これは友人の話なのですが
この定型句は、話しにくい自分の話につける枕詞、という共通認識があるので、字義の通りに使うのも恐縮ですが、本当に友人の話なのだから仕方がありません。
『行かない』のニュアンスで使われがちな『行けたら行く』もそうですが、言葉通りの意味よりも言外の意味が肥大化してしまった定型句は、字義通りに使いたい場合に使い辛いことこの上ありませんね。
さて、冗長な前置きも僕の本意ではありませんから、愚痴はこの辺で。
これは友人の話なのですが、その友人には彼女がいました。
過去形なのは、やがて別れてしまったから。
別れた後、友人はひどく落ち込んでいました。
彼女には
『あなたは優しいけれど、何を考えているかわからない』
と言われてしまったそうです。
そこで友人は、自分の何がいけなかったのか、彼女の友人の女の子に尋ねることにしました。
俺はいつも、彼女の意思を尊重した。
行きたいところも彼女に合わせたし、彼女の好きなものを好きになろうとした。きっと優しい彼氏だったろうに、何がいけなかったのだろうか、と。
女の子は言いました。
あなたはきっと、彼女に嫌われたくなかっただけ。だから彼女の意思を尊重することしかできない受身人間になってしまった。
その意気地のなさ、自主性のなさに『優しさ』という名前をつけて、自分を守っているだけだ、と。
全てが彼女の意思で、好きなものも全て彼女と同じなら、彼女からして見れば、鏡に写った自分と付き合うのと同じこと。
自分の動きを真似するだけの鏡。あなたはそれと同じなのだ、と。
友人はそれを聞いてひどくショックを受けたようでした。
自分が優しさだと思っていたものの下卑た正体を指摘されてしまったのですから、無理もないことです。
女の子の明け透けな物言いが相当に応えたのでしょう。それから友人は変わりました。
人間、変わろうと思ってもなかなか変われるものではありませんから、それは凄いことだと思います。
しかし、自主性も感情も、出し過ぎればそれはもう我儘でしかありません。友人はやがて、幼稚な我儘を振りまく人物になっていきました。
友人はこれまで、誤解を恐れずに言うなら、いてもいなくても変わらないタイプの人間でした。
そんな毒にも薬にもならなかった友人が薬になろうとした結果、行き過ぎて毒になってしまったというところでしょうか。なんとも哀れな話です。
アリストテレスは『中庸』を説きました。
勇気とは無謀と臆病の間にある、というものです。
善い自主性というものも、従順と我儘の狭間にあるのかもしれません。
大学生になり、友人は上京しました。
すっかり自分勝手な人物になった友人は、関西の大学に進学した女の子とも、そのまま疎遠になったようです。
ある夏、友人は久しぶりに帰省をする事になりました。旧交を温めるべく、何人かに宴会のお誘いをしたようで、その便りは女の子の元にも届きました。
それを受け、女の子はこう返信したそうです。
『いいね、行けたら行くよ』