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ごまめのごたく:山田の周辺(2)

しばらくは、'note'の続きです。
あちこちの脇見歩きで面白いものにぶつかると、また小さなわき道に入ってしまいます。そのうちにどこにいるのか分からなくなって、大きな本道に出会うことを願いながら、さまようことになります。

関連する地域を、今昔マップで示しておきます。



佐井寺と山田寺

「脇見歩きのつぶやき:山田という所」の流れで、「茨木童子の素顔に迫る」を読み直して、山田別所で出会った伊射奈岐神社に関連する記事を拾ってみました。 

『 別所の南西二キロメートルに「佐井寺」がある。天平七年(735)、行基創建と伝えられ、十一面観音を本尊とし、ここにも「伊射奈岐神社」が鎮座する。』

佐井寺

Wikipediaを参照すると:
佐井寺(さいでら)は、大阪府吹田市佐井寺にある真言宗の寺院。山田寺(さんでんじ)とも号する。本堂の十一面観音とあわせて、境内の薬師堂の薬師如来も信仰を集めている。
寺伝によれば天武天皇6年(677年)道昭の草庵が起こりで、道楽・行基と相承。 天平7年(735年)2月16日、行基が裏山の瑞光に気がつき、その地を掘ると栴檀香木の観音像が出現したのでこれを本尊とし、詔を得て伽藍を草創し、坊舎60余院となる。

飛鳥の山田寺について

 Wikipediaより
山田寺(やまだでら)は、奈良県桜井市山田にある法相宗の寺院。山号は大化山。本尊は十一面観音。一般的には、かつてここにあった古代寺院を指す。蘇我倉山田石川麻呂の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成した。法号を浄土寺または華厳寺と称する。中世以降は衰微して明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となった。その後、1892年(明治25年)に小寺院として再興されている。
 「日本文化の歴史」(尾藤正英 2000 岩波新書)によれば、
興福寺の仏頭は、もと685年に完成された山田寺の本尊で、のちに興福寺に移された、と推定されるそうです。

釈迦ヶ池

さて、佐井寺の東ほぼ1km、JR岸辺駅の北西1kmちょっとのところに釈迦ヶ池があります。 

調べてみたサイトの記事を少し引用させてもらいます。(保護されない通信、となっていたので、アドレスは引用しません)

『 釈迦ヶ池
 吹田市内では最大級で、またおそらく最古(醍醐寺雑記に言及があるという)の溜池。中世の半ばには存在していたらしい。近世の文書や絵図には、ほとんどの場合「大池」として記されている。また、明治初期のプロシア皇孫遊猟事件を報じた新聞には「字吹田大池」とするものもある。

ここから紫金山・竜ヶ池・岸辺一帯は、旧石器時代から縄文・弥生時代にかけての遺跡・遺物や、古墳・窯蹟等、佐井寺方面の須恵器窯蹟等と共に、吹田の最初期の歴史を示すものがたくさんある。』

すごく、いろいろ書かれているのですが、「プロシア皇孫遊猟事件」というのが分からないのと、「紫金山」という山の名前が引っ掛かります。


プロシア皇孫遊猟事件

<Wikipediaより>
ハインリヒ・フォン・プロイセン(ドイツ語: Heinrich von Preußen, 1862年8月14日 - 1929年4月20日)は、プロイセン及びドイツの王族、海軍軍人。

釈迦ヶ池遊猟事件
1879年5月、海軍士官候補生時代に大日本帝国を訪れ、皇族として待遇され歓迎を受ける。また、この際に明治天皇に謁見している。接待役には蜂須賀茂韶があたった。
翌1880年2月7日、大阪府島下郡小路村(現・大阪府吹田市岸部北)の「禁猟制札の場所」である釈迦ヶ池(吉志部神社のある紫金山の背後に位置する)で、当時神戸に滞在していたハインリヒは、禁猟区域であるにもかかわらずお供を連れてお忍びで鴨猟をしていた。そのため、皇孫だということを知らない七尾村の井田元吉がハインリヒを殴打した。このことに立腹したプロイセン王国側が、その翌日、皇孫に対して不敬のふるまいがあったとして、大阪府ならびに外務省に抗議を申し入れたため、外交問題に発展した。談判の結果、同月14日に至って、大阪府庁と吉志部神社で「謝罪式」が行われ、関係者13名が処分され落着した。

しかし、明治初期の外国人居留地からの(だと思うのですが)高貴な方の、遊猟という行動は、日本国としてはどういう立場であったのか、よくわかりません。宿題です。
 
こういうことを調べている矢先、梅田へ所用で出たときに、紀伊国屋書店の新刊書のコーナーに、「ききがき おおさか北摂すいたの民話」という本が山積みにされていました。即決で購入して読み始めています。

岸部という地名

この本で紹介されている「どんじ講」という話(「どんじ」は、吉志部神社(きしべじんじゃ)で行われている収穫祭)に、吉志俊守(きしとしもり)という長者が出てきます。釈迦ヶ池の大蛇退治の話です。

それで、岸部という地名の由来を検索すると、こんな立派なサイトがありました。よくできてます。

紫金山

付近のコバノミツバツツジが紫金色に染まることから紫金山と呼ぶ、といわれているそうです。今昔マップon the webなどで、紫金山という山の名前が見いだせないので、昔から名をはせていた山ではなさそうです。釈迦が池のすぐ南で、付近は紫金山公園として整備されています。

ここから真北、数kmほど離れた、茨木市福井に、紫金山古墳があります。この古墳が発見されたのは、1942年のことで、誰がこの名前を付けたのでしょうか。やはりここも以前から紫金山と言われていたのでしょうか。やはり、コバノミツバツツジの名所なのでしょうか(紫金山古墳も大変興味深いのですが、それは置いといて・・・・)
よく分かりませんが、単純に「紫金山」と検索すると、長江(揚子江の下流)流域の、蘇州と南京の間にある、紫金山がヒットします。

紫金色てどんな色

では、「紫金色」というのは、よく用いられる和名色なのでしょうか。調べるとそうではなさそうです。

茶の湯などで使われる銅器の色で、大正時代に新潟県燕市の銅器製造の老舗、玉川堂(ぎょくせんどう)で偶然見出された色のようです。

このメーカーの商品紹介によると、紫金色の急須は40万円もします。

ということは、吹田~茨木が地元の著名人で、燕市近辺や茶器に関して縁のある人が、紫金山という名前の由来にかかわっているのでしょうか。

ちなみに、銅器の生産ということでは、茨木市の南にある東奈良遺跡は、弥生時代の青銅器製作工房で銅鐸などが製造されていました。

さらに、冒頭に示した今昔マップの明治の地図の上部右寄りに、道祖本(サイノモト)という地名があります。道祖神(サイノカミ)は、外部からの災厄から守護するために、地域の境界に祀られる神で、イザナキが黄泉の国のイザナミを封じる(塞ぐ)ときに力を貸した神です。そのサイノモトの南南東5kmほどのところにサイデラがあります。

だんだん、推理が妄想に近くなってきました。面白いことはまだあります。

 玉川堂のある燕市のすぐ西に、弥彦神社があって、茨木童子の説話によく似た鬼の説話が伝えられています。弥彦神社のある弥彦山には銅山があって、そのおかげで燕市で銅器生産が盛んになった、とのことです。
 
 また、燕市の南西、長岡市の古志郡(旧地名)にある軽井沢(上高地の軽井沢ではない)は、茨木童子生誕の地として有名であり、この地には茨木姓の人がすごく多いそうです。

古志(コシ)という地名と吉志(キシ)という人名に何か関係があれば、面白いのですが・・・・妄想です。