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ごまめのごたく:歴史の断層と交流


はじめにー茨木市福井というところ

 千里丘陵の探索から茨木とアジアの関わりへ、好奇心の赴くままに探索してきたのですが、ちょうど、千里丘陵の北側に活断層が東西に入っていて、そこを亀岡街道が横切っているあたり、茨木市福井周辺を実際に現地を歩きながら過去に思いをはせていると、ここは「歴史の断層と交差点」だ、という感じがします。
 もとはといえば、10年ほど前に茨木童子に関心を持って「茨木童子の素顔に迫る」を読んだことからスタートしています。この本から地図を参照させてもらいます。


 本稿に関係するこの辺りの史跡、産業、などを挙げてみます。
 
史跡
 * 新屋坐天照御霊(にいやにいますあまてるみたま)神社:三社あり
 * 紫金山古墳
 * 将軍山古墳(群)
 * 新屋古墳群、海北塚(かいぼうづか)古墳など

産業
 * 鍛冶
 * 二反長音蔵による三島におけるケシ栽培の中心地

人物:大正時代に交差した人たちです。
 * 川端康成:現茨木市宿久庄で3歳から旧制茨木中学3年までを過ごした
 * 笹川良一:小野原(現茨木市、元三島郡豊川村)が自宅。
       川端康成とは豊川村尋常高等小学校の同級
 * 二反長半(にたんおさなかば):二反長音蔵の息子、児童文学作家
       旧制茨木中学で、川端康成と大宅壮一と同窓だった。
 * 大宅壮一:富田村出身、母は福井村の出身。
       旧制茨木中学で川端康成が三学年上に在籍

 今回のタイトル画像は、「福井」の亀岡街道沿いにある、新屋坐天照御魂(にいやにますあまてるみたま)神社の案内道標です。道標に「亀岡街道」とありますが、これは新しい県道110号線で、昔の亀岡街道は、県道より100mほど東側の小道です。この神社は丘陵の山すそにありますが、すぐ南西500mほどの所に紫金山古墳があります。
また、亀岡街道沿い南側約800mに海北塚(かいぼうづか)古墳があって、この辺りから東北東に真上断層が走っています。

安威口から福井方向を臨む

この写真は、亀岡街道の東側1キロちょっと離れて走っている県道46号のバス停、安威口から福井の方向を臨んだものです。右側(北側)が1mほど高くなっていて、高台側に農家があり、南側に水田が広がります。ステップ上になっているところが真上断層で、その延長上、林の向こう側が福井です。

更に向こう側(写真の奥方向、西側)に、坊島断層が走っていて、宿久庄(すくのしょう)あたりで二つの断層が交差しているようです。

歴史の断層


この地が経験した歴史の断層と感じるものをいくつか挙げてみます。
断層A:天孫降臨
断層B:空白の四世紀
断層C:大正時代 
 

断層A:天孫降臨について


 新屋坐天照御魂神社の祭神に関することです。
今回のタイトル画像に上げた、福井の新屋坐天照御魂(にいやにますあまてるみたま)神社の東南1kmの西河原と、西南西1.5kmの宿久庄(すくのしょう)にも同名の神社があります。「新屋」は神社創建当時に知られていた、この地域の名前だと思われます。
 

福井の新屋坐天照御魂神社の御由緒


福井の神社の祭神を見てみましょう。
御祭神:

  • 天照御魂大神(あまてるみたまのおおかみ)
    亦(また)の名

  • 天照国照彦天火明大神(あまてるくにてるひこあめのほあかりのおおかみ)

  • 饒速日大神(にぎはやひのおおかみ)

この、亦の名、が問題です。
 こういう神代史をひもとくと、いくつもの亦の名が出てくるので、すごく混乱します。
 結局は、あちこちの地域で語られ、同じような歴史を背負って同じような役割を担っていた神々は、各地域ごとに伝わった伝承などをもとに名付けられたとするなら、同じ名前である必要はありません。
 古事記、日本書紀では、それを、一つの物語にまとめ上げる作業をしたわけなので、こういう亦の名が沢山あっても不思議はありません。
 問題は、同じような歴史を背負って同じような役割を担う神々が、どこか大きな部族や国からもたらされた場合に、その部族や民族の移動ルートを反映しているであろう、ということです。
それを説明しようとすると(私の理解を整理するためにも)、記紀神話を簡単に(そう簡単でもないんだが)おさらいする必要があります。
ポイントを分かりやすくするために、長たらしい神様のなまえから、よく知られている通称を切り出してカタカナ表記にすると、
またの名は、ホアカリとニギハヤヒです。

天孫降臨のおさらい:
「ごまめのごたく:山田の周辺」も参考にしてください。
角川文庫に、「新版 古事記 現代語訳付き」があったので、参考にしましたが、神々の名前がすごく長たらしくて、漢字もすぐに変換されず、読みにくいので、よく使われる短い呼称をカタカナで書くことにします。

天孫は天、つまり天照大御神、の孫です。
天上と葦原中国(あしはらのなかつくに)との間ですったもんだの取引があった後に、
天照大御神と高木神(たかきのかみ)の仰せによって、天照大御神の御子オシホミミノミコト
「今、葦原中国を完全に平定し終わったと報告があった。したがって委任したとおりに、葦原中国にお降(くだ)りになって統治しなさい」
と仰せられた。
仰せを受けた太子のオシホミミノミコトが答えて、「自分が天降ろうとして装束を整えている間に子が生まれました。
名はニニギノミコト、この子を降すのがよろしゅうございましょう」と申した。
この御子は、オシホミミノミコトが高木神(たかきのかみ)の娘と結婚なさってお生まれになった子であり、兄にホアカリノミコトがおり、次がニニギノミコト、二神である。
そこで、オシホミミノミコトが申されたとおりに、ニニギノミコトにお命じになって、
「この豊葦原の水穂の国は、お前が統治すべき国である、とご委任があって授けられた。だから仰せに従って天降りなさい」
と仰せになった。

この後、アメノウズメがサルタヒコの神と対峙する話があり、
つぎに、ニニギノミコトの天降りに従う神々のリストがあって、これらの神々の職能などの説明があります。

 ここで、神々のリストに挙げられていない、豊受大御神を示唆する次の一文が挿入されています。
「次にトユウケノカミは、伊勢の外宮として、渡相(わたらい)に鎮座の神である。」
この一文以外に、古事記ではトヨウケノカミについて、全く記載されていません。
つまり、古事記の物語の流れとして、ここに記載する必然性がないのですが、伊勢にすでに祀られていたことが、当時、承知の事実であったので入れておいた、という感じです。

 ここで、なぜオシホミミが、先に生まれた兄ホアカリノミコトではなく、生まれたばかりのニニギノミコトがふさわしいとしたのか、
という疑問が残ります。
また、ホアカリノミコトについて、その後どうなったかについては、全く書かれていません。

 さて、ニニギノミコトは「高天原の玉座を離れ、天の浮橋に浮島があったので、そこに高々とお立ちになって、そこから筑紫の日向の高千穂の聖なる峰にお降りになった。」

ホアカリノミコトの系譜


ここから述べることは主に、
伴とし子氏の「ヤマト政権誕生と大丹波王国」新人物往来社2011年
を参考にしています。

 この本では、天橋立の宮津市にある、丹後一の宮 「籠(この)神社」が所蔵する国宝「海部(あまべ)氏系図」及び「海部氏勘注(かんちゅう)系図」に、始祖としてホアカリノミコトが記載されていること、を重要視されています。
 この海部氏系図では、天照大神の皇子オシホミミノミコト以下は、
オシホミミ ー ホアカリ ー ホホデミ ー ・・・・
です。
これに対して古事記では
オシホミミ ー ホアカリ 
        ニニギ ー ホデリ
              ホスセリ
              ホヲリ ー ウガヤフキアヘズ ー 神武
となります。                   
ホアカリノミコトの子孫のことは全く書かれていなくて、天降った弟のニニギノミコトの子孫に関することしか書かれていないわけです。            

神武東征:ニギハヤヒとの遭遇


 古事記の記述
 神武天皇が東征して「進軍していると、ニギハヤヒノミコトが参上してきて、天つ神のご子孫に、『天つ神の御子が天降られたと聞きました。そこで自分も後を追って下ってきました』と申し、天上界の所属であったしるしの玉を献上してお仕え申しあげることとなった。」

 日本書紀では
饒速日(ニギハヤヒ)は、天孫のニニギノミコトが高天原から地上に降ろされる前に、すでに天の岩船から飛び降りて大和の地に入った神とされています。

 海部氏系図や先代旧事本紀では、ニギハヤヒノミコトのまたの名として、ホアカリノミコト、アマテラスミタマノオオカミを挙げており、
これらは、新屋坐天照御魂神社の御祭神として挙げられている、長たらしい漢字表記も含めてほとんど同じ名前になっています。

 このことは、大和政権成立と同時期に、この新屋(福井周辺)の地に、丹後の勢力を背景とした人々が進出してきたことを示しているのではないでしょうか。
 大和政権と友好的な関係であったのかどうかまでは分かりませんが、ホアカリノミコトやニギハヤヒノミコトを祭神としているので、敵対勢力として抹殺されたわけではないようです。

 森浩一氏の「敗者の古代史」角川新書2022 では、「先代旧事本紀の記事やゆかりの古社の存在から見て、ニギハヤヒこそ北部九州から東遷を実行した人物であり、その伝承を取り込んで神武東遷の逸話が成立したことがうかがえる。」と書いています。

 ニギハヤヒがホアカリノミコトと同一かどうかはともかく、大和朝廷成立の前後に、神武以外の勢力が、北部九州や丹波、丹後にあって、少なくとも何らかの交流や争いごとがあったことは、歴史の流れとしては当然でしょう。
 記紀神話では、触れたくない交流や争いは記述せず、最後は神武に従ったという流れを前面に押し出して物語が進められています。
これも当然のことでしょう。
 ここに、実際に各地域で起こった出来事の記述としての歴史と、神話(で語られている、もしくは、神話体系の変遷)の歴史、との間の断層があるわけです。

ご由緒
福井の新屋坐天照御魂神社に戻って、そのご由緒を見てみましょう。
社伝によると:
 「新屋坐天照御魂神社は、第十代崇神天皇の御宇、天照御魂大神が現在の茨木市福井の西の丘山(日降ヶ丘)にご降臨され、
同七年九月、物部氏の祖である伊香色雄命(イカガシコオノミコト)を勅使として丘山の榊に木綿を掛け、しめ縄を引いて奉斎したのが創祀」とされています。

ごまめのつぶやき

 
ここで述べられている、天照御魂大神が降臨された西の丘山(日降ヶ丘)とはどこでしょうか。
 ひょっとして、紫金山古墳なのかもしれません。紫金山古墳は4世紀前半の築造とされており、この地域の古墳としては一番古いものです。
また、この年代は、中国に記録が見られない「空白の4世紀」と言われている時代です。
 紫金山古墳については次回としますが、この福井~安威地域の古墳時代の重要性は、地域の考古マニアの間ではよく語られているようですが、全国区には浸透していないようです。
 天照御霊神社や、ニギハヤヒを祀っている神社を検索すると、奈良や京都に有名な神社があるのですが、新屋坐天照御霊神社は「茨木」と指定しないと出てきません。
 郷土史を「地域おこし」から「全国区」へ・・・