流行ソシャゲの構造解釈
昨今のソーシャルゲーム(以下ソシャゲ)についてしばしば思うことがある。
提督、プロデューサー、マスター、先生、トレーナー、etcetc…
これらの主人公はどれも、多数登場するヒロインキャラクターより“立場が上”の存在として描かれている、ということだ。
モチーフは違えど、これらは構造的に捉えればどれもほぼ同じである。
ピカチュウとピチュー、マルスとルキナくらい同じである。
構造的視点
ではなぜ、これらのソシャゲはこんなにも類似してしまうのだろうか。
それを考察するのが本記事の目的である。
まずはソシャゲの構造について考察していく。
1.鮮度が大事
ソシャゲというのは常に鮮度を保たなくてはならない。
仮にどれだけ面白いゲーム性のソシャゲだったとしても2-3ヶ月に1度しかイベントをやらないようではすぐに廃れてしまうだろう。
それはなぜか?
話題性や新規プレイヤーの誘致など、理由は数多挙げられるだろうが、ここでは
「一部のヘビーユーザーが運営にもたらす収益が看過できないほどに大きい」という点から論じさせていただく。
ヘビーユーザーは時間または金銭、もしくはそのどちらもをソシャゲに注いでいる。ついでに心血も注いでいる。
そのおかげでヘビーユーザーたちは常にゲームの最前線に君臨することになる。無論、シナリオは更新の度に読破し、ヒロインキャラは追加の度に入手する。
このヘビーユーザーからの収益が大きい以上、彼らを手放さないことがソシャゲが長く在り続けるための要件であることには疑念の余地がない。
つまり、運営はヘビーユーザーたちが飽きるより前に新しいシナリオを、キャラを、ステージを出さなくてはいけないのである。
その結論として、ソシャゲに求められる要件の一つに「高回転で新規のシナリオイベントやガチャイベントを更新すること」が挙げられるということだ。
するとどうなるだろうか。
答えは簡単な話で、ヒロインキャラが増えるのである。
3人くらい出てくれば最低限話が回るアニメやマンガとはワケが違う。
プレイヤーに周回させ、課金させ、飽きさせないためにはキャラクターの絶対量がそもそも必要になってくるのである。
2.キャラクター別のシナリオ
これはギャルゲーの要素でもあるものの、アニメやマンガとの対比という文脈から、ソシャゲの構造として論じることとする。
この手のゲームにおいて、プレイヤーはメインのシナリオをプレイすると同時に、それぞれのヒロインの個別シナリオをプレイすることができる。
しかしここで問題になるのが前述したヒロインの多さである。
同時並行的に多すぎるヒロインとのシナリオが進むというのは直感的に違和感があるからだ。
そこで、主人公を「彼女たちの上に立ち、彼女たちを統べる存在」であると位置付けることで、その違和感をいくらか緩和したのだろう、というのが僕の考察である。
イメージとして特にわかりやすいのが「先生」である。
先生は多数の生徒の相談に乗り、多数の生徒と信頼関係を築くだろう。それは現実でもゲームでも同じことである。
つまり主人公を「先生」、ヒロインたちを「生徒」と位置付ければ複数の生徒との同時多発的なシナリオも違和感なくプレイヤーに受け入れられるだろう、ということだ。
精神的視点
ここまでは冒頭に述べた構造がソシャゲにとって都合がいい理由を挙げてきた。
しかしこの構造がウケたから、それを踏襲し、模倣する形で後続のソシャゲが誕生しているわけである。
つまり、この構造が流行る原因として、「ソシャゲ的にこの構造の都合がいいから」という理由の他に、「この構造のウケがいいから」という理由も明確に存在するはずなのである。
本章では、この構造がウケた理由について考察する。
1.主人公とプレイヤーの同化
これは非常にわかりやすく、また象徴的でもある。
要するに、トレーナーもプロデューサーも先生も、顔がないのである。
彼ら主人公は主人公であると同時に作品世界に息づく住人でもある。
つまり、当たり前だが作品世界の他のキャラクターたちから見れば顔もあるし声もあるはず。
しかしその作品世界を切り取って映し出されるゲーム画面にはそれらの描写が一切出てこないのである。
それはなぜか?
それはプレイヤーが、自身と主人公とを重ねられるようにである。
顔が違えば、声が違えば。自分と主人公を同一視することは難しいだろう。少なくともそれらのファクターによって同一視するためのハードルがあがることは必至である。
つまり、この手のソシャゲにおいてプレイヤーは自分と主人公を同一視し、主人公を媒介として作品世界に入り込むのである。
そして入り込んだ作品世界で、ヒロインたちとの絆を深め、感動を共有し、愛やら恋やらを育んだり育まなかったりするのである。
2.好かれる理由の補強
「○○は俺の嫁‼️」と豪語していたオタクは平成に置き去られ、やってきた令和の新時代。
そこに跋扈するのは「○○ママ〜‼️」とオギャる成人済みオタクどもである。
ここに見てとれるのはオタクの自信の喪失という傾向である。
彼らはヒロインに対して嫁と旦那という対等な立場に立てるとはもはや毛頭思っていない。
自分がヒロインと釣り合っていないと認識した上で、ヒロインをママに見立ててオギャることによって無償の愛の享受を正当化しているのである。
重ねてにはなるが、つまり昨今のオタクの傾向として「ヒロインと対等になれない精神性」を挙げることができる。
自分にそれだけの魅力と理由があるとは思えないから、僕を含めた現代のオタクはヒロインからの無条件の矢印に不信感を抱くのだ。
さて話はようやく繋がるわけだが、この手のソシャゲでは、プレイヤーの分身である主人公が、ヒロインから見れば「スカウトしてくれたプロデューサー」であり「頼りになる先生」である。
このような『文脈』が関係性の中にすでに存在しているので、多くを語らずとも主人公が好かれる理由は明確に存在しているのである。
これにより自信を失った現代のオタクたちも、ようやく師と弟子という不均衡な関係性ながらヒロインたちと不信感なく絆を育んでいくことができるのだ。
これがこの手のソシャゲが流行ったことへの精神的視点からの解釈である。
余談
さて、ソシャゲの主人公は好かれなければならないので、前述したようにヒロインたちを統べる立場となり、さらに言えば優秀であり有能となった。
しかしここで問題が一つ。
優秀すぎる主人公は、それはそれでプレイヤーと乖離してしまうのだ。
なぜならソーシャルゲームをやるような我々プレイヤーは決して優秀すぎたりすることはないからだ(暴論)。
そうなるとプレイヤーは、というか少なくとも僕は自らを主人公から切り離し、俯瞰的にストーリーを眺めることになる。
キャラクターが好意を寄せている“プロデューサー”はあくまでも自分ではなく、1人の人格あるキャラクターとしての“プロデューサー”であると再解釈するのだ。
僕は彼と彼女のイチャイチャを画面越しに見ているにすぎない。
そんな彼らのイチャイチャを見るために石を買い、ガチャを回し、凸を進めるのである。
自信を失った令和のオタクはヒロインと対等になれないどころか、本来プレイヤーの分身であったはずの主人公とさえ対等ではいられないのだ。
つまり、ソシャゲの構造を考察し導かれた一番の結論としては
「令和のオタクには自信がない」
というところだろうか。