客に「店番」を任せる雀荘のはなし
「明日の午前中に店番をお願いしたいんです…」
私がよく通う雀荘は、店主がほぼ一人で運営している。セットと呼ばれる貸卓と、フリーと呼ばれる麻雀の両方の運営をしている、ありきたりなお店である。
ただ、そのお店には従業員がいない。ひとりだけ在籍しているけれど、その人は気ままに出勤するという塩梅なので、ほとんどの時間を店主ひとりが捌くことになる。つまり店主には限りなく「自分の時間がない」のである。
そこで、幾ばくか気心の許せる私に、白羽の矢が刺さった。「明日の午前中に店番をお願いしたいんです…」と。
「ヒマだ…暇すぎる…」
私は午前10時にお店に入り、照明ボタンの位置を手探りで探す。麦茶を冷蔵庫から出して、あとは予約済みのセット客を待つのみなのだが、そこで分かったことがある。
この仕事は「ヒマとの勝負」だと。
客同士は談笑しながら麻雀をしているのだが、私は何もすることがない。たまに「楽な仕事をしたい」という声を聞くが、少なくともヒマな仕事というのは「楽」ではなく「苦痛」の部類に入ると私はそう思う。
一応、小説を持ってきたので読み更けてはみるが、読み更けた割には時計の針はなかなか進まない。きっと心のなかでは時間に過敏になっていて、読んでいるようでいて心は明後日なのだと思う。
ぼーっとしているのも嫌なので、いままで意識を向けなかった店内に目配りをしてみた。
壁紙は黄色く、床は黒くにじんだ付着物が所々にへばりついている。ソファーにあるマットは年単位で掃除している様子はなく、受付の椅子にはマスターの汗を強烈に放つ服がぶん投げられている。水回りは他に比べれば綺麗だが、三角コーナーの交換がいつ行われたかは分からない。
マドラーの水はずっと濁っていて、ドリンクサーバーの上はたくさんの埃が被っている。雀卓にはたばこの灰が隅々に落ちていて、点棒のパネルは指紋だらけ。とどめの一撃は、壁を這い歩くあの虫。そうあの虫だ。
ヒマな私はこれらを時間の許す限り、掃除していくのだが、冷静に考えればこんな店に通い続ける必要はない気がする。近くには清潔でサービスのよい大手があるのだから、そこに行けばいい。しかし、そういう気にはなれない。
その理由は、店主の人柄だ。
大手になくて、個人店にあるもの。それは『人』だと思う。
大手にないわけではないが、個人店の凝集性にくらべればやはり個人店のなあなあさには勝らない。客風情に「店番をさせる」なんてのがいい例で、こんな依頼は普通飛んでこないのである。
店主は、おおらかで誰にでも気配りが利く。場末の店でトラブルが起きないのはその問題解決力の鋭さで、単に人柄では括れない周囲を見る目を持っている。そうなると、客は「この店を存続させたい」と思うのである。
私もその一人。
これは何も雀荘だけでなく、それぞれが考える「居場所」にも通じることではないだろうか。そんなことを思った1日だった。