「三菱の至宝展」に行ったら三菱創業四代のことが知りたくなった②彌之助編
前回は創業者岩崎彌太郎についてご紹介しました。
今回は2代目岩崎彌之助についてご紹介します。
2代目 岩崎彌之助
父彌次郎と兄彌太郎が投獄されたとき、4歳だった弟の彌之助は国内で漢学に親しんだ後、21歳でアメリカに留学し翌年には兄が創業した三菱商会に入社しました。
彌之助は企業が文化芸術に対して貢献することの社会的な意義や企業が社会的責任として行う芸術支援の意味をアメリカ留学を通して学び、軌道に乗った三菱商会の資本の多くを投じて文化芸術への出資を行いました。彼の収集した作品群は静嘉堂創設のベースとなっています。彌之助の収集事業には主に3つの特筆すべき点があると感じました。
廃れ行ゆく文化の支援と救出
彌之助は明治期に廃れつつあった文化に対して様々な支援を行いました。今回の展示では主に廃刀令によって海外流出の危機にあった刀剣類、廃仏毀釈によって破壊行為に晒されていた仏教美術品などが挙げられます。このような廃れゆく文化に対して行われた支援はフェノロサと岡倉天心が行った古美術品の調査よりも早くからスタートしています。
同時代の芸術に対する支援
彌之助は廃れゆく芸術作品の保護を行う一方で同時代の作家に対する支援にも積極的でした。自身の留学経験から画家の海外留学に対して積極的な支援を行っており、3年間のイギリス留学を経験した原撫松もその1人です。明治期の日本において本格的な油絵を身につけた原は留学準備として岩崎家が所有していた作品の模写を行うなど、岩崎家と深い関わりを持ちながら画家としての習熟を深めていきました。
彌之助は京都岡崎で1895年に行われた第4回内国勧業博覧会の目玉であった東京と京都の日本画家による屏風の制作に大きく関わっており、東京側から出品する画家の選定を行い、京都側の作家に対しても資金的な援助を行っています。N.37《龍虎図屏風》は彌之助の出資によってこの博覧会に出品された作品の1つです。
学術的資料価値に基づいた収集活動
美術・工芸の作品が私たちに喚起させる感覚的な美しさは、その作品が持つ美的価値の判断基準として適応されることがあります。つまり、我々により美しいと思わせる作品がより優れているという価値判断です。しかし、作品に対する価値判断は1つではなく、なかには審美性で判断できない学術的な価値感によって価値付けられる作品も存在します。
古典籍が持つ精緻に整えられた組版や僅かな違いから多様な印象を生み出すタイポグラフィは私たちに感覚的な美しさを想起させるかもしれませんが、その度合は絵画作品のようなイメージが持つインパクトと比べれば劣ることが多いでしょう。しかしながら、本展覧会で公開されている古典籍はどれも史料としての価値が非常に高く、周代から伝わる写本や宋代に作られた字書、史書、医書、思想書など、当時の文化をいまに伝える唯一無二の古典籍がこれほど良い状態で残されていることは非常に稀有なことです。このような、史料としての価値、より広義に捉えるならば学術的資料価値を専門家の知見を十分に取り入れながら適切に判断し、機を逃すことなく貴重書を蓄積してきた功績は非常に大きなものです。
次回は三菱一号館竣工当時の社長である岩崎久彌についてご紹介します。