハ神社を探しに行きました。
呉服(クレハ)神社
阪急池田駅南口を出て線路沿いに西へ少し行くと、通りに呉服神社の大きな鳥居があります。
さらに200mほど進んで斜めに左折。呉服神社の正門です。
正門を入って正面が拝殿です。
きらびやかなステンドグラスの装飾が目を引きます。七五三祝いの旗があちこちに。折々の祝祭日には人手が多そうです。
主祭神は、呉服大明神と仁徳天皇
付近の町名表示を見ると、呉服(クレハ)町、姫室(ヒメムロ)町など、まさしく織姫の町です。呉服(ごふく)は、このクレハに由来するそうで、由緒ある呉服屋さんがあるそうです。
穴織宮伊居太(アヤハノミヤイケダ)神社
こちらは、たどり着くのに苦労しました。
五月山動物園の南にあるのですが、ひっそりと隠れておられるようで、五月山にハイキングに来る人は多くても、こちらを訪ねる人はあまりなさそうな雰囲気です。ドライブ~ハイキングコースから一筋外れた坂道の左に、見逃してしまいそうな階段があって、途中に穴織大明神の鳥居がありました。
元々は伊居太(イケダ)神社だったようです。さらに階段を上ると、神門があって両脇を随神が守っています。
拝殿の奥に見える本殿の形が特有で、全国唯一の千鳥唐破風寄棟造りの三社造だそうです。
御祭神は、穴織大明神(あやはだいみょうじん)、応神天皇(おうじんてんのう)、仁徳天皇(にんとくてんのう)ですが、境内にはたくさんの摂社があります。
両神社とも、天正7年(1579年)の織田信長と荒木村重による有岡城の戦いの戦火に巻き込まれて社殿が焼失し、その後、慶長9年(1604年)に豊臣秀頼によって本殿が再建された、とのことです。
猪名部の民
ここで、脇道にそれます(後で関係してきます)。
尼崎市北端、猪名川支流右岸に猪名寺廃寺がありますが、日本書紀のこの織姫の段の直前に、この付近の現在の尼崎市北部から伊丹市・池田市あたりに居住していた、大工を職能とする猪名部の民の祖先に関する記述があります。
要約すると、
伊豆の国に船を造らせたが朽ち果てて使えなくなった。そこで、これを薪として塩を焼き、諸国にたまわって船を造らせた。諸国から集まった500艘の船が武庫の水門(みなと)に集ったが、この時、新羅からのみつぎの使いが共に武庫に宿っていた。そして、新羅の宿りから失火があり、集っていた多くの船が燃えてしまった。これを聞いた新羅の王が驚いて、腕の良い大工をたてまつった。これが猪名部らの始めの祖である。
とのこと。
ニギハヤヒの東遷
さて、記紀では、即位前の神武が東征にあたって、情報通の塩土老翁(しおつちのおじ)から
「東に美土(うましくに)があり青山が四周している。そのなかへ天磐船(あまのいわふね)に乗って飛び降りた者がいると聞いたことがある」ということを聞きます。
飛び降りた者はニギハヤヒで、神武はそこに都を作ろうとされた。
地上に降り立ったニギハヤヒは中つ国の先住者長髄彦(ながすねひこ)の妹を娶り、後に日向から東征してきた神武と戦うことになります。このことから中つ国(地上)には、先行した天津神がいて、それが高天原に反抗する勢力の存在となったことが暗示されます。
先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ:神代から推古朝までの事跡を記した史書。序に蘇我馬子らが勅に奉じて撰したとあるが、実際には平安初期に編纂された)では、ニギハヤヒの天降りの詳細が記載されています。
森浩一氏の「敗者の古代史」(角川新書 202年9月)の第一章 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)と長髄彦(ナガスネヒコ)から、「先代旧事本紀」の記述の関連部分を抜き書きさせてもらいます。
記紀神話の星の神
そもそも記紀神話に、星の神はほとんど出てきません。
ずばり、星の神と名指されている神は、日本書紀(つぶやき:本文と、一(ある)書 第一、第二・・・の記載がありますが、本文にはなく、「一書に曰く」として出てきます)に、アマツミカボシまたの名をカカセオ、として出てきます。
出雲の国譲りの話です。
大国主命が治めるところとなった葦原中国(アシハラナカツクニ)へ、天孫(ニニギノミコト)を降臨させようと、皇祖神たる高皇産尊(タカミムスビノミコト)が、葦原中国をご覧になると、いまだ騒乱状態にあった。(つぶやき:古事記では天照大御神が司令塔の役割をしているが、日本書紀では高皇産尊が司令塔となって、天孫降臨の準備を整えている)。そこで、他の神々に葦原中国の平定を命じるが、平定を命じられた神々は懐柔されて帰ってこない。
最後に、フツヌシとタケミカズチを派遣することになります。
どうも、ここに出てくる星の神は、高天原にいます神々にまつろわぬ部族の長であったようです。
記紀神話で星の神々を避けた理由は、まつろわぬ部族が星を祀っていたからであって、船を操る部族において、遠洋において航海上最も重要な案内役は、星々であったことは間違いないと思います。