サくら&りんゴ #42 真夜中の不思議な音
目に見えない物の存在
そんなもの
あるに決まっている
人間の目に見えている物なんて、たかが知れているんだから
湖畔の家存続の危機は変わらず続いていた。
しばらく連絡がない弁護士にメールを送った。
返信ではまだ色々計算が進行中とのこと。難航気味である。
少しでも役に立ちそうな資料を探す。
何時間もかけてできる限りをメールに添付して送る。
気が付くと日が暮れそうになっていて、ぐったり疲れている。
ここカナダオンタリオでは、緯度が高いせいで東京の倍速で日が経って行く。ホントにそう思っている。
毎週木曜日に来るチラシがまた、ドライブウェイに投げ込まれているのだから。目を通そうとカウンターに置いたばかりだと思っていたのに。
そんな風に恐ろしいくらいアッいう間に一週間が過ぎてゆく。
もしこの家を出なければならないとなると、その期限まであとひと月半である。
秒速でホームレスとなる可能性。
不安である。
そんな夜中
メキメキメキっ
階下で音がした
何?
耳を澄ます。
しんとしている。
それは度肝を抜くような大きなものではない。
しかしちょっと奇妙な音。
例えばカラになってつぶした水のプラスティック4Lボトルが元に戻ろうとしているような。
つぶしたのは今日だったか、もっと前だったような気もするけれど。
そう思いめぐらしているとまた
メキメキメキ。
なんせ真夜中に突然、階段手摺のガラスが崩落したことのある夫の手作りの家である。
今度は何が起こっているのか。
仕方がない、崩壊となる前に見にいかなければならない。
メキッ。。。メキ。
それはキッチンから聞こえてくる、確かに。
灯りを点ける。
あたりを見回すもシンとしている。
すると
またメキっ。
振り向くと
かすかに揺れたトマトが私の目を捉えた。
動いた?
そこにあるのは夫のお気に入りだった大きな大きな木製の器。
その中にあるチェリートマトのひとつが、
ゆらりとしたように見えたのだ。
目を凝らしてトマトを見る。
裏庭ガーデンで収穫したばかりのトマトたちは、まだみずみずしい色を放ったまま山盛りになってじっとしている。
その時、決定的な音がした。
メキっ~
そしてトマトたちがごそりと動いたかと思うと
木製の器にパッカリ大きな亀裂が入ったのである。
マジ?
それは私が両手を回して届くほどの大きな器で、木の幹をくり抜いて作られたものである。
こんな風に割れるの?。
トマトの収穫の後、水に濡らしたせいかもしれない。
私は木造の家がたてる音のことを思い出したした。
材木になってもなお、ひとつの家になってもなお
木はまるでまだ息をしているかのように時折音を立てる。
夫のお気に入りだったその木製器は大小さまざまあって、夫の故郷アメリカ・バモントでクラフトマンが作ったものだ。一番大きい物はいったいどんな太さの幹から作られたのだろう。
まだ生きて、ここにいたのね。
わたしはアパラチア山脈の深い山々に思いを馳せた。
それはある夏夫と見た、悲しいまでに遠くて美しい風景。
幾重にも連なった蒼い稜線が脳裏に蘇える。
大丈夫。あなたがいることわかっているから。
私は器をそのままにしてベッドに戻った。
湖畔の家を売らなくてはいけないかもしれない。その不安や怒りは私を捉えて離さないのに、それが現実のはずなのに、なぜか水の中で見る映像のようにそれは時折他人事となる。
もう不安でいることにも、怒ることにも力尽きたからかもしれない。
私はブランケットを引っ張り上げて左向きになる。
ベッドは広すぎて
手を伸ばしても端には届かない。
翌朝起きると、その木の器は何事もなかったかのようにキッチンカウンターにのっかっていた。
中を見ると昨夜の亀裂はもうどこにもなくなっていたのである。
かつては自分の目に見えている物だけが確かなものだと思い込んでいた。それが不確かな物となったのは、夫とその最後の一年を過ごしたせいである。