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パナマホテル/日本人であってはならなかった時
知らないでいること
それがただの無邪気ですまされないことがある
無知であるがために人を傷つけてしまうことだってある
アメリカ・シアトル
Tacoma空港のバゲージクレーム
私はスーツケースが下りてくるのを待っていた
アメリカの西海岸、ワシントン州
初めてのシアトル
そして初めての、海外一人旅
空港の外は曇り空
私はスペースニードルというタワーにほど近い場所にホテルを取っていた
私にはぜひとも行きたい場所があった
この旅の目的はそれだけと言ってもいいくらいだった
それはパナマホテル
もう10年も前の話である。
ジェンの九州旅行
遡ること20年。私はある少女と出会った。
場所はカリフォルニアのL.A.
名まえはジェン。
家を初めて訪問した時、彼女はまだ9歳で、買ってもらったばかりのフルートに夢中だった。まだおぼつかない音を、でもうれしそうに披露してくれたっけ。
お母さんはチェコ出身のユダヤ系アメリカ人。
お父さんは日系アメリカ人だった。
そのお父さんレイは、見た目があまりに丸の内で見かけるビジネスマン風で、初めて会ったときはてっきり
いや~これはこれは!遠くから来ていただいて
なんて日本風にお辞儀をしながら挨拶をしてくれるものだと思っていた。
ところが実際は
Hi OOO!
そう私の名を呼んで大きく両手を広げた。
あ、アメリカの人だ、そう思った。
だからアメリカ人だって言っているじゃないと、心の中でひとり突っ込みを入れた私である。
レイは、お父さんの世代が日本からカリフォルニアに移住した日系二世だった。
両親が日本生まれ日本育ちであるのに、レイがひとことも日本語を話せないのは奇妙な事であった。英語が母語でも、私が日本人と見ると大抵日系の人は、いくつかの片言日本語を披露してくれるのである。
あるいは住んでいる家の中には何かしら日本の物があって、それは日本の物であっても微妙に日本での雰囲気とは違うのだけれど、移民の世代が近いほどそんな日本の色をそこここに残している。
だがレイにはそんなかけらもない、まるっきりのアメリカ人だと思った。
さて、それから10年ほどたったころ。
ジェンはボストンで医学生になっていて、東京に住む私のところにホームステイにやって来た。
彼女にとって初めての日本。
やって来たジェンは9歳の頃の快活なまま、素敵な女性に育っていた。
大きな目はお母さんから、
黒髪はお父さんから受け継いで、
小柄な体はエネルギッシュに富士山の登頂も果たした。
そんな中、九州大分にあるお父さんの故郷を訪ねるという計画が彼女の中にあることを知っていた。そして親戚に会うと言っても、父レイを知るのは90歳を超えた大叔母さんだけだということも。
お母さんやお父さんは大分に行ったことがないの?
そう聞くと
パパは生まれてからただの一度も日本に来たことがなかったの。でも数年前に初めてママと一緒に日本旅行をしたのよ。大分にも行ったはず。
またジェンが
お母さんが日本の料理を調べて作ってくれるの。だってお父さんは日本の事何も知らないから。
と言うのを聞いて私はひどく残念に思った。
何代も前ならともかく、レイの両親は日本で育っているわけで。どうして自分の子どもであるレイに日本語を教えたり日本の文化を伝えたりしなかったのだろう。家の中で日本語を話さなかったのだろうか。
私はなんだか日本の事が大事に思われていない気がして寂しくなった。
そしてレイの両親は、そしてレイも、日本に対していい感情を持っていないに違いと勝手に思ったのである。
ホームステイも終盤になるころ、ジェンは大分行きの日程を組んだ。私が親戚のおじさんに電話して、ジェンの新幹線到着時刻を知らせた。博多まで迎えに来てくれると言う。
ところが無事新幹線に乗ったかなというころ、ジェンから電話がかかってきたのである。
大丈夫かな?
いつになく、か細い声が聞こえてきた。
列車がトンネルに入ったらしく通話が途切れる
再びつながって
大丈夫よ、ちゃんと連絡しておいたよ。
そう言うことだと思ってそう伝えたら、電話の向こうからは、元気いっぱいのジェンとはまるで違ったナーバスな声が聞こえてきた。
ほんとにいいのかな、私が行っても?
レイが何十年も行くことができなかった日本。六十年余りの月日を経てやっと踏んだ大分の土。そんなよそ者の娘である自分が受け入れてもらえるのか、そんな不安であることが分かった。
心配しないで。おじさんがちゃんと迎えてくれるから。
私だって会ったことのない人たちである。
私も不安になった。英語もどこまで通じるのかわからない。そして唯一レイを知ると言う大叔母さんはいったいどんな人なのだろう。遠く太平洋を渡った地に行ってしまって全く会えない兄弟であるレイのお父さんを、どんな風に受け止めてきたのだろう。
色々な事が不確かなまま、ジェンを送り出してしまった。上手く会えるといいのだけれど。
そんないきさつがあったのだが、東京に戻って来たジェンはとてもうれしそうに、大きな目をさらに大きく開いて大分でのことを話してくれた。
親戚中の人が集まって自分を迎えてくれたこと。
それは優に20人は超えていたこと。
食べきれないほどの食事が大きなテーブルに並んでいたこと。
家のお墓にも連れて行ってくれたこと。
そして最後に大事そうに折りたたんだ紙を私の前に差し出した。
それはお菓子か何かの包み紙で、すでに折り目のいっぱいついた紙を広げると、裏側に縦書きで達筆な文字が流れるように連ねられていた。
それは大叔母さんの手紙だった。
英語が話せないから、東京に戻ったら訳してもらってくれと言うことらしかった。
私はその日本語を目で追った
ジェン
あなたが来てくれて本当にうれしかったです
あなたを迎えることができてよかった
これからはあなたが来たいときに、いつでもいらっしゃい
ここはもうあなたのおうちですから
そんな風に書いてあったと思う。
私はジェンに伝えながら声が震えた。
それと同時にジェンは大泣きした。
余りに嬉しくて
そしてほっとして。
私は心の中で、日本の事を何も教えなかったレイの両親の事を責めていたが、何かの事情があって、そしてでも大叔母さんはレイのお父さんを許して、許すどころかきっと初めから悪くなんて思っていなかったのではないかと、そんな風に勝手に考えた。
何も知らなかったから。
レイが、カリフォルニアの日本人収容所キャンプ内で生まれたのだということを知ったのは、その少し後の事だったと思う。
パナマホテル
シアトルの中心を抜けてビジネス街を過ぎたあたりにパナマホテルはあった。
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ホテルと言っても今は宿泊の運営はなく一階はカフェスペースになっている。
![](https://assets.st-note.com/img/1646185926693-Q5YoOeWMMI.jpg?width=1200)
そのカフェの一部と地下にそれらは展示されていた。
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カフェのインテリアと一体となっているものもあれば、雑然と並べられているものもある。
展示されているもの、それは日系のアメリカ人たちが置いて行った持ち物。
第二次世界大戦、真珠湾攻撃があってすぐ、アメリカ政府の発令で敵国の人間と言う理由でキャンプへと収容された日系人たち。収容所に持って行くことができずに、このホテルに保管を頼んだ所有物が、今も持ち主が戻るのを待っているのである。
亡くなったり、他のキャンプ場に移されたりしたのだろう。持ち主が来ないまま、その多くが今もこのパナマホテルに残っているのだ。
そのことを知ったのは、自分の経験をもとに書いたというチャイニーズアメリカンJamie Fordの小説、Hotel on the Corner of Bitter and Sweet
![](https://assets.st-note.com/img/1646190575668-e5AvN6LxUE.jpg?width=1200)
そこにはまだ若すぎる二人の淡い恋物語が描かれている。主人公の男の子はチャイニーズアメリカン。そして女の子は日系アメリカ人。女の子がキャンプに収容されることになって二人の仲は引き裂かれるのである。
そして私はこの本の中で、ひとつの衝撃な事実を知ることになった。
日系人はすべて捕らわれてキャンプに送り込まれる。アメリカ生まれのアメリカ人でも。敵国にルーツを持つと言うだけで。あるいはスパイ容疑をかけられて。
見た目が日本人と似たチヤイニーズアメリカンである主人公の彼は、母親に日本人に間違われないようにとI am Chineseと言う大きな名札をつけさせられるのである。
彼らは日本人であってはならなかったのだ。
この時である私の心の中で何かがストンと落ちたのは
収容所キャンプで生まれたレイ
彼は日本人ではいけなかったのだ、敵国の民では。
だから両親は収容所を無事出ても日本語も日本文化も教えることがなかったのだ。
アメリカの敵国の人間とならないために。
レイのその後の人生を守るために
カフェのカウンターでコーヒーを頼む
本を読んでここを知ったのだと言うと若いスタッフは
聞いたことがあるわその本
その話に惹かれて来たと言う人が何人かいたわ
ゆっくり展示を見て行ってね
黄ばんだ白黒写真
走り書きのメモ帳
時計
お湯のみ
ぬいぐるみ
ドールハウス
穏やかだった日常
それがある日一変する
日常が続けられようとしたまま時が止まっている
パナマホテルにある物たちは持ち主を待っている
さすがにドールハウスは持っていけないよね~
これを持っていた、多分女の子であろうその子はどうなったのだろう。
またここに戻ってこのドールハウスで遊べると思っていたかな
静かに歩きながら展示を見る
人々が残していった日常の続きを想像しながら
誰だって母語やそれと一緒に身に付いた文化は
ちょっとやそっとでは捨てられない。
たとえ捨てたくてもいったん身に付けたそれらは簡単には捨てられない
けれどレイの両親はそれを捨てざるをえなくて
そしてレイを完璧なアメリカ人に育てたわけで
日本人であってはならない場所と時代があった
そんなこと知らなかった
どうして両親は日本のことを話してくれなかったのかしら、不思議ね。
知らないでいることの罪。
その後ジェンは結婚して可愛い男の子が生まれている。
東京でホームステイしていた時、産婦人科の医者になって人工授精の研究をしたいと言っていて、それではと水天宮に案内した。腹帯の一部を切り取ってお守りにしたものを購入していた。医者になったら自分のオフィスに置いておくのだと。
送ってくれた写真には丸々と太った男の子が写っていて、きっと安産だったに違いない(笑)もちろんとっくに素晴らしいお医者さんになっていることと思う。
Youtubeで
僕はロシア語をもう使わない
ウクライナ語で平和を叫ぶんだ
僕の母国語で
そう言っている男性を見て、ずっと心の中に眠っていた物を掘り起こして再び書くことができた。
人間は12歳以上になると、どう頑張っても母国語以外を母国語とすることはほとんど不可能である。
と言うより不可能である。
人間の脳はそのように作られているらしい。
自分の敵を見分けるために
人間の脳がそのように進化したのだと
第二言語習得を学んでいた時に記事で読んだことがある
その言語と一緒に習得した文化も、言語と同じように根本的な所では塗り替えられないものだと私は思っている。
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