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2.大叔父はなぜ海軍に志願したのか

そもそも、大叔父はどのような人物で、どのような人生を過ごしたのだろうか。大叔父はちょうど100年前の1921年6月8日に高知県幡多郡清松村養老(現高知県土佐清水市養老)生まれ。この年の出来事は、日英同盟の破棄や原敬首相の暗殺、中国共産党の設立大会が上海で開催されるなど。同じ1921年生まれの有名人は、ソニー創業者の盛田昭夫さんや、ノーベル賞受賞の南部陽一郎さんなど。
父はサンゴ漁の漁師だった千代松。母は梅野。長男だった。幼少期より体が大きく、地域の相撲大会では連戦連勝だったという。両親の漁業を手伝いながら高校を卒業した後に1938年6月1日に佐世保海兵団に入隊。日本海軍4等機関兵となった。靜雄17歳の年だった。

ちなみに、祖父は靜雄が硫黄島へ向かう途中に乗っていた輸送船がアメリカ軍の攻撃で撃沈されて亡くなったと聞かされていた。また、海南島上陸作戦・スラバヤ沖海戦・ソロモン海以外の詳細の戦歴はよく分かっていなかった。そこで今回、厚生労働省社会・援護局に旧海軍の履歴等の開示請求と戦没状況についての問い合わせを行った。

申請書

申請するためには下記の資料を準備する必要がある。そして、厚生労働省社会・援護局宛に郵送で申請を行う。

①申請書(上記写真参照)
②申請人の本人確認書類(運転免許証など)
③申請人と対象者の親族関係を示す資料(戸籍など)
④申請人の住民票(30日以内に発行)

請求から約2ヶ月で旧海軍から継承された人事記録の写しが送られてきた。また、戦没状況についての回答もあった。これによって、靜雄の戦歴が判明した。資料には、1日単位で非常に細かくどのような任務に就いており、どこにいたのかが記載されていた。(ちなみに陸軍の方の開示請求を行う方は各都道府県への申請になるとのこと。)
※参考URL
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000093051.html

軍歴

靜雄は入隊の後、1939年2月10日からの海南島上陸作戦に参加していたらしいのだが、厚生労働省社会・援護局から送られてきた記録には1940年4月以降の乗船記録しかなく、残念ながら不明だ。だが、1938年11月から妙高に乗船していたという記録があるため、海南島上陸作戦への参加は間違いなさそうだ。

1941年にはパラオに着任。パラオを根拠地にフィリピンのダバオ攻略作戦の支援に従事し、日本軍のフィリピン攻略成功に貢献した。1942年3月にはインドネシアのスラバヤ沖海戦に参戦。イギリスの重巡洋艦エクセター・駆逐艦エンカウンター、アメリカの駆逐艦ポープを撃沈するなど活躍した。また同年4月にはトラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク諸島)に着任。トラック諸島を拠点にソロモン海海戦に参戦。アメリカ海軍の旗艦であるヨークタウンやレキシントンを大破するなど大いに戦果を挙げた。この時の活躍が称えられ、連合艦隊司令長官山本五十六から感状をいただいている。

感状

日本軍の敗戦のきっかけとなったミッドウェー海戦にも参戦。アリューシャン攻略作戦の支援を行った後、ガダルカナル島奪回作戦へ参加。第二次ソロモン海海戦を戦った。1943年2月8日。海軍徴用船「龍田丸」に乗船し、トラック諸島へと向かう途中だった際に、アメリカ軍潜水艦の雷撃を受け、沈没。伊豆諸島御蔵島沖で戦死した。

祖父に、厚生労働省社会・援護局から届いた開示結果を見せたところ、大変興味深く眺めていた。
ちなみになぜ靜雄は海軍に志願したのだろうか。しかも機関兵というのは、戦艦が沈む時に最も生き残る確率が低い。祖父に質問したところ、靜雄がある時こんなことを言っていたと教えてくれた。

「もし平和な時代になったら、国際航路の機関士となって、世界を股にかけて仕事をしたい。だからいまは、戦艦に乗って機関士としての経験を積もうと思っているんだ。」

靜雄の夢は叶うことがなかった。生きていればどんな活躍をしただろうかと大変残念に思う。

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